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鴉のレクィエム (後篇)
エルクマン=シャトリアン
ある日の夕方、犬と狼の見分けがつかないくらいの夕闇の中を帰ってきたとき、僕はハンスと出会った。雪が積もっていて月が屋根の上に輝いていたが、鴉をひと目見てなぜか漠然とした不安にとらわれた。家の戸口に着くと戸が開いたままになっているのを見て僕は驚いた。消えかかった炎を映したようなほのかな明かりが窓にゆらめいて見えた。家に入り、叔父を呼んだが返事がない!よもやと思ったとおり、暖炉の炎に照らされて、叔父が鼻を蒼白に耳を紫色にしてソファに伸びているのが見えた。近所から借りた銃が脚のあいだに置いてあり靴には雪が詰まっていた。
かわいそうな叔父は鴉を追って出ていたのだ。
「ザカリアス叔父さん、眠ってるの?」と僕は叫んだ。彼は目を半開きにして僕をぼんやりと見つめて言った。
「トビー、わしは二十回以上もやつに銃を構えたんだが、まさに引き金を引こうとするとやつは影のように消えてしまうんだ。」
このように言ったあと、彼は深い昏睡状態に陥ってしまった。僕は何度も身体をゆすったけれど、もう動かなかった。そこで僕は恐怖にとらわれて、走ってハゼルノス先生を呼びに行った。戸口のノッカーをつかんだとき、僕の心臓は信じられないくらい強く動悸がしていた。建物の中にノックの音が響いたとき膝ががくがくした。通りには誰もいなかった。雪が僕のまわりを舞って僕は身震いした。三度目に叩いたとき、窓が開いてハゼルノス先生が綿入れ帽の頭を外に出した。
「誰だい?」と彼はか細い声で言った。
「先生、早くザカリアス先生のところに来てください。病気なんです。」
「おやおや!着がえがすんだらすぐに行くよ。」と彼は答えた。
窓が閉まった。僕はそれからさらに十五分以上も待った。人けがない通りを見つめ、風見鶏の錆びた翼がきしむのを聞き、遠くでは農場の犬が月に向かって遠吠えしていた。そしてやっと足音が聞こえた。ゆっくり、ゆっくり、誰かが階段を下りてきた。鍵穴に鍵をさして、ハゼルノスが大きな灰色の外套に身を包んで、手には手燭台型の小さなランプを持って敷居に現れた。
「プゥ!ひどい寒さだ!着込んできてよかったよ。」と彼は言った。
「そうです。僕はもう二十分も前から凍えてますよ。」
「これでも君を待たせないように急いだんだぞ。」
一分後には僕たちは叔父の部屋に入っていた。
「えー、こんばんは、ザカリアス先生!」とハゼルノス医師はこの上もなく物静かに言うと、ランプを吹き消した。「どうしたんですか?どうも風邪のようですな。」
この声にザカリアス叔父は目を覚ましたようだった。
「先生、事の最初から話をしますよ。」と彼が言うと
「それには及ばないさ。」と医師は叔父の目の前の長持に座りながら答えた。「わしはあんた以上にその事はよく知っているよ。命題と帰結、原因と結果がわかっているんだ。あんたはハンスを嫌ってる。ハンスはあんたを嫌ってる。あんたは鉄砲を持ってやつを追いかけた。ハンスはあんたをからかうために窓辺に飛んできた。ヘ、ヘ、ヘ!簡単なことだよ。鴉は夜鳴き鶯の歌がきらいで、夜鳴き鶯は鴉の鳴き声に我慢ならないのさ。」
こう話すとハゼルノスは嗅ぎ煙草入れから一つまみ取って、足を組み、上着の前襞を振り払って、小さな賢そうな目で叔父を見つめながら微笑んだ。
叔父は驚いていた。ハゼルノスは続けて言った。
「いいかね。こんなことはあんたを驚かすことにはならないよ。毎日同じようなことを見ているんだ。わしらのみじめな世界は、好感と反感とで占められているのさ。どこでもいい、あんたが居酒屋やバーに入ったとき、テーブルでカードをしている二人の男に気づいたとする。彼らを知らなくともあんたはどちらか一方に会釈をするんだ。いったいどんな理由で一方よりも他方を好むのかね?何もないよ。へ、へ、へ!それを学者たちは単刀直入に言う代わりに際限なく様々な学説を打ち立てるんだ。こっちが猫でこっちが鼠だ。わしは鼠の側に立つよ。というのもわしらは同類なんだ。つまり医学博士ハゼルノスである以前、わしは野鼠、りす、あるいはヒメネズミだった。だからこそ・・・」
