新撰組エピソード集

吉村貫一郎と言う男
その頃三十七、八。痩せてはいたが、丈の高いしっかりした体格で、左の眼の下に、子供の時に怪我でもしたらしい小さな傷痕があったという。
人物がおとなしい上に、何をさせても間に合う。それにただ俸禄をいただいて妻子を楽々と過ごさせたいという外に、別に邪心もないので、
これが反面非常に人情的なところのあった近藤勇の気に入って、
間もなく浪士調役兼監察というお役付きになった。
慶応三年三月、組の参謀伊東甲子太郎一味が、御陵衛士となって脱退した後ちの六月十日近藤は残留隊士二百四十幾名を堀川の屯営の大広間に集めて、
「特に御沙汰に依り、われら一同旗本に御取立の御内達です」と披露した時、真っ先に立ち上がって、「近藤先生、そのお言葉は事実でござりますか」と喜悦そのもののように叫んだのはこの吉村であった。
「左様。隊長御見廻組頭取格。副長同じく肝煎格。助勤御見廻組格。調役監察の諸氏は御見廻組並とのことです」
「は、有難うございます有難うございます」吉村は今にも、うれしさがこみ上げて来て、涙を落としそうな顔をした。
土方歳三が横から口を出して、
「吉村君、君等は三十俵二人扶持を賜ります」といった。「は、有難うございます有難うございます」吉村は、そのままそこへ座ると、最後までかしらを上げなかった。時々鼻をすすった。多分うれし泣きをしていたのであろうという。

故郷へは充分に金は送れる、定めし幸福な日を送っているだろうと、暖かそうな妻子の夢をみた。
この喜びも僅か六ヶ月、翌慶応四年正月が鳥羽伏見の戦い。
吉村は暮れの十一日に、隊に従って、新たに本陣と定まった伏見奉行所に移った。その直前に、会計方から、身分に応じて、それぞれ二分金ばかりで殆どつかみ渡しにお金の分配があった。
吉村は百両貰った。貰うとすぐにふいと屯営を飛び出して、かねて江戸から盛岡への継立て飛脚を毎々頼んでいる堀川の問屋京屋へ行くと、これを袋へ入れて渋紙でぐるぐる巻きにして、その場で書いた長い手紙と共に故郷の妻子へ届ける事を依頼して、戻って来た。
その時の本当の新撰組は六十六人。
一人減ってもひどく目立ったので、伍長の島田魁が、
「吉村先生、脱走かとおもいましたよ」と冗談をいうと、吉村は、言うに言われぬ顔をして、ただにやりと笑っただけで、一言も言わなかった。

戦争はご承知の通りのさんざんな敗けである。隊士は殆どちりぢりばらばらになって退却し、十二日に病隊長を護って軍艦富士山鑑で江戸へ逃げた。
味方にはぐれて、泥だらけになった吉村がひょろりとして、伏見へ戻って来た。
まごまごしていれば捕らえられて斬られてしまう。
ふと、その頃、綱島に、旧藩南部の仮屋敷が出来ていて、ここに、かねて知っている大野次郎右衛門という人が留守居役として出張している事を思い出した。吉村はこれを頼るより仕方がないと思った。
吉村は、淋しそうな口調で、
「これまでは幕府のために尽くしましたが、時勢がかくなりました上は、全く私も酬われずに終いました。この上は心を改めて勤王のために御奉公申したいのです、その機会を得るまでむかしのおなじみ甲斐に暫くの間お匿い置き下さいませんか」という。
「それぁ吉村君ちと虫がいい、君は新撰組として随分乱暴を働いたじゃないか、今となって身の置きどころがなく、旧藩を頼って匿まってくれなどというのは実に卑劣な話だ」
「そ、そ、それぁごもっともな話です。しかし私は、新撰組であろうと、勤王だろうと、私の妻子を養ってくれる俸禄を下さるところを求めて上方へ上ったのです。ですから私のの心の中には、どちらへついても別に恥ずかしくも、なんともないのです」
「わっはっは、それぁ尚おいけない、まるで忠義を売り物にしているというものだ、本当の武士なら幕府が今のような有様になれば成るだけそれに殉じなくてはならぬ筈だ、衰運を見て今度は勤王として働きたいなどとは、君はまるで武士の魂を持っていないね」
「そんなことはどうでもいいのです。妻子さえ安心して食えるだけに御扶持がいただけていたら私ははじめから藩を脱するような事はしなかったのですから。私は、私自身の為よりも妻子の為に忠義を尽くし、妻子のために生きて行きたいのです。徳川家が栄えようが、それが天朝様に代わろうが、私は、それよりも先ず私の妻子の食うか食わないかを考えるのです。私は妻子の為に死にたくないのです」
「聞くだけでも耳の汚れだ、帰ってくれたまえ吉村君、南部武士に君のような人のいたのは、わが藩末代までの恥だ」
「どうだ吉村君切腹しては?君は外に出ればすぐに縄にかかる、せめて縄目の恥だけはのがれたらよかろう。部屋だけは昔のよしみでお貸しするよ」
「切腹?は、しかし・・・・・・・」
どう決心がついたのか、とうとう切腹した。しかも介錯人なしの一人腹で、部屋中は血だらけ、十畳の隅から隅をころげ廻って、腸をつかみだしたり、刀で自分の眼を突いたり、頬を斬ったり、実に悲惨を極め、しかもその夜の中は虫の息で唸りつづけ、翌朝日が出てから、ばったり音がしなくなった。
床の間に、小刀と紙入に二分金が十ばかり入ったものが、ちゃんと置いてあって、傍らの壁に、大きな字で、
「此弐品拙者家へ・・・・」
と書いてあったという。




