新撰組隊士遺聞

芹沢 鴨
芹沢は、丈の高いでっぷりとした人物、色は白く、目は小さい方でしたが、良く酒を飲む、
朝から酒の香がして、まず酔ってないことはないという風です。
三十四、五ぐらいでした。
やはり細かい縞の着物を多く着て、白っぽい小倉の袴。
羽二重の紋付などを着たこともありましたが、紋は人並み以上に大きく丸に開いた
紋どころでした。
両手を懐へ入れて、隊士をぞろぞろつれて歩いているところなどは
なかなかでした。
兄が二人あって、水戸様の家来だということで、よくりっぱな服装で訪ねて来ました。

(八木為三郎老人壬生ばなしより)

(注:この画像は芹沢と関係ありません。)



近藤 勇
近藤は、たくさんいる新撰組の中でもさすがに
違ってました。
私どもは、ああして前後四、五年も朝夕顔を合わせていたのですが、
あの人の酔って赤い顔をして歩いているなどは見たことがありません。
私の父が、「近藤さんは酒を飲まないかと思ったら、やはり飲むそうだけれども、
酔った風を見せないのは偉いもんだ」
と言っていたのを知ってます。
良く皮色の木綿の羽織を着て、袴はやはり小倉、私どもに逢っても、なにかしら
言葉をかけて、ニコニコして見せる、無駄口は利かず、りっぱ人でした。
刀の話が好きだったと見え、私の父と話をしてる時は、大てい刀か槍の話でした。
芹沢は乱暴で、割れるような大きな声で隊士を叱りとばしたり、私の門内で下駄で
蹴飛ばしたりしたのを見ましたが、近藤はそんなことはせず、黙っているのに、
隊士たちはかえって、これを怖がっていると、父がいってました。

(八木為三郎老人壬生ばなしより)



山南啓助
山南啓助は仙台の人でした。
丈はあまり高くなく、色の白い愛嬌のある顔でした。
子供が好きで、私などとどこで逢ってもきっと何か言葉をかけたものです。
紋どころは丸に立葵と記憶してます。

(八木為三郎老人壬生ばなしより)

もっとも近藤も土方も腕は十分利いていました。永倉も山南も達者でした、勤王の志士が大阪の鴻池を強請に行った時なぞ土方と山南とたった二人で行って十五、六人の浪士と渡り合い五人まで斬り殺して来ました。

(旧幕新撰組の結城無二三) 
想像画協力 橘高 翔様



土方歳三
土方は役者のような男だとよく父がいいました。
眼がばっちりして引き締まった顔でした。むっつりしていて
あまり物をいいません。
近藤とは一つ違いだととのことですが、三つ四つは若く見えました。
「薬屋のむすこだというが、ちっともそんなところが見えないなァ」
と私も思っていました。
後で聞いたのですが、江戸にいる時に薬の行商をしたといいますから、
その時分は薬屋の忰(せがれ)だと間違われていたのでしょう。

剣術は強いという事でした。なにしろ剣術は、誰にしろ、みんな相当以上に使ったもので、実際これは下手だという人はいなかったようです。前川方の表長屋を少し直して、ここを道場にしてしばらく稽古をしていたが、その稽古は物凄いぐらい烈しいもので、打倒れてそのまま動けなくなっている人などをよく見ました。芹沢だの近藤だのは、高いところに座って見ていました。いつ行って見ても胴をつけて、汗を流していたのは土方歳三で、隊士がやっているのを、「軽い、軽い」などと叱ってました。

(八木為三郎老人壬生ばなしより)



沖田総司
沖田総司は、二十歳になったばかりぐらいで、、私のところにいた人の中では一番若いのですが、丈の高い肩の張りあっがった色の青黒い人でした。
よく冗談をいっていて、ほとんど真面目になっていることはなかったといってもいいくらいでした。
酒は飲んだようですが、女遊びはしなかったようです。
近藤は、「総司、総司」と呼んでました。
この沖田が近所の子守や、私たちのような子供を相手に、往来で鬼ごっこをやったり、
壬生寺の境内を駈け廻ったりして遊びましたが、そんなところへ井上源三郎
というのがやって来ると、「井上さん、また稽古ですか」という。井上は「そう知ってるなら、黙っていてもやって来たらよかりそうなもんだ」といやな顔をしたものです。
井上はその時分もう四十くらいで、無口な、それで非常に人の好い人でした。近藤の弟子だという話でした。

