麗江

|| TOP | |

麗江(Lijang)
ドクター・フーとプロフェッサー・シュアン

下関発麗江(リージャン)行きバスに乗り込んだのは午前七時五十分であった。同行者はガクシャ河口とメガネ三号福田。我々“タケノウチ”三羽ガラスは竹ノ内に出会った順にメガネ一号、二号、三号と称していた。ちなみに一号は斎藤である。

大理出発。左手に見慣れた三塔を後にする。蒼山連山を左に、耳海を右に見て北上する。喜州を過ぎる。周城を過ぎる。そして、耳海さえも後にする。山道へバスは進入して行く。

10時半、途中休憩。ゆで卵売りや饅頭売りが寄ってくる。乞食が2名。ゆで卵は一個5角。飯屋で料理を二、三品とって簡単に食事。旨くはない。

剣川の町で乗客が増える。この町をあと10キロも行くと大理白族自治州も終わりを告げ、いよいよ麗江地区へと入る。

中国人の荷物がなぜあんなに多いのかわからないが、満員の車内に時としてギョッとする物を持ち込んでくる。
ひとかかえもある松の盆栽を大事そうに運び込むおやじがいる。バスが揺れ、多量の荷物や人で愛しい盆栽が押し潰されそうになるのを、目をつり上げて必死にかばっている。

ばかでかいノコギリを裸のまま持ち込む男もいる。
メガネ三号が持ち前の甲高い声を発する。

「おいおい、お前はナニを持ち込むんだ」

メガネ三号はこの後、うとうとしているうちに眼鏡を落としてしまい、拾い上げるとセルフレームの真ん中から、パリッと割れてしまった。よって、その瞬間から彼はメガネ三号の資格を失なう事となる。

さて私も少しうつらうつらとし、そして気がつくとバスは山から盆地へ降りて行くところだった。菜の花の黄色が眩しい。麗江である。所要時間6時間。

古路湾賓館にチェックイン。14元。部屋は案外設備が良く、カラーテレビもあれば、バス、トイレまで付いている。だが、水は出ない。水洗トイレで水が出なかったらどうするのだ。さらにテレビの電源を入れると、停電。ため息が出た。

三人でホテル前のアリババカフェで遅めの昼食をとった。その後、二人がドクター・フーなる人物に会いに行きたいと主張するので、レンタサイクル屋を探す。しかし今日はあいにくサイクル屋は休みとのことであった。

そこでこれからどうしようかと三人で思案していると、その時向こうから歩道をとぼりとぼりと歩いてくる一人の男が目に入った。
あはは、三人衆の一人、中野である。みんなピーターズカフェに集まっているという。

行ってみると、いたいた、大理で酒を酌み交わした面々である。二、三日振りくらいであるのにずいぶん懐かしい。

再会の談笑の後、彼らとオールドタウンを散策に出かけた。

玉龍雪山を麗江市街から望む
ここ麗江は、標高5596メートルの雄々しき峰、玉龍雪山の麓にある、少数民族、ナシ(納西)族の町。旧市街の通称オールドタウンと呼ばれている地域は、木造の古い民家が(中には日干し煉瓦造りもあるが)びっしりと並び、町はずれにある象山からのこの地区の眺めは、一面屋根で敷き詰められて隙間が見えない。(追記:この後ユネスコの世界遺産に登録された)

その中を石畳の小路がくねくねと不規則に続き、交差している。水路は玉龍雪山の湧水だろうか、澄みきった流れで、水草がゆらゆらと“惑星ソラリス”の冒頭のシーンの様に揺れ動く。この流れは、長江へと続いている筈だ。

情緒ある木造の街並は、やはり我々日本人には安らぎを感じさせてくれる。ときどき通り行くナシ族の民族衣装。

ただ私が思うに、ひとたび火災が起こったなら、手がつけられなくなる危険性をはらんでいよう。

この複雑に密集したオールドタウンをあてどなく散策した我々大理バカサワギ一派六、七名は、ついには方角を見失ってしまい、脱出するのに一時間もかかってしまった。

そして、この近辺には長江の上流が通る。ここではまだ金沙江という名称で、中国の地図を見ていただければわかるが、チベット高原の横断山脈から流れ落ちる激流が大きく蛇行している印象的な部分、ここに麗江がある。