近藤先生斬首と有馬藤太
板橋の本営には薩摩の伊地知正治が参謀として控えていた。上田は有馬の手紙を持って行ったが、これには、大久保大和実は近藤勇であることや、その男らしい降伏の様子や、本営へ着いた上は充分待遇してやってほしいこと、勇についての処分は一切有馬自身に任せてほしいこと、などが書いてあった。
これで近藤の方は一方ついたので、有馬の軍は、目的通りに前進し、宇都宮の戦争で有馬は右乳上と右耳朶に負傷して護送されて、横浜修文館病院までやられた。
しかし、宇都宮の陥落で、板橋の本営は前進することとなったが、このごたごたに乗じて香川敬三が、土州の大軍監谷守部(千城)と共に極力勇断首を主張し、四月二十五日お昼頃、岡田藩横倉喜惣次の太刀取りで遂に板橋の原っぱで勇の首を刎ねしめた。

有馬翁はこれをひどく憤慨している。
「拙者はその時三十二歳、近藤は三十五歳であった。香川の奴は近藤の首をとった上に、それに飽きたらず塩漬けにして京都へ送り、三条河原に晒した。
実に口惜しいことであった。
どうせ殺すなら拙者の手にかけてやりたかった、武士の情けさえ知らぬ香川如きに殺られたのは、何としても心残りで堪らぬ。
奥州平定後に、拙者は香川に会ったから、
「なぜ貴様は近藤を殺したんだ」
と怒鳴ってやったら、
「近藤を生かしておくと、それを監視するために、莫大な兵力を要するから、仕方なく斬った」
という。拙者は、むかむかして、
「馬鹿!」
と言ったきり、その後は如何なる場合でも再び彼とは口もきいたことがない。
世間にこの事件の時参謀だったなどと宣伝されているが大嘘だ。
彼は岩倉公におべっかをしてあれまでになったが人物としては武士の風上にも置けぬ奴じゃ。
近藤は敵であったが徳川氏にとっては非常な忠臣じゃ、その上、彼は断じて皇室に鉾を向けるものではないし、しかも神妙に降伏している。
地を換えて考えれば、決して憎むべき人物ではないのじゃ。
中村半次郎(利秋)や野津兄弟なども、
「俺等がいたら決して殺させるんじゃなかった、立派な人物を惜しいことをした」
と言って非常に惜しんだ。
近藤という人物は一種の英傑で、拙者はたしかに大鳥圭介以上の人物であったと思う。

画像は中村半次郎(桐野利秋)



