昆明

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昆明(Kunming)
がんばれニッポン

どうしてこうも奇妙な事が起きるのだろう。貴陽を離れた私は今昆明行き323次快客“花渓号”に乗っているのだが、ここ数十分で起こった事はいったい何だったのだろう。

今回の列車は硬臥である。これは日本でいえばB寝台にあたり、少々ベッドは硬いがちゃんと布団も用意されるので、これでも充分快適な旅行が出来る。

列車に乗ると、まず各車両に一人づついる服務員がやって来て切符を預かり、代わりに金属製の鑑札を手渡される。ところがここで私はなぜか30元を請求された。貴陽までの列車ではその様な事はなく、いったい何の為の30元であるのか理解出来ず、またもや常套句を述べた。

「ウォー・シー・リーペンレン(私は日本人です)」
「ニー・シー・リーペンレン(あなたは日本人だよ)」

だからなんなんだとそのままオウム返しに言葉が帰って来た。外国人であるからワカランとシラを切るつもりであった私は、なおもしつこく30元の請求をされていよいよ困惑してしまった。すると他の乗客はちゃんと30元と金額の入った紙切れを所有しており、この服務員のお嬢様に渡している。これだこれだと尚もしつこく30元!とほざくので遂に私は根負けして30元まきあげられてしまった。

このお嬢様は顔つきを見るとあまり漢族らしくなく、もしかすると少数民族かもしれない(今や私は少数民族の大家である)。年の頃なら19、20といったところか。

列車やバスの車掌あるいは服務員は、圧倒的に女が多く、かつ恐い 。彼女らはその職場に於いては小権力者で、乗客は彼女らに従わないならばその場で車外に放り出されるであろう。つまり乗客は“乗せて頂いている”のだ。これはある面では仕方のない事で、仮に乗客を甘やかそうならたちまち自己中心的行動に出る彼らに収拾がつかなくなるであろう。ミャオ族の村でのバスの一件は、そのほんの小さな一例である。

服務員の上にはその列車の最高責任者である車掌がいて、これが大抵カンロクのあるおばさんで、彼女がカミナリを落としたならばどんな強健の荒くれ者も恐れをなして座席の片隅に小さくなってしまう。

理由のわからぬ30元を取られて私は少しく不機嫌であったが、かような理由からこのお嬢様に目を付けられては生命の存続も危ういと判断し、今度はオベッカを使う作戦に出た。彼女が次に私の所へ来たときに、とっておきの笑顔を投げかけてみた。すると彼女もその大きな瞳を輝かせて微笑み返したのである。
こんな事は通常考えられない事で、普通なら、

「テメー、なれなれしく笑うな」

という態度で無視するのが服務員のあるべき姿なのだ。

もはや私は30元の事など遠い忘却の彼方へ蹴り飛ばし、たちまち彼女のファンになってしまった。

事が起こったのは夜9時頃である。
私は通路にある補助席のような折たたみ式の座席に座っていた。すると、後ろの車両からなにやらいかつい態度で足早に、ドアも力まかせに開き放って通り過ぎた男がいた。その一分後、閉めたドアを開けて悲鳴ともつかぬうめき声をあげて、女が私の足元に倒れ込んできたのである。

最高権力者であった。

体をくの字に折曲げ、腹を抱えて苦しんでいる。すぐに麗しき我が服務嬢が飛んできて容体をみるが、事態はかなり悪いようだ。私に横のベッドに寝かせてくれと哀願するのでとにかくその巨体をベッドに移した。

さらに2、3人の服務員の娘がやって来てああだこうだと騒ぎ始める。ヤジウマもどんどん集まってきてあたりは騒然となった。
乗客の中に医学に心得のある風なハゲオヤジ夫婦がいて脈を測ったりしているが、容体はなおも悪く嘔吐を繰り返している。

さっきの男が犯人かどうかは不明だが、何人かの服務員が列車内を調べに行った。
公安の制服も来るが、こいつは覗いているだけで別に何もしない。
ついでに食堂車のコックも来る。