彼は言葉を途切らせたままになった。なぜならちょうどその時、たまたま叔父の猫がそばを通りかかったので、医者は電光石火の早業で後ろ首をつかむと外套の大きなポケットに押し込んでしまったのだ。ザカリアス叔父と僕はあっけにとられて顔を見合わせた。
「わしの猫をどうするつもりかね?」と思い切って叔父が言った。
ハゼルノスは答える代わりに作り笑いを浮かべて口ごもった。
「ザカリアス先生、あんたを治してやるよ。」
「それよりもまず猫を返してくれ。」
ハゼルノスは答えた。
「もしあんたが猫を返せと言い張るのなら、あんたをこのままの状態で放っておくさ。あんたはもう一分間も心が休まることはなかろう。音符一つ書けなくなるだろうし、日ごとにやせ細って行くだろうよ。」
叔父は口を開いた。
「ところで一体このかわいそうな生き物があんたに何をしたと言うんだね?」
「やつがわしにやったこと!」医師は顔を引きつらせて答えた。「やつがわしにやったこと!…世界の始まりからわしらは戦っていたと思いなさいよ。わしがスミレだったときにそれを息詰まらせたアザミであったり、わしが草むらであったときに日当たりをさえぎったヒイラギであったり、わしが鯉だったときにそれを食らったカワカマスであったり、そしてわしが二十日鼠であったときにそれを捕獲したハイタカであったり、それらのエッセンスがこの猫に凝縮されているんだ。」
僕はハゼルノスの頭がおかしくなったのではないかと思ったが、ザカリアス叔父は目を閉じて長い沈黙のあとでこう答えた。
「わかった。ハゼルノス先生、わかりましたよ。あんたは間違うはずがない。・・・わしを治してくれ、そして猫はあんたにやるよ。」
医師の目はキラリと光った。彼は叫んだ。
「そうと決まったら、今からあんたを治すことにするよ。」
彼は往診鞄から小さいナイフを取り出し、暖炉の中から小さい木の切れ端を取って器用に削っていった。叔父と僕はそれを見守った。その木片を削るとそれに窪みをつけはじめた。そして財布からとても薄い羊皮の短いひもを取り出して、二枚の薄い木片のあいだにからめ、微笑みながら口になじませた。
叔父の顔が輝いた。彼は叫んだ。
「ハゼルノス先生、あんたはめったにない人だ、ほんとに素晴らしい人だ、とっても・・・」
「わかってる。わかってるよ。」とハゼルノスはさえぎった。「さて明かりを消しなさい。暗闇の中で石炭の火も見えないように!」
僕が命令に従っているうちに、彼は窓を大きく広げた。夜は氷のように寒かった。屋根の上には穏やかで澄みきった月が出ていた。雪明りのまぶしい光と部屋の暗闇とが異様なコントラストを作っていた。叔父とハゼルノスの人影が窓の前で切り抜きのように見えた。いろんな印象が一度に僕の気持を高ぶらせていた。ザカリアス叔父がくしゃみをした。ハゼルノスはあわてて手を伸ばして音を立てないようにとさえぎった。そして静けさが漂った。
突然、「ピィーウィ!ピィーウィ!」と鋭い音が鳴り渡った。この音のあと、あたりは静寂に戻った。僕の心臓がどきどきするのが聞こえた。少したってまた同じ音が鳴った。「ピィーウィ、ピィーウィ!」医師が鳥笛でその音を鳴らしているのがわかった。それに気づいて僕は少し勇気が出た。そして僕の周りで起きているこまかな状況に注意を払うことにした。
ザカリアス叔父はからだをかがめて月を見上げ、ハゼルノスは身じろぎせずに片手を窓にかけ、もう一方の手で笛を持っていた。
まさに二〜三分たったとき、突然、鳥の羽音が空気を裂いた。
「おぉ!」と叔父がつぶやいた。
「しっ!」とハゼルノスは言って、奇妙であわただしい抑揚をつけて「ピィーウィ」を何度かくり返した。鳥はすばやく心配げに飛びながら窓を二度ほどかすめた。ザカリアス叔父は銃を取ろうとしたが、ハゼルノスがげんこつを振り上げて強くささやいた。
「馬鹿か、あんた。」
そこで叔父は自制した。医師はじつに巧みに罠にかかった百舌鳥の鳴き声をまねて笛吹きをくり返した。ハンスは右に左に周回しながら、おそらく奇妙な好奇心に囚われてのことだろうが、とうとう部屋に入り込んできた。僕はその二本の足が床にしっかりと着く音を聞いた。ザカリアス叔父は叫び声をあげてとびついたが、鴉は彼の手から逃れた。
「へたくそ!」とハゼルノスは叫んで、窓を閉めた。