恋の沖田
沖田総司は十二、三の頃から、近藤道場の内弟子になったので、全く他人のような気もしませんし、千駄ヶ谷の植木屋へ移ってから、成願寺へわざわざ籠でやって来て、幾日も幾日も一緒にいるというような風です。
新撰組の人達は、相当女遊びをしたようでしたが、沖田は、余りそんな遊びをしなかった代わりに、京都で、ある医者の娘と恋仲になったのです。
これは沖田も話していましたし、勇も、母(つね)へ話しているのを聞きました。
しかし勇は、自分達の行く末を考えていたためか、惑時沖田へしみじみと訓戒して、その娘と手を切らせ、何でも、勇自身が口を利いて堅気の商人へ嫁入りさせたとの事でした。
沖田は、よく私へこの娘の事を話していました。ふだんは無駄口ばかり利いてる男ですが、この娘のこととなると、涙を落として語ったものです。

(近藤勇五郎老人思い出話より)




佐久間象山の忰(せがれ)
江戸の勝安房守から、局長近藤勇への添書をもって、三浦啓之助という十六、七の若い侍がやって来た。立派な服装をして、なかなかいい男ぶりであった。
勝の文面によると、信州の佐久間象山の忰で本名は慶之助、三浦は母方の性だという。
昨年(元治元年)七月十一日に木屋町の路上で暗殺された父の敵を討ちたい心願であるから貴下の局中においてよろしく御助力を仰ぎたいというのである。
啓之助は、はじめの中は、神妙にしていたが、年が若い上に、同士達からは、
「偉い、偉い」
と言っておだてられる。
象山先生の子息というので、ことに丁寧にする。啓之助は段々付けあがって、目に余る我がままをするようになった。
ある日、いわば大部屋というような同士達が集まって、刀の話がはずんだ。
「近藤先生がこの頃二尺三寸五分という脇差をお用いである。先生の御談義では、脇差は長いのに限る、実地に臨んでももし刀が折れたり損じたりした場合には脇差でも十分に立ち向かえると言うであるが果たしてどんなものであろう。一体先生のあの脇差は誰の作であろう、土方先生に伺ったがお答えがなかった」中略
そこへ、ひょっこり啓之助がどこからか戻って来て、この話の中へ入った。
「近藤先生のお話では、荒木又右衛門が、伊賀の仇討ちで、桜井甚左衛門へ斬りつけた刀は伊賀守金道で、二尺八寸五分あったが、それが一太刀で折れた、しかし脇差が二尺二寸五分もあったので、刀同様に働いたのことでした。
私の脇差も二尺以上にしたいと、実は今日も手頃な物を探しに行って来たのです」
という。啓之助は日頃母からの仕送りで金をちゃらちゃらさせている。隊士達の中にはこれを付け目にちやほやしてるが、心の内ではこの青二才と思っているものが多かったので、何かの調子で、大阪浪人のそれがしという武士が、
「三浦君、刀がいくらよくても腕が鈍くては駄目だよ、君なんか刀の吟味より腕の方が先だな」
と冷やかした。
啓之助は、ぐっと気色ばんで、「何を!」
といったが、そのまままたぷいと、どこかへ出て行った。
しばらくして帰って来た時は、その大阪浪人は、沖田総司と土方歳三が碁をうっているのを傍らから見物していたが、啓之助ずかずかと傍らへ行くといきなり、背中から抜き打ちにさっ斬り込んだ
刀は頭から小髪をかすって左の肩へ落ちたがその男は、「わっ」といって横に倒れる。啓之助も腰が定まらなかったと見えて、前の方へよろめいて行くのを、沖田に腕首を押さえられて、逆に二三間も飛ばされてしまった。この騒ぎに、
「なんだなんだ」と、部屋部屋から、隊士達が駆け込んで来る。
土方も沖田もひどく腹を立てて、「この馬鹿者!」
と襟首をつかんで、啓之助は畳の上へ鼻がしらをこすり廻されて、ところどころ真っ赤に皮が剥けててしまった。段々聞いてみると、
「腕が鈍いといわれたのが残念で、殺すつもりで斬ったのだ」という。
沖田は大口開いて、笑って、
「鈍いのが本当じゃねえか、このざまはなんだなんだ」と言った。
それがし浪人は、それでも肩を三針縫った。
ある日の夕方、沖田が、
「三浦君、どこかへお供したいな」と冗談をいった。
啓之助は、急に顔色を真っ青にしていたが、これは誘い出されて斬られるものと思ったらしく、その夜更けに、芦屋昇と二人、遂に新撰組を脱走して故郷の信州松本へ落ちてしまった。



