中甸

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中甸(zhongdian)
丘の上のラマ僧軍団

中国国際航空の機内紙、“AIR CHINA”1994年第2号には、秘境印象―Discovery of a Mysterious Land―と題された特集で、カラー30ページに渡って中甸が掲載されている。
この町を州都とした迪慶蔵族自治州は、北をチベット自治区、北東を四川省に接した雲南省の北端に位置し、その名の通りチベット族(蔵族)の多く住む地域である。このあたりの地形は、今までの緑豊かな雲南の景観とは異なり、荒涼とした平原と丘陵の連なる、チベット高原の様相を呈している。

毎年6月の24日、25日の2日間、この地では勇壮な競馬大会が行われる。チベットの暦で五月祭と呼ばれるこの催し物は、この地区のチベット族における一大イベントであり、郊外にある小山の麓に造られる会場には、付近のチベット族の人々が集まるばかりか、チベット自治区や四川省からも見物人がやって来るという。

しかし、これらの事を私が知ることになったのはずっと後になってからのことで、中甸の町に降り立った時の私と針の様な女鳥内と、怪しい旅人宮沢の一行は、この町に関する情報などほとんど何も持ち合わせていなかったのである。


私が大理で会った、中甸から戻ってきたというある男の弁によると、

「もろ、チベットの世界」

と言うことであった。しかし中国の多くの町がそうであるように、この町も単調な四角いコンクリート製の建物の並ぶ何の変哲もない町であった。ただ、バスターミナルの近くに“LHASA CAFE”という名の店があるところをみると、チベットとは何らかのつながりがあるのだなという事は想像出来た。

三人でとりあえず情報収集のためLHASA CAFEに入る。店内には別のバスで一足先に着いていた西洋人の女達が数名いて、コーヒーのたぐいをすすっている。彼女らにどこのホテルに宿泊予定なのか尋ねてみるが、彼女らもまだ判らないとの答。

店内にある旅人達の情報ノートを開いてみると、達筆な英文で様々な情報が書き込まれている。どのホテルには泊まってはならぬとか、このホテルは最高であるとか、この町の見どころ、旅で感動したこと、恐怖の出来事、他の町への行き方、その状況などが示されている。
日本語による記述もいくらかあったが、その一つはあまりにも低俗なもので、見ている方が不快になった。外国人には読めぬから良いものの、こういう稚拙な精神構造を持った日本人は案外多いのだ。恥を知るべし。

泊まるべきホテルのだいたいの当たりを付けて店を出る。
途中何度も人にホテルの所在を尋ねながら我々三人は中甸の大通りを歩いた。随分幅の広い道路なのだが、車の往来はきわめて少なく、人通りもまばら。何だか閑散とした町である。
すでにここは標高3300メートルを超えていて、心なしか空気が薄いようにも感じる。この高さになると、そろそろ高山病の心配もしなくてはならない。

道の反対側にとあるホテルを発見し、あれではないかと私が指を差すと、

「ああ、あれはダメですよ。ノートにはあそこは良くないと書いてありました」

と宮沢。

こういったときの的確な判断と行動の出来るこの男は、やはりたよりがいのある“旅人”なのだ。

町はずれにある永生賓館は、こじんまりとしたチベット風建築の宿で、別名チベットホテルとも言った。トリプルの部屋をチェックイン。一人あたま12元である。

ひとたび落ち着いた後、宮沢と針の様な鳥内は市内散策に出かけて行ったが、私はこの日はあまり体調がすぐれなかったので部屋に残ることにした。自分の装備の中から日本茶のティーバッグを取り出して湯をそそぎ、そしてすすった。
テレビをつけると、スターTVの英語ニュースなどやっている。世界は特別変わった出来事も起こっていないようだった。ひとしきり画面を眺めていたが、やはり飽きてきて、私も外へ出ることにした。