さらに話を聞きつけて全車両の服務員がやって来た。その数、十数人。私の席は服務嬢のオンパレードとなり、不埒にも、私はなんだかうれしくなってしまった。
しかし、そんな呑ん気なことを考えている場合ではなく、最高権力者の方はもはや急を要する様で、列車が次の停車駅に到着すると哀れ担架で運ばれて行った。見送る服務嬢の面々の表情から察するに、相当人望の厚い車掌だったのだろう。

翌朝の車窓にはみずみずしい高原の景色が広がっていた。

雲一つない青空。まだ低い太陽が眩しい。遠くに見える山の峰々はぼんやりと朝靄がかかっている。青々とした木々と緑の大地。腕の高度計は2035mを示している。
なるほど、昆明は私の気に入りそうな所である。

昆明到着まで、あと、30分。

太陽の光溢れる町、昆明。
空は高く澄み渡り、乾燥した大気はすべての物の輪郭をくっきりと浮かび上がらせ、色を輝かせる。

昆明市内の翠湖公園
あちこちで御年配の方々が
京劇のような曲を奏でている。
とてものんびりした気分になる。
雲南省の省都であるこの町は、北緯二五度の亜熱帯に属するが、標高が二○○○mの雲貴高原にあるため一年を通して気候は穏やかな所である。別名“春城”とも呼ばれていて、中国人の憧憬の地ともなっている。事実二月の中旬であるにもかかわらず昼間はTシャツ一枚でいられるほどだ。
上海上陸以来はっきりしない天気が続いていたので、私にはひときわ別世界のように思われた。

しかし私は大理へ急ぎたかった。
カツドンも確かに重要ではあった。だが今まで会う人ごとに皆が大理の雄麗さを賛えるので、どのようなところなのか一刻も早くこの目で見てみたくなっていた。

ここ昆明の昆湖飯店で同室のアメリカ人も、ちょうど大理から帰って来たところで、私が大理の話を持ち出すと彼は、

「ダーリ、うんあそこはいい。これはダーリで買ったんだ」

と嬉しそうに自分の着ているカラフルなパーカーをつまんでみせた。

ここから雲南省の各地へ行くには、大理にしろ、その先の麗江、瑞麗(るいりー)、または南の西双版納にしても必ず最後には昆明に戻って来なくてはならない。
よって昆明を見物するのは後回しにすることにした。

この日、思わぬ出会いがあった。

ホテルの周辺を散策に出かけようと部屋を出たときである。一人の日本人が声をかけてきた。

「あれ?」
「あれ!」

横浜からの船で一緒だったあの“赤いきつね”の田辺である。

「あなたカシュガルに行くと言っていませんでした?」
「いや、何、つまりね…」

と事の顛末を説明する。

彼は予定通り西安、成都と旅をして、昨日昆明へ辿り着いたとのことである。この広い大陸で全く別の旅をしながらこんなところで再会を果たすのだから、これは奇蹟と言ってよかった。
我々はこの邂逅を喜び合い、しばしお互いの旅の経過を報告し合ったのだった。

夕方彼と共にホテル近くのレストランに食事に出かけた。ここは外国人向けのレストランで、トーストやスパゲッティー、カレー、ハムエッグなどの洋食を作って出すので、西洋人達のたまり場になっている。
我々の訪れた時にも狭い店内は彼らで一杯で空いているテーブルが無かったのだが、これこそ神のはからいと言ってよかろう、一人でバルコニーの席に座っているアメリカ人の女と相席になった。
彼女は上海のスティーブと同様中国で英語教師をしていて、今は学校が休みのためこうして旅行をして回っているとのこと。我々が今日感動的な再会をしたことを話すと、彼女は、