また、興味深いことに、この横断山脈にはアジア有数の大河が集結していて、たった一つの尾根を境に、サルウィン川はビルマからインド洋へ、メコン川はラオス、タイ、ベトナムを通って南シナ海に、長江は中国大陸を横断して上海、東シナ海へと流れて行く。
これらは人の流れ、文化の流れとも密接なかかわりあいを持ち、ある者は尾根を一つ間違えて、とんでもないところに辿り着いたに違いない。そして、そこでまた新たな文化が始まる。

迷路のような"オールドタウン"
夜、ピーターズカフェでは、大理の夜と同じ様な宴が展開された。大理一派のほか、ここで出会った連中も何人かいる。

その一人に宮沢という26歳の、これもまたヨニモアヤシゲな男がいた。

彼くらい旅人、あるいは放浪者と呼ぶのにふさわしい男もそうはいない。彼に比べれば私などまだ若葉マークである。
世界を回って幾数年、しかし過去の自慢話しなど間違ってもせず、肩肘の張らぬ振る舞いと、ウマの様に怪しげな風貌、かと言って人当たりは大層良く、どこか捕えどころのない、まさに風のようにさまよう旅人なのである。
実にアヤシイ。

彼は私が日本に帰って二ヶ月程してもまだバンコクあたりでフラフラしているようで、これからベトナムに行く予定で、帰りはいつになるのか見当もつかぬと“Deep Forest”の海賊テープとともに手紙を送り付けてきた。
実にアヤシイ。

さらに彼は、宮沢賢治の血を引いているという事だ。
何ともアヤシイ。

私はこの男とは妙にウマが合い、これ以後一週間以上も彼と行動を共にすることになる。

店内はまだ停電のため、ろうそくの明りでの宴は、ロマンティックな雰囲気に満ちていた。ワインをとり、ギターでそれぞれのレパートリーを披露し合う。
宮沢がポケットからハーモニカをやおら取り出して吹き始める。

ピーターズカフェにはフーチンとウンツァイという二人のナシ族の娘が働いていて、この二人が我々のテーブルに座り込んで四六時中ケラケラと笑っている。
箸が転がっても笑うとはこの事で、ためしにフーチンの前で箸を転がしてみると、笑いが止まってしまった。

我々は(宮沢と私だけかもしれぬが)特にこのフーチンが気に入ってしまい、宮沢に至ってはフーチンに恋文なんぞしたためたりしていた(やっぱりアヤシイ)。

生まれながらにして男を引き付ける素養を持った女というのはやはりいるもので、この16歳の娘は、あと三年もすれば魔性の女となるであろう。

途中でやっと電気が回復する。明りがついてみると、ろうそくの雰囲気の方がやはり良いということになり、ああバカモノ達、今度はわざわざ電気を消して、再びろうそくの明りで会を続行した。

そのうちフーチンが明日の夕飯の予約をとり始めた。明日はナシ族の音楽会を見に行くつもりだったのでいらないと断わると、しかし彼女は頑として受け付けない。もはや強制である。

それはそうであろう。我々は店を占拠して、十数人で騒ぎ回ったくせに、6元のワインをたった一本しかとらなかったのだから。

ホテルに戻ると電気は回復していたが、まだ、断水。よって、ここで事を済ますと今夜の睡眠に支障をきたすので、外の共同トイレへ行く。
しかしここもやはり断水である。といって悲しいことに人間の生理は待ってはくれない。仕方なく、突撃。

その惨状は、もはや記述するのは不可能である。

翌日は綿密なスケジュールが組まれていた。車をチャーターして、午前中から玉龍雪山の中腹まで行ってウマに乗り、引き返してきて干海子(ガンハイツ)という平原へ行き、ドクター・フーの住む白沙村へ行き、市街に戻ってきて、夜はナシ族音楽会というまるでパック旅行のような一日である。
だが、私が含まれるパーティーで、そうは事はすんなり進まないのである。

