上海2

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上海2(Shanghai)
我、カツドンを目指す


当初の上海滞在予定は4、5日程度であったはずだのに、結局10日間も滞在することになり、しかもあこがれの目的地であるカシュガル行きさえもとりやめになったのは、ひとえに上海で出会った奇妙な連中にそそのかされたことによる。

ドミトリーには世界中からいろいろ変てこりんな奴らがやってくる。カナダから来た3人組もそのうちの一組で、彼らは実はあの狂乱の大晦日にやってきたのであるが、こちらが挨拶してもめんどくさそうに一言二言答えるだけで、後は3人でぶつぶつ話し合っている。なんだか目つきが悪く、悪ガキ風であるが、といって別段人に危害を加えるというわけではなく、彼らは夜行性でいつも我々が寝た後に戻ってくるため、二日目には気がひけたらしく夜中に部屋を変わって行ったというマナーも心得ていたりする。

上海雑技
ある夜上海雑技を見に行ったときである。入り口で彼らと出くわした。やあ、と私が声をかけると、オー、と目つき悪く答え、そのままどこへか自分たちの席へ消えて行った。 雑技は、つまりサーカスで、筒抜け男やタコのごとく体の柔らかい女、シーソーで少女を飛ばして四連の肩車のてっぺんに乗せる超アクロバットなど案外面白く、これは見ておいても損はない。上海エンターテインメントの最右翼といったところか。

帰り、時間がまだ早かったので私は和平飯店のジャズバーへ行こうとバスを待っていた。そこへまたしても悪ガキ一味が現われた。一人の、特に目つきの悪い奴が、どこへ行くのだと聞くので、

「ジャズバーだ」
と答える。
すると、
「何、ジャズバーがあるのか!」
と興味を示し、そして3人で協議の結果、
「俺たちも行く。一緒にタクシーで行こうや」
と言い出した。なにやら変な事になってきたが、旅は道づれ、なにもことわる理由もない。

上海も上海らしい外灘
和平飯店のJAZZ
和平飯店のある外灘(ワイタン)と呼ばれる地区は、黄浦江のほとりにある19世紀の西洋建築が立ち並ぶ上海の中心部で、その景観は対岸の浦東地区から眺めると、まるっきりヨーロッパのどこかの都市としか見えない。これらは戦前のイギリス、アメリカ租界の置き土産で、和平飯店のジャズは当時の残り火とも言えよう。平均60歳以上の上海ジャズメン“爵士楽隊(ディキシージャズバンド)”が、毎夜トラッドジャズを奏でている。

さて4人でジャズバーに入ると一つ残っていたテーブルに腰を落ち着け、メニューを広げた。私はビールを注文することに決めて、3人組に目を向けると、連中の顔色が変わっている。メニューの値段が彼らの予想を超えていたらしい。
大体ワンドリンク40元から50元位で、一流のホテルのバーだからしてこんなものだろうと思うのだが、彼らは目を三角にしたり丸くしたりして5分程もぼそぼそ相談している。

ついにパタリとメニューを閉じて、
「俺たちは帰る」
と言うやいなや出て行ってしまった。

いったいなんなんだ?ワケガワカラン。

ドン・リン一族の新年会のあと、スティーブが外出するのをあまり見なくなった。
朝から晩までよく眠る男で、しかもあれだけ日中寝ていれば夜は目が冴えてしまうだろうと思いきや、夜も我々と一緒にしっかり眠る。ナマケモノを自認する私も、さすがに彼にはかなわない。それでも彼は、気品のある色男でいかにも教師という感じだが、敬虔なクリスチャンでもあり、さらにニューヨーカーということもあって、カナダ悪ガキ3人組も彼には一目措いている様子であった。

私はすでにこのドミトリーの生活がすっかり気に入ってしまっていて、旅立って行くのがおっくうになり、それよりこのような面妖な連中と生活していることの方が面白く感じていた。

そこへまた一人存在感のある日本人がやってきた。
明神という27歳今年大学卒業という男で、ドスンとベッドに放り投げたバックパックは随分と使い込まれていて、振る舞いも何か歴戦の勇士のごとく思われる。しかし、かといってそれがまるっきり嫌味を感じさせない好青年である。

彼は2年間北京へ国の交換留学で行った秀才で、そんなこともあって卒業が遅れた由。変幻自在に中国語をあやつり、毎日遊びに来るドン・リンとも中国語で討論し合ったりしている。

怪しげなイスラエル人もやってきた。
無精ひげをボウボウと生やし、いかにも世界を旅して回るバックパッカーといういでたちである。だが割ともの静かな男で、その寡黙さがますます怪しげであったりする。

行動も怪しく、一泊すると次の日には発って行ったが、二日程するとまた戻って来て、かと思うと、スティーブが、

「ここは安くていい所だよ」
と言うのにもかかわらず、
「このホテルは高い。他へ移る」
と言い残して再び出て行ってしまった。

「ここより安い所なんて他にあるのかな」
と明神が首をひねる。


一日、蘇州へ行った。上海からは列車で一時間半程である。

列車に乗り込むと、座席指定であるにもかかわらず座席番号がついていない。そこで適当な席に座っていると、一人の女が私に向かって何やらまくしたててきた。何を言っているのか解らんので、

「ウォー・シー・リーペンレン(私は日本人です)」
と困った時の決まり文句を言うと、

「リーペンレン・ナントカゴチャゴチャア…」
とわめき、どこかへ行けと手で私を追いやる。 はて困ったと思いもう一度注意深く車内を観察すると、座席のてっぺんにちゃんと番号が付いているではないか。そこで自分の番号の席を探し出すとすでに4人用の対面シートに3人家族が座っていて、ジローリと私のことを見る。