隊服
新撰組が出来て、だんだん隊士が集まって来ると、前川さんを本部にして、ここから、槍をかついで二十人くらいずつ隊をこしらええて、京都府中の見廻りに出かけました。
隊服というのがありました。
しかしこれは全部に行き渡っていないので、まあ主立った人が、十人に一人か二人くらい着ていた程度のものです。
あまりいい服ではありませんので、しぜん誰も着なくなりました、もちろん近藤だの土方だのという人たちは着ませんでした。
この見廻りもやりましたが、それより別に変わった様子もなく、三人五人と普段着のまま出て行っては、京都中をぶらぶらしている事が多いようでした。

(画像は新撰組隊士と言う事だが残念ながら姓名は不明)



隊士たちの剣
新撰組隊士の中で誰が一番強かったか、ということが問題にされるとき、しばしばその名があがる隊士に、服部武雄(三郎兵衛良章)がいる。
いわゆる高台寺党の一人である。伊東が暗殺された夜、新撰組におびき出されて油小路に駆けつけた七人の内の一人で、四十余名の隊士を相手の奮戦がきわだった。
この斬り合いを実見した小山正武は、のちにこう語っている。
「当時、新撰組多しといえども、剣術においては服部三郎兵衛氏によく敵するほどのものはいない。敵の伏兵大約四、五十人が前後左右から、たちまち起って攻撃してきたところが、服部両刀をふるい斬っつけ斬っつけやったが、服部三郎兵衛の勇猛なる剣術の妙手には、敵もみなおどろいてしもうたということを、当時、新撰組の一、二の人士から私がのちに確かに聞き得たるところである」

剣を取っては隊中一、二を争う遣い手ともいわれた永倉新八は、近藤、沖田、藤堂、周平とともに最初に池田屋に討ち入ったうちの一人である。この襲撃で永倉は刀が折れるほどに働き、金十両、別段金十両、しめて二十両の報奨金を得ている。
流儀は神道無念流であるが、心形刀流の修行、天然理心流の修行もしている。

撃剣の師範は七名が名を連ねているが三番隊組長斉藤一もかなりの遣い手であったことは
後に新撰組でもっとも人を斬った男として有名。
流儀はこの人自体に謎が多く不明だが、娘さんの話では
「父の流儀はただの一刀流との事です」

やはり、傑出していたのは一番隊組長の沖田総司ではなかったか。
沖田の剣技の優れていたことについては、多くの証言が伝えられるが、文章からもそれを推考することも出来る。
一つは小野路の寄場名主、小島鹿之助の日記である。沖田が流行の麻疹にかかったとき、
「此人剣術者晩年必名人に可至人也故ニ我等深心配いたす」
と認めている。
もう一つは、近藤勇が日野の名主、佐藤彦五郎に宛てた手紙である。
「尚剣流名沖田江相譲り申度、此段宜御心添被下度」とある。
天然理心流を相伝させたいという近藤の意志があったことは、沖田の実力をまさに証すものである。


イメージイラスト提供    橘高 翔様



槍の大先生
千石槍と言われている谷が田内と言う隊士の介錯に決まった。
田内は「それでは皆様御免下さい」とあいさつして、介錯の谷を見上げると、静かに頭を下げ、短刀を「うむっ」と腹へ突き立てた。
「先生!谷先生、どうぞよろしく」
谷はすでに眼を血走らせて真青な顔をして非常に狼狽している。それがあまりひどいので検視をしていた播州明石の浪人第三番隊組頭斉藤一が、「谷さん!」
と、横から言葉をかけた。谷は、よくよく狼狽したものか、「やっ」といって、刀をふり降ろしたが、これが、田内の髷を払って、刀は稲妻のように、その鼻先へ流れ、切腹をしている田内が、あっと言って驚いて、のけぞる。二の太刀は田内の顎を切った。
それからはまるでめちゃめちゃで、頭といわず、肩といわず、顔といわず、谷はうめきたてて気違いのようになって膾のように切り刻むので、田内もまた悲鳴を上げ、猛然と立ち上がると腹へ突きたてた短刀を持って、夢中になってこれを振り回す。
あまりに悲惨でもあり、ついに斉藤一が見かねて、抜き打ちに田内を斬り倒してしまった。
「どうした、谷さん、さぁ田内は死んでいる、ゆっくり首を落としなさい」
というと、苦々しい顔で、谷を尻目にかけながら、一同さっさとそこを引き上げてしまった。
この谷が祇園石段下で、何者にか斬殺されたのは、介錯失敗の一ヶ月後。
「槍の先生が、お突きを見事にやられているね、篠原君」という。篠原も、
「左お突きさ、相手は君と同じに、左利きの遣い手だよ」
「君と同じは止してくれ」
二人が笑って、籠へ死体を入れて引き上げて来た。
近藤は黙っていた。土方も黙っていた。そして書記方から、守護職への届け書きには、
「七番組頭谷三十郎儀、祇園石段下に於いて頓死相遂げ候」とあった。