中国製の、ランクルに似た八人乗りの四駆に、運転手を含め10人乗り込んでホテル前を出発。

干海子へ続く道
市街を抜けると、すぐに平原が広がっていた。
左前方には高くそびえる玉龍雪山、の筈だったが、あいにく今日は雲がかかって山頂は見えない。舗装された道は真直ぐに山の彼方まで延びている。
途中、ドクター・フーの白沙村を左に見て車は快調に飛ばす。

山道に入って少したつと道はダートになり、そして険しくなる。車は二輪駆動から四輪駆動に切り替わる。高度計は2900メートルを指し、私が今まで登った最高記録をどんどん更新してゆく。

ところが、そのうち車は唸り声に反比例して速度が遅くなっていった。いよいよ止まりそうな速度になったとき、シフトレバーのあたりからケムリが出てきた。

旧メガネ三号が驚きの声を上げる。

運転手のオヤジがやばそうな顔をしてベロを出す。
オーバーヒートである。

仕方がないのでエンジンが冷える間全員が車を降りてあたりを散策。自然は素晴しいが、残念なことに山頂はまだ雲の中である。

結局運転手は今日の予定は無理だと言い出した。

この車は、一日一台300元でチャーターしたわけだが、運転手はこの上の干海子まで行って、そこから戻ってドクター・フーに行き、市内に帰る案を提案した。それで250元でどうだというのだ。
ここで登場、中国語学科の長戸交渉役である。10分程ああだ、こうだと交渉の末、結局干海子のみでドクター・フーなし100元ということになった。

全員乗り込んで再び発進。だがしばらくするとこのボロ四駆はまたしてもストップなのである。もっとも8人定員の車に10人乗り込んでいるわけだから、車のせいばかリとも言えない。

運転手は干海子まであと少しだからみんな降りて歩いてくれと言い出す。

あと少しというのはどのくらいなのだろう。運転手は20メートルと答えた。20メートルといったら、そこである。無論ただの道だ。

「何をいうか、このオヤジ」

と、旧メガネ三号。

しかし、20メートルとは言わず、200メートルほど登ると、眺望が開けた。干海子である。

ここは予想に反して気分の良い平原であった。山小屋なぞ建てて住んでみたい様な所である。
松が所どころ生えているが、その丈の低さから、そろそろ森林限界に近いことを物語っている。
高度計は3200メートルを指している。

「そうすると、富士山の頂上は大体あの辺ですね」

とメガネ一号が目前の小山を指差す。なるほど。

後ろからオヤジの四駆がトロトロとやって来た。全員乗り込んで平原を走る。登りでなかったらこの車は走るのだ。

この平原の中心にあるウエスタン風の牧場小屋で昼食。門の所にはイーグルスの“呪われた夜”のジャケットの様な牛の頭骨がかけてある。

この時の顔触れを名前だけでも書いてしまおう。

“旧”メガネ三号福田、北海道三人衆小室、中野、須田、メガネ一号斎藤、森中…彼はまだ本書に登場していなかったが、Jim'sで彼はエリック・クラプトンなどを弾いていた男で、この後チベットのラサへ発って行った。そう、ラサ森中…これがいい。そして長戸交渉役、ガクシャ河口、そして不肖わたくしことメガネ二号の各面々であった。

そろそろドクター・フーについて説明せねばなるまい。

このドクター・フーというのは麗江近くの白沙村に潜む漢方薬の医者で、その調合する薬を用いたならば、いかなる難病もあらかた直ってしまうというウワサである。

そのウワサといい、名前といい、また写真から伺われる風貌といい、うさん臭さ3拍子揃いの感もあり何だかくだらない男の様に思われたので、私は結局フーに会見を申し出ることはしなかった。

しかしウワサになるということは、何にしても話題性を秘めた男なのだろうし、今にして思えば、やはりこの怪人物に会っておけばよかったと後悔もしている。

それでもフーに会ってきたという好奇心旺盛な旧メガネ三号の話によると、やはり相当いいかげんな男の様である。

妙な薬を持ち出してきて旧メガネ三号に手渡すと、値段はいくらでも良いという。彼はそれならと二元置いてきたそうだが、いくら何でも二元とは少なくはないか。この二人は案外いい勝負のような気がする。