道路ではノラウシやノラブタがうろうろしている。豚は道端に捨ててあるみかんの皮をペロリと食べ、紙屑などもむしゃむしゃと平らげてしまう。牛の方はその黒い巨体を微動だにせず、しかし目だけがギロリと私の方を見る。そして尻尾を一回ぶるんと振った。

百貨商店に入ると、売り物のカラーテレビにはマドンナのビデオクリップが流れている。素朴な感じの父子二人が熱心にそのセクシーな画面を見入っている。
無論これはスターTVによるMTVのプログラムで、もはや世界のいかなる所へも世の最新情報がリアルタイムで供給されていることをまざまざと感じさせられた。スターTVの放送エリアは中東から極東まで、アジアのほぼ全域をカバーしているわけで、その影響力は計り知れぬものがある。世の中は急速に文化の一元化を図られるであろう。いずれ中甸の小僧たちが街頭でブレイクダンスをおっぱじめるのかもしれない。

バスターミナル近くの市場を覗いてみる。これもどこででも同じように野菜やら肉やら、日用雑貨やらが売られているが、野菜は、大理あたりに比べると種類が少ない。

私はここでモモヒキを一枚装備に加えた。

他には特別見物するものもないのでホテルに引き返す。まだモモヒキをはいていない足が寒い、寒い。

途中、本屋にいた針の様な鳥内をつかまえて部屋に戻る。しばらくして宮沢も帰ってきた。この町に関する三人の意見は共通していた。

「別に何もない。ただ寒いだけ」


夜8時、食事に出かける。暗い大通りには人通りも、車の通りも殆ど無い。そして身震いするような寒気。フィリピンから北上して来た宮沢の防寒具は薄いウインドブレイカーだけである。

「もう(麗江に)帰る、すぐに帰る」

などと泣き言を言っている。

とある小さな飯屋に入る。中では小太りの割にちゃかちゃか動き回る12、3歳くらいの娘が、

「何を食うねん」

と中国語で言ってくる。

この店にはメニューというものが存在せず、ショーケースの中に陳列されている豆やら菜っ葉やら肉団子やらの食材を指差して、

「これ、これ、あとこれ」

という具合に注文する。こんな注文の仕方でいったいどんなものが出てくるのか不安ではあったが、だが出来上がった料理は、指差した食材以外にいくつかの具材が追加された、ちゃんとした炒め物や煮物になっていた。

無名の町の小さな店の素朴なディナー。パリやニューヨークの高級レストランのそれよりも、私にはこちらの方が魅力的に見える。


あくる朝、ホテルの他の部屋の西洋人の女たちが湖に行くのに車をチャーターしたいが、一緒にどうかと言ってくる。湖などどこで見ても同じであろうと、我々はパス。

この日は私の体調は全快していたが、今度は針の様な鳥内が寝込んでしまった。風邪か高山病か、あの鼻声からすると風邪だと思うが、かなり辛そうである。

可愛そうではあるが、彼女を残して宮沢と二人で外に出る。何もなく、ただ寒いだけのこの町に我々はもう用がなかった。いったいどこが『もろ、チベットの世界』なのだ。納西族のばあさんを一人見かけただけで、チベタンなぞ一人も見えぬではないか。

ターミナルで翌日の麗江行きのバスチケットを買い求めると、我々はホテルで教えられた郊外にある何とかいう寺へでも行ってみるか、と大通りをホテルとは反対方向へ歩き出した。

町はずれには木造の家屋が何軒か並んでいる。一見西部劇に登場するようなその建築物の前に、カラフルな民族衣装を着た女が何人か立ち話をしている。赤やピンク、青、白などに彩られたその姿形からして、白族の支系がこんなところにまで入り込んでいるのかと当初考えた私であったが、実はこれが中甸のチベット族なのであった。この事は前記の“AIR CHINA”紙にも同様の記述がある。