謎の老軍夫
原田は死んだとき、まだ二十九歳であった。一体新撰組の中でも随一といわれた苦み走った美男の原田の死骸が、どこに埋められたものであろうと、筆者は未亡人まさ子刀自よりの懇望もあり、しきりに本所深川方面の墓所を探しているけれども、震災後は事に無茶苦茶になってしまって発見することができずにいる。篤志の方でご存じあれば教えを願いたいものである。
一説に、原田は永倉翁のいうとおり妻子に心をひかれて、ただひとり同士に別れ、江戸から京を志したが、途中さすがに自分の未練らしいのに気がつくと、しみじみ世の中が味気なくなったものか、それからは飄然として、生も死もなく旅をつづけ、まったく行方を失ってしまった。
ところが、明治二十七、八年日清戦争の時に、一こと物をいっても胸のすくような、元気のいい老軍夫があって、それが月の夜などは高梁の葉かげに、戦い疲れている兵士たちを相手に、敵前などということは全く忘れたように、昔の思い出話を語ってくれては、よく笑い続けた。
「わしは維新の時に、ある恥ずかしい事をした。再び日本へ帰る気はないから、一つ元気よく支那兵の弾丸に当たりたい」
といったものだという。
これが誰いうことなく妻子に逢うことも出来ずに、ついにいつの間にか支那へ渡っていた新撰組の原田左之助の成れの果てだと評判になったが、その老軍夫は、「そうだ」とも「そうではない」ともいわず、ただ新撰組の活躍は手にとるように詳しかったというだけで、そののちどうなったか、消息をつたえない。
しかしおそらくは誰かの作り話であろう。