次にフーがすることは、小学生の孫に日本語の歌を歌わせることで、ちょうど学校から帰ってきたその孫をつかまえて、無理やり歌わせたそうだ。

孫は孫で、毎日やって来る旅行客相手に歌を歌わせられるわけで、もううんざりしているらしく、目は客人とはまるで関係のない方角を向き、気のない歌声を彼らに披露してくれたというのだ。

さてそのフーの漢方薬の効力だが、せっかく貰ってきた有難いその薬も、大抵は旅行者の口に入ることなく、ゴミ箱行きになっているのが実情である。

ただ、こんな話もある。

私も知っているある女がフーに会いに行く途中で、なぜか判らぬが体調が急に悪くなり、息も絶え絶えでそれでも何とかフーの家に辿り着いた。
それを見たフーが薬を処方し差し出すと、驚くなかれ、薬を飲んだ彼女はけろりと直ってしまったというのだ。

彼の名誉のためにこれは付け加えておこう。

この日フーに会わずに帰ってきた我々は、午後はたっぷり時間が余ってしまったので、私はメガネ一号と共にオールドタウンに出向いた。

私の目的はドンバ(東巴)文字で印鑑を作ることであった。

ドンバとは、古来からナシ族に伝わる宗教の巫師(シャーマン)、つまり神主みたいなものの事で、この宗教の経典に記される文字をドンバ文字という。
その独特な象形文字は起源を漢字と同じくし、形を言葉でたとえるなら、漢字の“月”という文字が、お月さんの絵から漢字に変化するまでのちょうど中間ところ、と言えば理解出来るであろうか。

私はガイドブックの住所を頼りに印鑑屋を探してみたが、どうも判らず、近くにいるおばさんに尋ねてみた。
するとそのおばさんは、ついて来いという身振りをしてとぼとぼ歩き出した。二人で後をついて行くと、おばさんは一軒の木造の住宅に入って行った。ここが印鑑屋だろうか?しかしそうは思われなかった。中庭に面した縁側でしばらく待たされると、一人の背の低い初老の男が出てきた。

「英語は出来るかね?」

以外にもその男はこう英語で話しかけてきた。こちらがカタコトでも英語を話すことが判ると、男はついて来いと言って狭い急な階段を上がって行く。

何が始まるのだろう。

わけが判らなかったが、とりあえず一号と共に後に続く。二階、三階と上がると、そこは小さな書斎であった。本棚にはぎっしりと書物が並んでいる。

驚いた。それらはみな民族学や民族音楽に関する文献だったのだ。
何者なのだろう、この男は。

この人物、シュアン・クー氏は民族学の学者なのであった。四年前に大学教授を引退し、今は自己の研究とそして例の音楽会を主宰しており、また、日本も含め世界の学者とも親交を持つ、中国民族学の権威なのだ。

氏の輝かしい生涯は、また不幸な生涯でもあった。

第二次世界対戦中には、その卓越した英語力を買われて米空軍の通訳となり、その後音楽大学を卒業してからは民族音楽を含む民族学の学者となり、多くの大学で教鞭をとったが、時代の流れは氏に対して凶悪な牙を剥くことになる。
1958年の“大躍進”政策、それに続くあの中国文化大革命である。

善良な庶民は恐怖のどん底に陥れられ、インテリ層は危険思想のレッテルを張られて次々と投獄された。
その悲劇は氏にも及び、1958年から78年まで、実に20年間も強制労働を強いられたのである。

出獄後氏は再び研究者の道に戻るとともに、氏自信でもあるナシ族の伝統音楽を後世に残すために、現在二日に一度開催される音楽会を主宰しているのである。

この席で氏には私の取材要請も快く承諾してもらうことになった。

> フーチン強制の夕食を11名でガツガツと、まるで三日振りに餌にありついた犬のようにたいらげると、我々は音楽会の会場へ出向いた。

ナシ族音楽会(1994年当時)
この音楽会で演奏されるナシ族伝統音楽は、総勢23名の民族楽器によるオーケストラで、日本の雅楽とインドネシアのガムランを合わせたような音色を持つ。
音階はアイヌ民族に伝わるものにも似ているとされるが、胡弓の使用や女性ヴォーカルの甲高い抑揚のある中国式歌唱法によって、やはり中国の香りが漂う。
演奏者は83歳のオーケストラマスターから17歳の若者まで年齢層は広いが、その多くは60歳以上の高齢者で占められている。