彼女らに寺への道を尋ね、丘陵へと続く道へ歩を進める。山肌はネグロイドの頭のように灌木がまだらに生え、裾野には野球場のような平原が広がり、そのアリーナには一筋の小川が流れ、真っ黒な牛が数頭、少ない草を食んでいる。
突然ヒョロリと宮沢がハーモニカを吹いた。

"もろ、チベットの世界"
松賛林寺
随分と歩き、そろそろこの行程がいやになってきた頃、丘を回り込んだその道が突然ひらけた。
前方に見える丘の斜面一面に、白い箱を並べたような集落の一群が目に入った。中央にはひときわ大きい寺院と見られる建造物が建っている。10年も前テレビで見たラサの風景にそっくりである。なるほど、“もろ、チベットの世界”とはここのことであったのだ。

我々は早速この集落に近づいた。麓には“松賛林寺”と刻まれた碑が建っている。そこから上へ登って行くと、ラマ僧達が寺の改修工事をしている。木材をカンナで削ったり、ノミで穴をあけたり。もしかしたらこの寺は文革で破壊されたのかもしれない。

寺まで登りつくと、一人の年寄りのラマ僧が我々に手招きをする。近づいてみるとこのラマ僧は2元で寺を見学できると言う。我々は彼に2元払うと、代わりに粗末な紙の切れ端を渡された。チケットであるらしい。

寺の内部に入る。本堂には数体の金色の仏像が安置され、ダライラマの写真も幾枚か飾られている。
あちこちにいくつもバターキャンドルが灯り、室内はその鼻につくヤクバターの匂いがたちこめている。床には入り口に向かって縦に何列もの僧達が座る台座がある。

老僧と小僧
二階、三階と一通り見学してから外に出ると、先程から写真を撮ってくれとうるさい小僧が二人まとわり付いてくるので、仕様がなくそこらで佇んでいるじいさん二人と共に写してやった。

しばらくすると、また手招きするラマ僧がいるのでそっちへ行ってみる。
すると、周りから次々とラマ僧が集まってくる。ドンドン集まってくる。ついに20数名のラマ僧に囲まれてしまった。

何やら色々と話しかけてくるが、こっちはさっぱり判らないのでただニコニコ笑うのみである。一人が自分の靴と私の靴を交換してくれと言ってくる。

私の靴は何週間も前に“ハオ・プ・ハオ”のオヤジに磨かせたきりで、薄ぎたないボロ靴と化していた。しかし相手のそれは、足に履いているところからして、ひょっとすると何かの履物のたぐいであるかと想像もされるが、それのみをただ見せられたならば、いかなる物体であるのか理解するのは、何者にも不可能な代物であった。
この申し出はどう見ても不平等交換条約と思われたので、私は丁重にお断り申し上げた。

寺の正面に出ると、そこにはさらにたくさんのラマ僧がいて、我々を取り囲む。普段大した娯楽もないのだろう、我々のような変なガイジンを見るその目は好奇心に満ちていた。

写真を撮ってくれと言う者、撮るなと言う者、若いのやら老人やら、背の高いの低いの、細いの太いの、色男ブ男、キツネのようなのタヌキのようなの、出ッ歯にエラ張り、ハトムネ、二重アゴ、毛が三本、とにかくたくさんいるのだ。

本堂の方から何やら音がしたように思えた。僧たちの顔色がさっと変わる。

また音がした。

次の瞬間、我々二人を取り囲んでいた僧たちが一斉に凄まじい勢いで本堂へ駆け出した。荒野を駆けるのバイソンの群の中に巻き込まれたかのようである。

すべてのラマ僧が中に入ってしまうと辺りは急に静まり返った。そして本堂から読経が聞こえてくる。入り口から覗くと、先程の台座にずらりと僧たちが座って経文を読んでいる。
一人一人を観察してみると、脇見、あくび、貧乏ゆすり、ボケーッ。

この有様を見て宮沢が感想を述べた。

「連中、どうもあまり熱心に仏道に励んでいるとは思われん」


中甸のオールドタウンとノラウシ
町に戻ってくると、私はホテル周辺にある古い街並を一人散策した。木造の家屋が続いているが、何だか貧相なたたずまいで、麗江のオールドタウンとは比較にならない。