黒い猫
総司は死ぬ三日程度前、俄にひどく元気になって、お昼頃、突然庭へ出てみたいという。
姉のお光が、新徴組にいる婿の沖田林太郎と一緒に、御支配の庄内へ行った留守で、介抱の老婆がいたが、心配して頻りにとめるけれども、聞かなかった。
いいお天気の日で、蝉の声が降るようだ。
丈の高い肩幅の広い総司が、白地の単衣を着て、ふらふらと庭へ出る。すぐ前の植溜の、大きな木の根方に、黒い猫が一匹横向きにしゃがんでいるのを見た。
「ばぁさん、見たことのない猫だ、嫌な面をしている、この家のかな」
と訊く、そうじゃなさそうだと答えると、
「刀を持ってきて下さい、俺ぁあの猫を斬ってみる」と言う。
仕方がないから納屋へ敷きつめの床の枕元に置いてある黒鞘の刀を持って来てやると、柄へ手をかけて、じりじり詰め寄って行く。
もう二尺という時に、今まで知らぬ顔をしていたその猫が、軽ろくこっちをひょいと見返った。
老婆が見ると、総司の唇は紫色になって、頬から眼のあたりが真紅に充血して、はぁはぁ息をはずませている。
総司は、
「ばぁさん、斬れないーーーばぁさん斬れないよ」
といった。それっきり、如何にもがっかりしたようにひょろひょろと納屋へ戻ってしまった。
次の日も、またいいお天気。同じ昼頃になって、
「あの黒い猫は来てるか、ばぁさん」と聞いた。
婆さんが出て行ってみると、不思議な事に、昨日と同じ梅のところに、その黒い猫がまた横向きにしゃがんでいる。しかし、それをいったら、総司がまた出る、出てはからだに良くないと思ったので、「猫はいませんよ」と答えた。総司は一度、
「そうか」といったが、暫くするとまた、
「ばぁさん、どうも俺ぁあの猫がいそうな気がする、もう一度見てくれ」という。
婆さんが出てみるとどうも不思議だ。やはり猫はじっとしてそこにいる。今度は、婆さんもどういううものか居ませんよとは言えなかったので、「来ています」と言った。
「そうかーーーやはり、そうだろう。ばぁさん俺ぁあの猫を斬ってみる。水を一杯くれ」
納屋の出口へ突っ立って、婆さんの持ってきた水を、ごくごく喉を鳴らして飲んだが、顔を斜めにして眼だけは、じっと、その黒い猫を睨んでいる。すでに血走って、頬のあたりが、時々びくびく痙攣していた。
背中を円にして、腰を落として、また小刻みに猫に近寄ったが、やはり二尺位のところで、猫は、昨日と同じに軽ろくこっちを向いた。その猫の目を、総司はいつまでもいつまでも睨んでいる。そして、ものの二十分も経つと、
「ああ、ばぁさん、俺ぁ斬れない、俺ぁ斬れない」と、悲痛な叫びをあげると、前倒るように納屋へ転げ込んで、そこへぐったりと倒れてしまった。
婆さんの知らせで、平五郎も吃驚して駆けつけ、すぐに医者を呼んで手当をしたが、総司はそれっきり、うつらうつらと夢を見ているようであった。翌日の昼頃眼を閉じたまま、
「ばぁさん、あの黒い猫は来てるだろうなぁ」
といった。これが総司最後の言葉であった。息を引き取ったのは夕方である。

この話は、介護の老婆から、後に沖田林太郎夫婦に語った実話である。




上には上の剣士
近藤のやっている天然理心流というのは遠江の近藤内蔵助から伝えられたが、その頃の道場主近藤周助は、一説には神奈川生まれで八王子に住んで饅頭を背負い商いをしていたともいうが、武士えはなく、これが内蔵助に入門して剣を学び、養子になった、本姓を島崎という。
勇はこの人の養子になった。だからはじめの頃の神社への奉納額などには島崎勇と書いてある。周助がこんな出身で、江戸には道場はあったが大したことはなく、旧縁などをたよって三多摩地方八王子・府中・上石原・日野、あの辺へ竹刀へ道具を結びつけて肩に引っかけ、出廻り稽古をやっていた。あっちの庄屋方へ一泊、こっちの農家へ一泊という具合で、勇の仲間の沖田総司などが、黄びらの羽織を着てーーーなどという老人が前年までいたものである。
とにかく勇をはじめ沖田だの土方歳三だの五、六人で男谷道場へやって行った。何にしても一流の宗家で道場を持っている人だからというので、本目(縫之助)が出て対手をする事になった。
勇も廿七、八の頃だったと思う。一段高いところに男谷先生が座っている。
その鼻先で、出る者出る者、まるで子供の腕をねじるようなもので、朱の面費紐にやられてしまう。勝負にも何もならない。
最後に近藤が出た。勇という人はひどく甲高い気合いで、竹刀を右の方へ斜めに下げ、竹刀の先を道場の板へするような構えをしたそうである。
先ず型通りにこう構えて、いつ迄もじっとして対手の出て来るのを待っている。やがてそれが静かに動こうとした瞬間、さっと先を捕らえて、本目のためにただ一打でそれ迄命をこめていたこの竹刀が他愛なく巻落とされてしまった。
一同は本目の腕はすでに充分にしらされた。流石の家の先生でも到底駄目だとは思っていたが、その対手の素早さにはっとした時は、流石は勇、間髪を入れず、本目の胸板へ飛びついていった。竹刀は落とされても組み討ちに行って、対手の面を剥ぎとればこっちの勝ちである。
本目は体をかわすと同時に、足がらみにかけて勇を投げつけた。しかし勇は対手を押さえた手を放さないから、本目も引きずり込まれて一度にどっと転がった。
勇は体を転じて上になる。今度は本目が跳ね返す。転々としている中に、勇はとうとう本目に押さえ込まれてがくっと面を取られてしまった。
正に敗北である。
一度控室に引き上げて息をいれてから、勇は男谷へ聞いたものである。
「先生、わたくしの勝負は如何なものでありましたろうか」
男谷は微笑をふくんで、これに御答え、
「御気力はまことに天晴れと見申した。この上の御修行を祈り申す」