(八木為三郎老人壬生ばなしより)      
  (注:この画像は以前、もしや沖田?とされた物ですが確証はありません)

塾頭で、師範代をするのが、奥州白河を脱藩して来ている沖田総司(房良)、まだ
二十歳になるかならぬかの若輩だが、勇の弟弟子で、剣法は天才的の名手で、実に
見事なものであった。
土方歳三(義豊)だの井上源三郎(一重)だのという当道場の生え抜きに、千葉周作の玄武館で北辰一刀流の目録をもらった藤堂平助や、同じ千葉の免許をとった山南啓助なども、この道場へ来ているが、みんな竹刀を持っては小児扱いされた。
おそらくは、本気で立ち会ったら先生の勇もやられることだろうとみんな言っていた。

(永倉新八翁遺談)



原田左之助
原田は気短でせかせかした男でした。二言目には、
「斬れ、斬れ」
と怒鳴りましたが、これもいい男でした。
酔っぱらうと、着物の前をひろげて腹を出して、これをべたべた叩き乍ら、「金物の味を知らねえ奴なんぞとは違うんだ、切腹の跡を見ろ」といって、左の方から真一文字に腹を切った傷跡を出して見せました。
丸に一文字の黒木綿の紋付を着ていましたが、槍は名人だという話でした。

(八木為三郎老人壬生ばなしより)
 画像は原田の長男茂氏



永倉新八
この谷(三十郎)が私の父とはいい話し相手でしたが、父はこれを見つけて、「何処へ行って来た」とききました。「三条小橋の旅人宿池田屋で、浮浪人狩をやったーーいい気持ちでしたよ。話は後でゆっくり」と笑いながらいい棄てて行きましたので、はじめて、池田屋へ斬り込んだ事がわかりました。

三四人釣台で運ばれて来た。永倉新八は右手に半紙でぐるぐる巻きにした曲がった刀の身を下げ、左手は手拭のようなもので包んでいて、それに血が真っ黒くにじみ出てました。永倉は、その頃三十一二歳でしたが、剣道は隊中でも一二の遣い手という事で、でっぷりとした立派な体格の人でした。後ち、明治になってから、関西方面を、道場を廻って剣術の稽古をして歩いている途中だといって、私のところへ立ち寄って、一夕、酒をのんで昔がたりをして行きました。聞いてみると、私共のしらなかったことが随分たくさんあり、思い当たることも多かった訳です。松前の脱藩者ですが、気前は江戸っ子風の人物でした。剣道の流儀は神道無念流という事で、全く近藤一味の人でしたけれども、剣法の方は芹沢や新見、平山、野口などと同じだという話だったと覚えています。

(八木為三郎老人壬生ばなしより)



斉藤 一
この天満屋の話を、後ちに山口次郎となった斉藤一が、よく私のところへ来て語っていったが、その日はどうもやって来そうな気持ちがしたので、斉藤は鎖を着て酒を飲んでいた。ところが段々酔いが廻って来ると、この鎖の手甲が邪魔になって仕方がない、その上どうも少し暑苦しいので、これを脱いで終おうと思って、手甲の中指へかかっている輪のようなところを、指から抜こうとしたが、なかなか抜けない、抜こう、抜こうとしているところへ、どっと押し込んで来たので、大変こんどは、この鎖が役に立ったといっていた。斉藤の言葉に、「どうもこの真剣の斬り合いというものは、敵がこう斬り込んで来たら、それをこう払っておいて、そのすきにこう斬り込んで行くなどという事は出来るものでなく、夢中になって斬り合うのです。この夜も、私が無茶苦茶に暴れていると、敵の誰かが、そ奴は何か着てるぞ、斬らずに、突け突け!といっているのが、耳に入ったので、ようし突いて来るなら俺もこうしてやると決心した位のものでした」との事である。

(山川健次郎博士談)

斉藤の流儀についてはこれまで”一刀流”と伝えられてきたが、作家で斉藤一の研究家でもある赤間倭子先生の調査により”無外流”である事が判明した。
無外流は、近江甲賀郡出身の都司月旦(つじ げったん)と言う剣客が、江戸時代中期に江戸で創始した剣術だ。
ちなみに映画「雨上がる」にてこの都司月旦を仲代達矢也氏が演じている。