「オー!グレイト!」

とかいう調子で開放的にケラケラと笑う。
料理は結構うまく、ビールは冷たく、風は爽やかで、彼女の美貌もあって、暮れて行く昆明の夕食はなんとも楽しいものになった。

翌日は大理へのバスチケットを入手する事以外別段する事もないので、床屋で髪を切ったり、ホテル近くの映画館に入ってつまらぬアメリカ映画などを観たりして過ごした。

この頃になって、何事にも寛容で温厚な私も度重なる中国人達の極悪非道の商法についに怒ってしまった。

ここでも貴陽と同様街頭でパイナップルを売っていて、私は日に三本ほどをかじるのが日課になっていたが、同じ大きさの物が一元であったり六角(一角は0.1元)であったり買うたびに値段が違う。彼らは人の顔色を窺って、こちらが外国人でこのあたりに不案内だと見ると平気でふっかけてくる。
いくらでもないと言えばそうなのだが、それにしても気分の悪いことはなはだしい。

床屋でも、最初に値段を聞いたときには三○元ということであったはずだが(これにしても随分高いと思われるが、相場がわからないので…)支払いの段になって髭を剃ったから四○元だと言ってくる。初めに髭剃りも入れていくらだと聞いたではないかと言っても、いや、カミソリの刃をこれこれ、これだけ使ったからだと言い張る。この間、髪を刈っているときも含めて彼は笑顔を絶やさず実にフレンドリーな応対で、しかしこの笑顔がクセモノで、本当に親愛の情を込めているのか、バカな日本人め!とせせら笑っているのか、どっちともとれるので始末が悪い。
結局相手が一枚ウワテだということである。

このようにして私が中国の奥地へ奥地へと向かっている頃、世界はリレハンメルの冬季オリンピックのニュースで湧いていた。

ここ昆明の昆湖飯店にはうれしいことに各部屋にテレビが備え付けられていて、しかもわけのわからぬ中国内のテレビだけでなく、香港のスターTVを観ることが出来た。
この夜、スキージャンプ団体の生中継を同室のヒッピー風アメリカ人と観ることになったのだが、外国人と一緒に見るオリンピック、しかも我が国の優勝がかかっている場面であるときそれがどんなに面白いものであるか、人は想像出来るだろうか。私はこの時、まさにナショナリズムの権化と化した。

彼がテレビのスイッチを入れるとすでに競技は始まっていた。途中経過はまずまずで、日本はドイツと優勝を争っている。次々と飛んで行くジャンパーを観てこのアメリカ人は、

「こいつら、キチガイだ」

と言って肩をすぼめて、二つの手のひらを上にひらく。アメリカはこの競技は強くないのでさして興味がないのだろう。だが私はこの男の前でぜひとも日本に金メダルを取ってほしいと願った。

一回目を飛び終わってドイツが僅かにリード。日本は第二位。勝負は二回目である。
日本人ジャンパーは西方、岡部が一三五m、一三三mと豪快に飛んで行く。ドイツの二番手デュフナーが失敗ジャンプ。日本三番手の葛西が飛ぶ。一二○mをマーク。ここで日本の優勝はほぼ確実となった。
このとき私はテレビを観ながら、耳ではNHK“RADIO JAPAN”の実況を聞いていた。慎重な表現をするはずのNHKのアナウンサーも、

「もう、日本の金メダルは確実でしょう」

と興奮気味にコメントを発している。

私はアメリカ人に胸を張り、鼻をピノキオのごとく延ばして得意満面の顔をしていた筈だ。アメリカ人がちらりとこちらを見た。

いよいよアンカー、原田の登場である。画面の下に日の丸と、原田の名前が出る。

アメリカ人が、

「オー、ジャパン」

とテレビを指差す。

滑走が始まる。滑らかに加速してゆき、そして、飛んだ。行け!行け!
ゴーと風を切る音。パタリと着地。え〜っ?距離が短い!