遊んでいる子供たちが、

「ハロー」

と声をかけてくる。

大人は珍しそうに、怪訝そうに私を見るが、こちらがにっこり笑うと、相手も笑い返してくれる。
遠くから農作業をしながら、

「ハロー」

と声をかけてくる兄ちゃん。

自転車に乗ってすれ違いざまに、

「ハロー」

と声をかけてくる姉ちゃん。

解放間もないこの町では、外国人の存在はまだまだ珍しいのである。

こちらがわざと日本語で、

「こんにちは」

と返すと、彼らはどうしていいのか判らずに急に黙りこくってしまう。

中甸、何だか不思議な町である。


麗江に戻った。

私はもう大理には戻らない。ここからバスで東に向かい、四川省の樊枝花から鉄路で成都に入り、空路でラサを目指すのだ。
中甸のチベット集落を見て、私はぜひとも本場のチベットへ行きたいと考えたのであった。

夜、私と宮沢、針の様な鳥内三人はママ・フー・レストランで夕食をとった。鳥内はすでに元気になっていたが、この女は中甸に何をしに行ったのであるか。

我々はこのママ・フーの料理が大変気に入っていた。すでに麗江での我々はここで夕食をとった後、ピーターズで飲むというパターンが出来上がっていた。
ママ・フーの“紅焼獅子頭(ホンシャオシーヅートウ)”通称ベニヤキシシアタマは何と言っても旨かった。

ママ・フーだの、ドクター・フーだの、フーチンだのとやたらフーの多い麗江であるが、この名は納西族に多い名字であって、漢字で書くと“和”となる。一般中国人からするとこの名は大層奇妙であるらしい。

またしても停電のため、ろうそくの明りで食事をしている我々三人の前に、一組のイギリス人カップルがやってきた。
この二人は、宮沢も針の様な鳥内も顔なじみの由で、二日間玉龍雪山の裏にある虎跳峡という金沙江の峡谷をトレッキングして今日戻ってきたというのだ。
そう言えば中甸に行く前の日、ピーターズで会ったカナダ人のジョージという男(彼とは大理で一夜一緒に酒を飲んだことがある)も同じコースを行って来たと言っていた。西洋人の行動は日本人に比べて実にアクティブで、その時ジョージと一緒にいたもう一人のカナダ人はなんと、自転車で世界一周をしている最中とのことだった。
移住、流浪の歴史を持つ民族と、島国気質の日本民族とでは所詮血が違うのである。

このイギリス人カップルは(女の方はアイビーといったが、男の方は名前を忘れた)しばらくラサに滞在していたというので、私はこの二人から多くの情報を貰い受けた。さらに、ラサにあるタシレストランという店の女主人宛への二人のメッセージも預かることになった。こうして私のチベットへの旅は始まることになった。

その後、例のごとくピーターズカフェに飲みに行く。フーチンとウンツァイは我々を笑顔で迎えてくれ、写真撮影をしたり、彼女らから納西語の講義を受けたりした。

こんにちはは、アララ。さようならは、レンダッタ・メイ。ありがとうは、ギョベセ。

傍らで宮沢がギターを弾いている。この男とは音楽の趣味もよく合って、東京に帰ったらセッションをやろうと誓いあった。しかし、この男が日本に帰る日がいったいいつになるのかは、全く想像がつかぬ。

ピーターズを出てホテルへの帰り道、三人で夜空を見上げながら、私は今までの雲南の旅の出来事に思いを巡らせた。昆明、大理、麗江、中甸。そして一人ごちた。

「あーあ、これで雲南編も終わりかぁ」

「明日からは風雲チベット編ですね」

と宮沢が面白い言い回しをする。

だが、この男によって命名された翌日からの私の旅は、事実その名の通りの内容になるのであった。



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