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大蟹蜘蛛 (中篇)
エルクマン=シャトリアン
さて、1802年7月のある日の午後、私の従兄は標本箱の昆虫の分類をやり直していました。前日に珍しい虫をいくつか採集していたのです。私は彼のそばに立って片手でろうそくを持ちながらもう一方の手で虫ピンを熱していました。
トーマス卿はすわった椅子を窓辺に寄りかからせ、台の上に足をのせ、私たちのすることを眺めながら夢見るように葉巻をくゆらせていました。
私はトーマス・ハワーバーチ卿とはとても気が合っていて、毎日一緒に彼の馬車で森に出かけました。彼は私に向かって英語で雑談するのを好んで本物の紳士(ジェントルマン)にさせたいのだと言っていました。
ウェーバー医師は蝶々の分類を終えてしまうともっと大きい昆虫が入っている箱を開けて言いました。
「昨日はすごいクワガタ虫を捕まえたんだ。ハルツの樫林で最大のルカヌス・セルヴスだよ。右側の爪が五つに分岐しているというのはかなり特殊だね。これは稀少種だ。」
それと同時に私が彼に虫ピンを渡し、彼はコルク板に固定する前に虫の体に突き刺しました。トーマス卿はその時まで平然としていたのに、身を起こして箱の一つに近づくと仏領ギアナの大蟹蜘蛛のことを話しはじめ、大きな赤ら顔に驚くような恐怖の念を浮かべて叫びました。
「ほら、まさにこれだ!生き物の中でも最も恐ろしい奴だ・・・見てごらん・・・身震いがするよ!」
すると見る見るうちに彼の顔に蒼白さが広がっていきました。医師はそれを見て、
「いやぁ!そういうのはみんな小さいときの先入観ですよ・・・乳母が叫ぶのを聞いたり・・・恐怖心を持ったり・・・その印象が焼き付けられるんだ。顕微鏡で蜘蛛を見てみれば、その器官の完璧さや素晴らしい配置やその気品の高さには驚かされますよ。」
と言うと、准将はそれを荒っぽくさえぎりました。
「うぇー、気味が悪いんだ!」彼はくびすを返して続けました。「あぁ、なぜだかわからないけれど、蜘蛛には血が凍る思いがするんだ。」
ウェーバー医師は笑い出しましたが、私はトーマス卿の気持がわかるので大声で言いました。
「ねぇ、従兄(にい)さん。箱からこの醜い虫を出してしまいなさいよ。気味が悪い。他がみな台無しだ。」
「馬鹿だねぇ」と彼は私に言いました。「その目が輝いているというのに、誰が無理に見てくれと言った?気に入らないのならどこか外に出て行きなさい。」
明らかに彼は怒っていました。トーマス卿は窓辺に立って山を眺めていましたが、急に振り返って私の手を取って明るい声で言いました。
「フランツ君、君の先生は蜘蛛が大事なんだ。・・・わしらには木々や・・・緑のほうがずっといいさ。さあひと回りしに行こう。」
「いいとも、行きなさいよ。」と医師が叫びました。「六時の夕食にはもどってきなさい。」そして声を高めて「ハワーバーチさん、恨みっこなしで。」
准将は笑って振り返りました。そして私たちはいつものように家の門のところで待っていた彼の馬車に乗り込みました。トーマス卿は自分で動かしたかったので使用人を帰しました。彼は御者台の隣に私を座らせて、ロータルプ山地へ向かって出発しました。
馬車が砂だらけの山道をゆっくりと登っていくあいだ、私は抑えがたい哀しさに心が占められました。トーマス卿のほうも深刻な顔をしていました。彼は私の悲しそうな様子に気づいて言いました。
「フランツ君、君は蜘蛛が嫌いなんだね。わしもだよ。でもありがたいことに、恐ろしいほどの蜘蛛はこの国にはいないよ。君の先生が箱に入れているのは仏領ギアナから来たものだ。あの蜘蛛は湿地帯の大森林に住んでいて、暑い蒸気や熱気に満たされていないと生きていけないんだ。その蜘蛛の巣は、というか大きな網の罠と言ったほうがいいが、みな藪に覆われているんだ。それで鳥たちを捕まえるのさ。ちょうどこの辺の蜘蛛がハエを捕まえるように。でもそうした気味の悪い考えは追い払って、さぁわしの年代物のブルゴーニュ・ワインを一杯飲(や)るといいよ。」
そして後の長椅子の板を上げると、わらの中からひょうたんのようなものを取り出し、皮製のコップになみなみとついでくれたのです。
それを飲んでしまうと私は機嫌が良くなって、それまでの不安を笑い飛ばしました。
馬車は山羊のように痩せて神経質な小さなアルデンヌ産(2)の馬に引かれていましたが、ほとんど垂直に切り立った山道を登って行きました。無数の虫たちが低木の繁みでぶんぶん唸っていました。右手の百歩余りの上にロータルプの森の鬱蒼とした縁部が広がっていて、その暗い奥のところは蔓草や木蔦に埋もれて、遠くなればなるほど光にあふれていました。左手にはスピンブロンの流れが落ちていて、山に登るほどに深淵を流れる水面が青々と染まり、渓流の音が大きくなりました。
私はこの光景にすっかり気をとられ、トーマス卿は御者席に寄りかかり、膝を顎のあたりまで上げて、いつものように夢想にふけっていました。そのあいだ馬は、私たちを石の錘のようにしながら、馬車のバランスを取るために頭を胸繋ぎの馬具に傾けて、歩み続けました。それからまもなくやや平坦なところに到達しました。鹿の苑という木々の葉陰に包まれてきらきら光っているところです。…私は相変わらず素晴らしい眺望に頭をぐるぐる巡らし、目を奪われていました。…岩陰に入ったので振り返ってみるとスピンブロンの洞穴から少しのところにいたのです。周辺の草薮は素晴らしい緑に覆われていました。そして崖から落ちる前の源泉は、砂地と黒い小石の上に澄み切った温水をたたえ、もし青白い蒸気が水面に漂っていなければ氷結しているようにも思えたほどでした。
馬は一息つくために自分から立ち止まりました。トーマス卿は身を起こしながらしばしあたりの景色をながめて言いました。
「すべてが何と穏やかなんだろう。」次いで少し間を置いて続けました。「フランツ君、もし君が一緒にいなかったら、わしは喜んでこの池で水浴しただろうよ。」
「でも、准将。」と私は答えました。「どうして水浴しないというんですか。ぼくはこの周辺を一回りしてきてもいいんですよ。…近くの山では草むらに野苺がいっぱいなってますから。…それを摘んで持って帰りますよ。…一時間したらもどってきます。」
「おや!そりゃいいな、フランツ君、いい考えだ。…ウェーバー先生はわしがワインの飲み過ぎだと言うんだ。…ワインを鉱水で抑えなくちゃ。…この小さな砂地は気持がよさそうだ。」
そこで二人とも馬車から降りて、彼は馬を白樺の幹につなぎ、手を振って「君は行ってもいいよ」という合図をしました。
私は彼が苔の野原に座って長靴を脱ぐのを見ました。私が立ち去ると、彼は振り向いて叫びました。「フランツ、一時間後にな!」
それが彼の最後の言葉でした。
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(1)
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ロータルプ Rothalps :
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架空の山地の名。ロレーヌのドイツ名ロートリンゲンにあるアルプス
らしい土地を思わせる。
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(2)
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アルデンヌ Ardenne :
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ベルギー、ルクセンブルク、フランスのアルデンヌ県にまたがる高原。
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