アナウンサーも驚きの声。

「これは原田、失敗ジャンプ!」

画面上の原田はうずくまってしまい、立つことが出来ない。
ベッド上の私もうずくまってしまい、立つことが出来ない。

イヤホンのアナウンサーは残念そうにドイツの逆転優勝を告げている。
アメリカ人は別段興味なさそうに振る舞っているが、私の落胆に、「へっ、ざまあみろ」と思っているに違いなかった。ヒネクレ者の私にはそうとしか考えられなかった。
鼻はピノキオどころか6cmばかりへこんでしまい、全身の力はヌケ、頭は発熱を起こした。
事実その夜半、私はくたばってしまったのである。

もっとも何もオリンピックのおかげでくたばったわけではなかった。風邪の悪化である。
体はだるく、頭は重く、猛烈な喉の渇きと吐き気が襲ってきた。ここ数年経験したことのない程の辛さで、しかも最悪なことにこの時飲み水が全くなかった。
備え付けのポットは服務員が夜一○時頃引き上げてしまっていたのだ。むろん、中国の水道は飲むことが出来ない。
急遽秘密兵器“浄水筒”を使用して九死に一生を得たが、この夜はなんと長い夜であったことか。

この浄水筒というのは…、いや、もう長々と説明するのは面倒くさい。勝手に想像して頂きたい。

さて、翌日になっても体調はやはり思わしくなかった。大理へ出発する日であったが、とても長いバスの旅は無理と判断し、やむなくチケットをキャンセルして、ゆっくり休養をとることにした。
ホテルも少し上等な三葉飯店に移り、一泊一九二元と私にしては超豪華なダブルにチェックイン、この一日をただひたすらに眠った。
時々起きてはテレビで中国語版“うる星やつら”を観、DATでローリング・ストーンズを聴き、たっぷりと出るお湯をバスタブに入れて湯船につかると、旅の疲労が溜まっていたのだろう、身も心もまさに洗われるようであった。そして日がなゴロリ、ゴロリ。

この休養が効を奏し、次の日にはなんとか体調の回復をみることになった。夕方のバスチケットもとれ、やっと大理へ出発である。

さて、ここでバスに乗ってしまってスタコラと大理へ向かっても良いのであるが、もう一つ自慢ばなしをしなくては私は話を進める気にならない。大理はすぐそこなので読者諸氏よ、あと数枚ムダ話しに付き合って頂きたい。

正午、フロントでチェックアウトをしていると、ひとりの西洋人がやって来て服務員にクロークは何時までやっているかたずねた。だが、この時の服務員は英語がからっきしダメであった。彼は何度も言い直しているのだが、一向に服務員は解さない。
困り果てた西洋人は、今度は私をジ〜ッと見て助けを求めてきた。
助けを求められても私も困る。だがしかし、ここはひとつテレビ中国語会話の成果を試してみることにした。覚えた幾つかの文を改造し、つなげてこう言ってみたのである。

「ドンシー・ダ・ファン・カイシー・シージェン・ツォン・ジイデン・ダオ・ジイデン」

これを漢字で書くとこうなる。

「東西的房開始時間从時点到時点」

何やら中国語らしいではないか。これがあっているのか、デタラメであるのか、今もって私にはわからぬ。しかし、驚くなかれ、この服務員は私の言わんとしている事を見事に理解したのである。

「アルシースー・ナントカカントカ…」

アルシースーくらいは私でもわかる。つまり“24”だ。

「24時間開いておるぞよ」

私が西洋人にそう伝えると彼は礼を述べてクロークへ向かって行った。
人よ、人よ!私を見くびるでない。

午後六時頃のターミナルは、下関(シャーガン、私は最初シモノセキと読んだ)、大理方面へのバスの便が集中する。中には寝台バスなどというものもあって、これには私の数分前に日本人大学生三人が乗って行った。私は普通のおんぼろバス。
唸りを上げておんぼろは動き出した。

バスは大理へ向けて進む。郊外から見た紫の夜空とオレンジの陵線と漆黒の山、そしてきらめく昆明の街明りが、えも言わず美しかった。


<追記>
1998年の長野オリンピックで、日本の団体ジャンプ陣の活躍は皆の知るところである。
私はこの一件ゆえあの栄光の勝利を涙なくしては見られなかった。



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