![]() | 上海1(Shanghai) |
| 狂乱のバクチク・ニューイヤー |
|
この紆余曲折とは、以下の通りである。
着いた当日は港近くの一泊二七○元のホテルに泊まり、翌日浦東開発区を見物したり、博物館に行ったりと所帯道具一式をもって街をぶらつき、夕方には西方の音学院の招待所へ辿り着くも断わられ、ここのおやじに近くの教育学院へ行けと言われるままに行って見たが、ここでも『外国人我們不能接』と筆談で断わられ、とっぷりと日が暮れた淮海路をうろつき回り、仕方なく通りがかった一泊五○ドルのホテルに落ち着き、さて金を数えてみると二日間で一万円近くも消費しており、このままでは北京に到着するだけですってんてんになることが判明し、ここで初めて丹念にガイドブックを調べ、翌日一番でやっとこのホテルにやって来たのである。 中国での宿泊施設は他の国とは少し事情が異なり、外国人用と中国人用とに別れていて、中国人用に外国人は泊まることは出来ない(逆に金さえあれば外国人用に中国人が泊まることは出来る)。外国人用ホテルは普通、賓館とか飯店という名前で呼ばれ、それなりの設備(星の数でランクがある)を持っているが、しかし欧米並みの料金をとられる。これは普通の中国庶民の生活感覚からすると途方もない金額なのだが、それでも前記のようにシングル1泊300元(1元はこの時13元)だとかUS50ドルとかいうくらいで、東京やニューヨークに比べればまだ安い。ちなみに上海で働く女性の一ヵ月の給料がだいたい400元位だという。
ホテルの部屋ではシングル、ダブルの他にドミトリーという相部屋がある所がある。貧乏旅行者、バックパッカーの類が泊まるのは大方これで、とにかく料金がやすい。しかし普通の部屋に比べて造りは安普請で、これまた安普請のベッドが数台おかれ、シーツや布団も毎日替えられるわけではないので、他人の使ったシーツに寝ることになったりする。それでも住めば都で慣れてしまえば案外居心地がよいものだ。
さて、ドミトリーの部屋に通されるとそこには片側に3台づつ、計6台のベッドが並べられ、男が二人いた。
一人は日本人の学生であった。二日間事情のわからぬ上海を一人うろつき回ってくたくたになっていた事もあり、久しぶりに(と言ってもたかが二日だが)日本語の通じる人間と出会えてやっと落ち着いた気分になった。彼は今日の夕方列車で昆明に発つという。やはり気候の問題もあって今の時期は南の方へ行く人間が多いようだ。
もう一人の男は細面のアメリカ人で、しばらくベッドで寝ていたが、やがてむくりと起き出すと二つ持っているバックパックの一つから黒いバリッとしたスーツを取り出し、ネクタイをしめて盛装して出て行ってしまった。
一服してあらためて部屋を観察してみると、物干代わりのヒモがぶらさがり、安っぽいベッドや隅々の埃など、さすがにうえ〜という感じであった。しかし一泊、朝食も付いて42元(550円位)というのだから文句は言えまい。
その学生が言うには、中国を旅行する人間は中国が大好きになるか、または二度と来たくないと思うかどちらか両極端に分かれるそうだ。そう言われると私はどうか。正直なところあまり好きになれるとは思えなかった。 |
|
3時過ぎ彼がホテルを発ってしまい、一人部屋に居てもしかたがないので街に出ることにした。
夜になって上海雑技団を観るため雑技場へ行ってみる。が、あいにく大晦日の為だろう、休館であった。しかたなく南京路をあてどなく歩く。午前中通った時には人ごみをかきわける様にして歩いたのだが、すでに人通りはまばらで、車の通りもめっきり減り、街は一年の活動を停止しつつある。人々はもう新年を前にして家に閉じこもってしまったらしい。
路地裏のあちらこちらで爆竹が連発している。そして、時が経つ程にその数が増えていく。
夜の風がひゅるりと寒い。