かろうじて間に合った。ハンスは天井の梁の間を飛んだ。五、六回ぐるぐる回ったあと、彼は思いっきり窓ガラスにぶつかって目を回した。窓枠に爪をかけようとしながら窓に沿ってすべり落ちた。ハゼルノスがすばやく明かりをつけると、かわいそうなハンスが叔父の手に押さえられたのが見えた。叔父は激しく狂喜して鴉の首を絞めながら言った。
「ハ、ハ、ハ!つかまえたぞ!つかまえたぞ!」
ハゼルノスもそれに加わってげらげら笑った。
「ヘ、ヘ、ヘ!これでいいんだろ、ザカリアス先生、これでいいんだろ?」
これ以上恐ろしい光景を見たことはなかった。叔父の顔は真っ赤になった。哀れな鴉は両足を伸ばし、大きな蛾のように羽ばたいて、死の痙攣が羽をぼさぼさにした。
この場面を見て僕は怖くなって部屋の奥に逃げこんだ。
最初の興奮の時が去って、ザカリアス叔父は我に返って叫んだ。
「トビー、悪魔は借りを返したぞ。わしは許してやる。このハンスを目の前で持っててくれ。あぁ!自分が生き返った気分がするよ。今こそ、静粛に、聞いてくれ!」
そして、ザカリアス楽師は霊感に満ちた顔で厳かにクラヴサンに向かった。僕は鴉の嘴のところを持って彼に向かって立ち、その後ろでハゼルノスが燭台を持ち上げていた。天井の高く古びた梁の下で、ハンス、ザカリアス叔父、ハゼルノス、この三つの姿以上に奇怪な情景は見ることができなかっただろう。小刻みに震える明かりに照らし出された彼らの姿は、漆喰のはげ落ちた壁に投じた古い家具の影のゆらぎとともに今でも目に見えるようだ。
最初の和音の響きで叔父は変身したように見えた。彼の大きく青い目は熱狂的に輝いた。彼は僕たちの前で演奏しているのではなく、大聖堂の中で、大勢の人々の前で、神そのもののために演奏していたのだ!
何と崇高な歌であろう!寂しく、悲壮な、引き裂くような、そしてあきらめに満ちた音楽が次々と続き、それから急に、嘆息のさなかに、希望が黄金と紺碧の両翼を広げるのだ。おぉ、神よ!かくも偉大な音楽を思い描くことができるものなのだろうか?
それはレクィエムだった。一時間のあいだザカリアス叔父の霊感は一秒たりとも失せることはなかったのだ。
ハゼルノスはもはや笑っていなかった。わずかずつ彼のからかい半分の顔は言い表しがたい表情に変わっていった。僕は彼が心から感動したのだと思ったが、すぐにそれが神経質な動きになり、力を込めているのを見た。彼の上着の裾のあたりで何かがもがいているのがわかった。
叔父が感極まってへとへとになり、クラヴサンの縁に顔を押しつけたとき、医師は外套の大きなポケットから首を絞められた猫を引き出した。
「へ、へ、へ!おやすみ、ザカリアス先生、おやすみ。わしらはそれぞれ獲物があったよな。へ、へ、へ!あんたは鴉のハンスのためのレクィエムを得たし、今度はあんたの猫のための祈祷曲だろうな。…おやすみ!…」
叔父はひどくくたびれていたので頭でお辞儀をするだけで、僕に戸口まで見送るようにと合図した。
ところで、この同じ夜に二代目の大公イェリ=ペーテルが亡くなられた。ハゼルノスが通りを横切っていたとき、大聖堂の鐘が静かに鳴りだすのが聞こえた。部屋に戻るとザカリアス叔父が立っているのを見た。そして重々しい声で僕に言った、
「トビー、おまえは寝なさい、いい子だから寝なさい。わしはこれを今夜のうちに忘れないうちに全部書き上げねばならんのだ。」
僕は急いでそれに従い、これ以上ないくらいぐっすり眠った。
次の朝、九時ごろ、僕はひどい喧騒に目を覚ました。町じゅうが落ち着きをなくし、大公のご逝去の話でもちきりだった。
ザカリアス楽師はお城に呼ばれた。イェリ=ペーテル2世のレクィエムを頼まれたのだ。その曲は結果として彼が長年のあいだ熱望していた楽長の地位に導いた。このレクィエムはハンスのものに他ならなかったのだ。さらにザカリアス叔父は大物になって、以後五百ターレルの年金を受け取った。ときどき叔父は僕に耳元でささやいた。
「おぃ、トビー!もしもわしがあのレクィエムを鴉のために作ったんだということがわかったら、わしらは相変わらずあちこちの村の祭にクラリネットを吹きに行ってただろうよ。あぁ、あぁ、あぁ!」
そして大きなお腹を笑いで波うたせた。
世の中の物事というのはこんなふうに行くものなのだ。 (終)
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