中島 登
「ケンカだ、ケンカだ」怒声と殴り合うこぶしの音が、たちまち人垣をつくる。遠巻きにした野次馬の数は増える一方だ。ささいなことでも人心の荒れている明治六、七年代こと、すぐにも血をみねば収まらないケンカに発展する。そうした場合、必ず人並みをかきわけて現れる男がいた。この男が出てくると、必ずどんなケンカでも不思議にまるく収まってしまうのである。男は冷静に双方の言い分をきいたうえで、「まあ、まあ、ここは俺に任せろ」となだめる。それでえもきかない時は、相手をグッと鋭く睨みつけるのだ。そのひと睨みで、もう相手は恐れ入ってしまう。笑顔が優しいだけに、その睨んだ眼付きの凄いこと。それもその筈、この男こそ、旧新撰組隊士中島登その人である。もともと、千人同心の出だが、近藤勇の密命で、武蔵・相模・甲斐三国の地理を調査し、住民の行動を探り、情報収集・宣伝工作をやっていただけに、人の心の機微を掴むことも、かけひきすることもうまい。そのうえ、修羅場をくぐって戦ってきた実力と迫力は、ウムをいわせぬ気迫があった。



島田 魁
明治二年五月十八日、旧幕軍の最後の砦、函館五稜郭がついに陥落した。その時、降伏の兵士たちは一斉に両刀を外したが、ただ一人、佩刀したまま恭順にのぞんだ武士がいた。その一徹さに敵も味方も驚嘆の声を惜しまなかった。その男こそ、島田 魁である。彼は新撰組隊士の中では、決して華々しさはないが、第一期隊士募集時からの入隊で、以後どの事件、戦いにも参加。隊と共に生き、そして死んでいった人物である。身長六尺余(180センチ余)、体重四〇貫余(一五〇キロ余)の巨漢である。



谷三十郎
谷を斬ったのは、どうも斉藤が、近藤勇の密命をふくんでやったのではないかと思うな。あの見事な突きぶりといい、われわれ検視に行くちょっと前に斉藤が外出から戻った。おまけに私が変なことをいっても、斉藤はもう察しているのかというような調子でむきにならなかったことや、周平の関係で、やかましくいいそうな近藤もあまり下手人の探索などは言わなかった。まことに危険な人間の寄り集まりだった。しかし、それにしては、何のために谷を斬ったのか、どうもわからない。
私が彼を怪しいと睨んだのが誤っていて、あるいはあの谷は案外つまらない浪人に酒の上ででもやられたのかも知れない。道場でやりを教える時は、私はいつもいまいもんだなぁと感心してみていたが、武術と言うものは実に不思議なものである。

(篠原泰之進翁)
画像は篠原泰之進翁



山崎 蒸(烝)
池田屋騒動では、薬屋に変装して池田屋へ泊まり込んで、西国浪士の動向を察知して、近藤たちの斬り込みに対して、屋内から誘導、浪士たちの刀を片付け、中錠をあけておいたというのだが、後日の報奨金授与のメンバーに、山崎の名前がない。
なぜなら山崎は、池田屋騒動の参戦は、勿論の事、事前の捜索活動も行っていなかった。
市中の捜索に動いたのは島田魁に浅野薫、そして川島勝司であった。
以上は”釣 洋一氏”によるもの

山崎はよく香取流の棒を使って、東海道や甲州路を変装して探偵して歩いたなどと、書いた物がありますが、私はそんな事は無かったと思います。
あれは大阪の林五郎左衛門という針医者の小忰(こせがれ)で、自分も針医者をやっていましたが、刀をさして歩きたいばかりに剣術の稽古をして武士の真似をはじめ、次第に浪人などと交際してました。
棒をやったのは見ませんが、長巻といって、柄の短い薙刀のようなものが上手で、新撰組の道場で、これを振り回して暴れているのを見たことがあります。
この山崎の相手には播州明石の浪人で、大変近藤の気に入りだった斉藤一がよく立ち向かっていました。
斉藤は流儀は何ですか知りませんが、実にいい腕でした。
新撰組の中では先ず五本の指に入る人でしたよ。

(八木為三郎老人壬生ばなしより)