いよいよ大変な事になった。人々の目つきはもはや正常ではない。ロケット花火が飛び交い、道の真ん中では打ち上げ花火を100発仕込んだ箱型花火が火柱を上げ、タクシーがそれを避けて通る。そのタクシーに何十連発かの筒型打ち上げ花火が狙いを定め、傍らではドラゴンが火を吹き、きゅるきゅるとねずみ花火が人を追いかける。街は火薬の煙でもうもうとしている。
おそらく今中国全土でこのような光景が展開されている筈である。この一日で、いや、数時間でいったいどれだけの花火が消費されるのであろうか。なんともエキサイティングな、なんともあほらしい風習を考えたものだ。
もっとも北京では今年爆竹が禁止されたそうで、この有様を見てはまあうなずける御触れとも言えるが、そうなるとまたどこにでも妙な事を考える奴がいて、爆竹の音を録音したカセットテープが街で売り出されたという。はたして売れ行きはいかに。
この狂乱のセレモニーにすっかり満足した私は、それでも夜中中付き合ってもいられないので少し飽きてきたところでホテルに戻った。
ホテルに帰り、そろそろ寝ようかとベッドに横になっていたところ、くだんのアメリカ人が帰ってきた。一人ではなく、なにやら中国人のオヤジやら若者やら3人をつれて来ている。何事かと思ってポカンと眺めていると、そのアメリカ人、名前をスティーブというのだが、彼から紹介があり、彼の友人のドン・リンと、そのお父さんといとこだという。スティーブは吉林省の東北師範大学の英語教師で31歳、また、ドン・リンは南昌大学の19歳の学生で二人はもう数年来の付き合いだという。
自己紹介方々いろんな事を話しているうちに、この、日中米三国平和会議はやたら盛り上がり、お菓子をつまんだり写真を撮りあったりして随分と楽しいものになった。
外ではまだパパンバリバリと爆竹が鳴り続いていたが、しばらくすると外の盛り上がりも頂点に達し、上海の街は完全に爆竹の音に包まれた。時計は0時を指している。その音たるやこの世のモノとは思えず、おそらく人工衛星から地球を眺めたならこの時、中国の形を形取った爆竹の火花が見えたことだろう。
ドン・リンはつぶやいた。
「バッド・マインド…」 |
|
翌日、スティーブと二人でドン・リンの家の新年会へ行くことになった。正確にはドン・リンのおじいさん、おばあさんの家ということで、今日は親戚中が集まって来ているのだった。
大きなテーブルが出され、様々なごちそうが並べられ、ホットワインで“乾杯(カンベイ)”と相成った。スティーブは中国語が話せるのでいろいろと親戚の人達と話しているが、私はまさか“ニイ・ビイ・メイクイホア…”と言うわけにもいかず、ときどきドン・リンに訳してもらたっりして話す以外、もっぱら食ったり飲んだりしていた。そのうちアルコールがどんどん回ってきて、スティーブと『イエスタデイ』なぞへろへろ唄い始めたりして、すっかり“変なガイジン”と化してしまった。のちに私が日本へ帰ってから送られて来たドン・リンの手紙に、このときのスティーブとの『イエスタデイ』のことが懐かしそうに記されていたが、よっぽど印象に残ったのだろう。それにしても昨日会ったばかりでただガツガツした、わけのワカラヌ日本人にこんなに親切にしてくださるとは、なんとこころ優しい人々であろうか。
宴の後、ドン・リンとスティーブと3人で黄浦公園へ行った。戦前にはここに『犬と中国人は入るべからず』という立て札があったとか無かったとかしばらく前の新聞紙上で論争になっていたが、そんな話が出るくらい当時の植民地支配は非人道的なものであったわけだ。もちろん今はそんな面影など全く無く、公園はきれいに整備され、家族連れや恋人たちの笑顔にあふれている。
三人でぶらぶら歩いたり、写真を撮ったりして正月の午後を楽しんだが、しばらくするとあやしげな空から霧のような雨が落ちてきた。そこで仕方なく我々は戻ることにした。
冷たい雨であった。
|