また何か言われはしないかと不安になり、先手を打った。

「ウォー・シー・リーペンレン」
「アレ〜、コノ人モ日本人ダヨ〜」

なんと、日本語が返ってきた。

この家族、上海出身の池袋のスナックのママさんと東北訛の父さんに子供で、ママさんの里帰りついでに無錫へ行くところだという。おかげで蘇州までの一時間半は全く退屈しない旅となった。

蘇州駅を降りると、トモダチ、トモダチとしつこいタクシーの男を振り払い、まずは帰りの切符の入手から始める。

中国では外国人にとって何かと不可解な制度が幾つかあって、ホテルの件にしてもそうだが、鉄道の料金制度もその一つである。我々外国人は中国人民の2倍の料金を払わねばならない。そこで日本人は顔が中国人と変わらないので人民料金で買うべくトライしてみるのだが、発音ですぐにばれてしまって、私は今旅行でついぞ一度も成功しなかった。

ここでももちろん失敗して仕方なく2階の外国人用窓口に行くと、そこには様々な国の言葉で『Fuck You!』だの『中国人のバカヤロー』だのといたずら書きがしてある。みんな中国人の独特な気質に苦労しているのだなぁと、思わず笑ってしまった。

この中国人の気質については追々書くことになるだろうが、ある人に聞くと、世界を旅していると、大きなカルチャーショックを受ける国が三つあると言う。その三ヵ国とは、イラン、インド、そして中国である由。

水の都・蘇州
蘇州についての説明は、巷のガイドブックを見れば詳しく載っているのでここでは割愛する。ただ、美しい水の都というイメージで考えられている割には町全体はきたない。水路はゴミがプカプカ浮いており、水は泥色に濁っていてきたない。トイレ代わりの木の桶が軒先に干してあってきたない。駅のそばのラーメン屋はまずくてきたない。タクシー運転手はボッタクリできたない。 それでも、庭園は噂通りの建築美を誇り、拙政園では初めて中国文化の美意識の真髄を感じた気もして、しばらく池の傍らで放心状態になっていたりもした。

漢詩で有名な寒山寺にも行った。しかし、もともと神社仏閣に興味のない私にはその素晴しさが理解出来る筈もなく、せめて月が落ち、鳥が啼いてくれもすれば何か感ずるところもあろうが、所詮、寺は寺であった。

混雑した帰りの列車で、ポン・グオチャンという名の大学生と友達になる。奇遇なことに彼の家は私のホテルから歩いて10分の所にあり、翌々日には彼の家に遊びに行ったりもした。
列車の中で、私が日本人だとわかると、外国人がめずらしいのかポン・グオチャンの他にも、小学生位のかわいらしい少女や、蘇州のケンタッキーフライドチキンでアルバイトをしているという大学生などが集まってきて、なんだかヒーローになった気分であった。
それにしても、ポン・グオチャンと私の英会話はガチガチとして汚く、まあ意味が通じれば良いと思うのだが、ホテルに帰ってからニューヨーカー・スティーブの話す洗練された英語を聞くと、それは天使の歌声の様に思われた。もはや私には英語を話す勇気などありはしない。


翌日竹ノ内という男が現わる。この男こそドミトリー奇人変人の決定版ともいえる男で、30半ばと思われるが、年齢、職業不詳、差し出された名刺の肩書きには『日本人旅行者』とある。そして、この男が今回の私の旅行のキーパーソンとなるのであった。

彼は上海にもう一つあるバックパッカーのたまり場、浦江飯店でしばらく暮らしていたらしいのだが、若者バックパッカーがうっとうしくなってここへ引っ越して来たとのこと。

「あいつら部屋で酒盛り始めよるねん。信じられんわ」
「あー、ここは落ち着くわ。天国や」

タオル地のガウンに着替えてベッドに寝そべり喜々としている。

しかも彼は中国事情に精通していて、私の質問にも即座に答え、どこそこの町ではどこに泊まれば良く、何月何日現在いくらであるというデータまでしっかり保有している。彼の持っている数年前の“歩き方”を見ると新しいデータの書き込みや張り付けがびっしりと、かつ整然と整理されている。

フリーライターか編集者かと尋ねても、

「もしそうならこんな情報教えへんわ」
とケムに巻く。

私がカシュガルへ行くのだと言うと、
「このくそ寒い時に行くなんてきちがいやわ。今なら昆明やろうな。その先の大理はええでぇ」

またしても昆明か。そんなに良い所なのだろうか。

明神も言う。
「今は乾期で、一年で一番いい時期なんですよ」

「西双版納(シーサンパンナ)や麗江(リージャン)など雲南にはええとこがぎょうさんあるんや」

しかしカシュガルが…

「そん中でもやっぱり大理やろな。日本でいえば松本みたいなとこやわ」

松本といえば私の心のふるさとである。かつて私の住んでいた家から一望に見渡せた北アルプス、中央アルプスの峰々の雄姿は今も私の脳裏にに焼き付いている。

「大理のハッピーレストランのかつ丼、あれがまたうまいねん」

「な、なに、カツドン!」

上海では何もかも満足していた私だったが一つだけ、食事だけは実のところまいっていた。食堂は薄汚なく入る気がしなっかたし、高級な所は高そうで、しかも一人で入るのは気が退けた。それでいつも近くの商店のパサパサのパンや果物を食べたりして飢えをしのいでいたのである。

「中国であんなものが食えるなんて信じられんわ」

もはや石坂浩二もカシュガルもない。我が大脳皮質は湯気の立つカツドンでいっぱいになっていた。

「い、行く、オレは大理へ行く!」

竹ノ内は、天井を見上げてこう言った。

「オレは知らんでぇ、ただ独り言を言っただけやからな」




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