藤堂平助
「壬生浪士のうち藤堂平助と申す者、わけて盛んなる壮士のよし。
当年17歳、この以前よりたびたびの鎮静のみぎりも、
いつも先駆けいたし候者のよし。
すなわち、右池田屋に真一番に斬り入り候ところ、深手を負い半死半生にて、しかしいまだ存命の命のよしござ候。
かねて魁先生と呼ばれ候ほどの者のよし」

薩摩藩士の記録”魁先生”より
ただし、この年齢17歳は誤記で当時21歳であった。

この記録には続きがあり
「藤堂和守泉の浪人にて、壬生組に入り候よし。
実は藤堂和守泉妾腹の末子とやらの噂の者にござ候よし。
いたって美男士のよしござ候」とある。



気の弱かった隊士
酒井兵庫は、新撰組成立と共に、京都から応募したいわば第一期以来の人物で、勇の信頼もあり、会計方を勤めていたりしたが、蛤御門の戦後、隊がいよいよ盛んになるにつれ、隊士の刑罰竣烈を極め、殺害される者が数え切れないので、ついに恐ろしくなって隊を脱走し、大阪住吉の神職某のところに姿をかくした。
兵庫は、最初からの人物であるから、いろいろ隊の機密も握っている。
これに脱走されては困るので、八方手を尽くして探した結果、その居所を突き止めたので、沖田総司以下五、六名が、ある夜不意に彼を襲い、
「薩藩の海江田武次に内通の旨密告する者あって承知した、隊規によって処断する」
旨を宣告し、屋外に引出して、斬り伏せて去った。
傷は急所を脱れ、ようやく生命は助かったが、後、手当を受ける時に、あまりにその刀傷の多いのと、深手であるのを見て、気を失い、そのまま絶命した。



気軽な愛嬌者
この日は丁度私の家では前夜から餅つきをやって大騒ぎをしていました。
まだお昼前でしたが、そこへひょっこり、「やってるな、やってるな」といって、
安藤早太郎という者が入って来ました。
この人は京都の虚無僧寺一月寺を脱走して来たものだという話で、副長助勤で京都の地理に詳しいものですから、よく見廻隊を引っ張っては出歩く人です。
気軽るな愛嬌者で、まだ歳も二十五、六でした。
私の家にも毎日やって来て、台所の方で。女中達へからかって、酒などを飲んで行くので、自然隊士の中でも心やすい方でした。
女中が、「安藤さん手伝って下さい」
というと、
「ようし来た、拙者は親類に餅屋があって、そこへ居候をして、餅の合い取りを半年やらされた、うまいもんだぞ。」といって、木綿のごちごちした羽織を脱ぐとそのまま袴の股立ちをとって臼の前へ立ち、頻りに下男のつく杵の下で餅の合い取りをやってました。
暫くすると、またひょっこり伍長の林信太郎がやって来ました。
中略
さて、林が、安藤の合い取りをしている顔を見るとすぐ、
「これぁ大変な男だ、驚いた奴だな」
といって、くすくす笑いながら、傍らにいた私の父へ
「八木さん、安藤は手を良く洗いましたか」
というのです。
父は笑いながら、
「怪しいもんですよ、ーーーーーーどうしたんですね」
ときくと、林は頻りに安藤を指さして、
「この男がね、今、野口さんの介錯をしましてね。後へ立っていてばっさりっとやると、刀を渡してすぐにすぅーと何処かへ消えて無くなったんですよ。何処へ行ったんだろうと思っていたら、もうこんな所へ来てこんなことをやってるんです。おどろいた男です」
と本当に驚いたようにして笑うのです。
父をはじめ私共一同「へーえ」といって、実は肝をつぶしました。
「野口健司さんが切腹したんですか?何処でです?」
「屯所ですよ、安藤が介錯でした。さすが野口さんだ、御立派な最後でしたが、こんな顔をしているが、この安藤の腕も大したものですよ」
「野口さんは何で切腹したんです」「さぁ・・・・・」
これだけ言って林も黙ってしまいました。
一臼つきあげると、安藤も、のさのさ父の傍らへやって来て、
「林、余計な事をいうな、折角忘れているものをーーーーーよ、ね八木さん、きのうまで同じ鍋の飯を食っていた先輩を斬るんですから、何んぼわれわれでもいい気持ちはしませんよ」
こんな事を言って、それっ切り、暫くみんな黙って終いました。





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