二時間に渡る音楽会は、どちらかというとシュアン・クー氏のレクチャーの意味合いが強く、演奏は五曲、正味30分程度のものだったが、私とガクシャ河口の人類学コンビにとっては実に意味深いものであった。
そして、翌日には二人して氏の書斎を訪れ、さらに様々な興味深い話を聞くことが出来た。

翌日三月八日は中国の祝日である婦女節、つまり婦人デーにあたり、町はどこもかしこも民族衣装で正装した女性で溢れかえった。
毛沢東像前の広場では、チャイナドレス姿の女性が大迫力演説をぶちかましていて、ほぼ女性のみで占められた群衆が熱心な表情で聞き入っている。

お固いセレモニーは午前中で終わり、午後からは何百人ものナシ族のダンスパーティーが始まった。

サンユエパー(三月八日)は女の人だけのお祭り
若い娘たちが直径30メートル程の円をいくつも作り、その中心で男がひとり笛を吹いている。日本の祭囃子の笛にも似たその音に合わせ、手に手をとってフォークダンスのように楽しげに踊る。見ているだけで踊りに加わらない女たちも沢山いて、広場は大にぎわいである。

ナシ族の民族衣装はその独特なスタイルがユーモラスで楽しい。その姿は一見剣道着の様でもあり、山伏の様でもある。
背中は亀の甲羅のように羊皮製の“ナシバラ”で覆われ、これを固定する二本のたすきが胸で交差している。ナシバラには七つの丸が横一列にあしらわれているが、これは北斗七星を表現している。
だがもともとこのナシバラは蛙の格好を表わした物で、元来のデザインでは七つの丸でなく、蛙の目玉に相当する位置に大きな丸が二つ付いていた。

北斗七星を愛でる風習は本来漢族の文化であって、やはり文化大革命時の四旧(旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣)排斥運動によって現在のデザインに変更されたという。1930年代、この地方を研究していた人類学者ジョセフ・ロックの資料によると、まだ当時では二つ丸のナシバラが存在していたが、現在では全く見られなくなった。

夕闇が迫る頃、広場に歌の掛け合わせのみで踊る輪が一つ出来た。一人が甲高いファルセットを使ってナシ族の民謡の一節を歌う。その次の一節を他の全員が続けて合唱。それぞれに手をつないで腕を振り、左回りに回る。歌声は、人の顔が判別しにくくなってきた広場に、いつまでも、いつまでも響き渡っていた。

さて、私は次の目的地を決めねばならなかった。

大理一派の多くは大理、昆明と引き返すルートを選択していた。私の場合もひとまず大理に戻り、それから西双版納に向かうというのが順当なところだろう。
しかしひとたび大理に戻ったならば、私はまたしてもドレミレストランでトグロを巻く日々が続くことは明白であったし、事実その誘惑は抗し難いものがあった。

選択肢は他にも二つあった。森中という男がチベットのラサへ向かったと先に述べたが、外国人がラサに入れるという情報はこの地に来て初めて知ることになった。
旅立つ前の日本国内では、チベットは外国人の立ち入りが禁止になっていることは定説であったし、ガイドブックにも確かにそう書いてある。
だがガクシャ河口はすでに前年の夏ラサ入りしているのである。世界の最後の空白地帯といわれるチベットに今なら入れるのだ。

そしてもう一つ、麗江から北へバスで六時間程いったところに中甸(ジョンディエン)という、一年あまり前に解放になったばかりの町がある。解放間もない、ガイドブックにも載っていないこの町に私は興味を覚えていたのであった。

「私、中甸に行きますよ」

ピーターズカフェで私がこの様な思案を重ねていると、傍らでフーチンをからかっていた(からかわれていた?)宮沢が突然ぼそりとこう言った。

大理に戻るも、ラサへ行くも中甸へ行った後でもいいか。

そこへもう一人、大理一派の紅一点、鳥内という名の針の様な女が中甸遠征に名乗りを上げた。これは面白いメンバーが集まった。


私は中甸へ、さらに大陸の奥地へ入り込むことになった。



|| TOP | |