(近藤勇五郎翁の話より)



自衛の剣から修羅の剣へ
そもそも、天然理心流は武州の天領の、主として富農層の自衛のための武術として引流された。しかし、歴史は近藤勇、土方歳三、沖田総司ら試衛館の浪士たちを介して、この守りの剣を、修羅の剣として用いる場をあたえたのである。
試衛館に道場やぶりが来ると近くにあった練兵館から代人を立てて試合の相手を頼んだという。
試衛館が、というより天然理心流という剣法が、そもそも竹刀を取って、「やれ当たった」「それはずれた」を競う試合には不向きで、巧者の剣士も少なかったという事を、このはなしは伝えるものである。後世にこしらえられた話かもしれないし、真偽のほどはたしかめられぬとしても、この流儀の剣士たちには、竹刀試合など歯牙にもかけないところはあったに相違ない。
勇の養父で先代の周助が言っている。
「剣術てえのは、試合なんかどうでもいいのさ。負けても勝っても、ふだんにやっていれぁ、それでいざってえときに、役立つものよ。役に立つか立たねえか、そいつは、われが心づもり次第だわさ」
これは宮本武蔵の教えに通じるものがある。
”世の中に、兵法の道をならひても、実の時の役にはたつまじきとおもふ心あるべし。其儀においては、何時にても、役にたつやう稽古し、万事に至り、役にたつやうにおしゆる事、是兵法の実の道也”(五輪書)
また、男谷精一郎の師である平山行蔵は、
「剣刃上は武士が本然をつくす場であり、そこには死こそあれ、生はないのであるから、眼前に剣の山があろうと、烈火につつまれた窟があろうと、おのれは勇躍して突進する」
ばかりであって、剣士はただ、そのことにだけ純一無雑であれ、必死三昧にあれ、と説く。
それは華風に流れた、当時の剣法に対して、行蔵が高らかに鳴らした逆説であったが、やがて乱世を風靡することになったのは、彼の言う、肉を切らせて骨を断つような剣法だったのである。



土方歳三の遺品
市村鉄之助については、土方歳三の遺品を日野に届けたというエピソードがある。
函館戦争の雌雄を決した十一日、土方歳三は鉄之助を呼びつけ、歳三の遺品を日野に届けることを命じ、湯ノ川から落としたというのである。
鉄之助は艱難辛苦の末、やっとの思いで日野の佐藤彦五郎宅へ歳三の遺品を届け、三年ほど厄介になったあと、郷里へ帰り、西南戦争に出陣して没したと伝えられる。

(この写真も昭和初年までは土佐の土方楠元の若い頃と信じられていた)



思い出を語り残した人物
新選組隊士、特に”近藤勇””沖田総司”について多くを語り残した人物
”宮川勇五郎先生”。
特に板橋にて斬首となった近藤先生の遺体を運んだ事は有名。
(当時15〜6歳?)

先生は天然理心流5代目宗家としても有名。
明治初年頃、市役所に盗賊が現れた時に職員等と盗賊を追いかけた。
その際、他の職員等は抜刀したまま追いかけたが、
勇五郎先生は納刀したままであったと言う。
そして盗賊を捕まえてその場にて首を刎ねる時、
盗賊が一番恐ろしかったのは「あの刀を抜かずに追いかけて来た男だ」と話したと言う。

写真は昭和3年に元陸援隊士”田中光顕氏”が近藤勇生家に訪れた際の物である。
そこで京都から届いた近藤勇よりの手紙を読み
「近藤も我等と同じく尊皇の志を持った人物であったのか」と話したそうである。
敵も味方も”尊皇”と言う事では共通していながら戦っていたのである。
もっとも新選組も尊皇攘夷の志を持ちながら、
尊皇攘夷の志士たちを斬っていたのだから皮肉な話である。

勇五郎先生は昭和8年に亡くなっている。



四条橋湖
大胆不敵な片岡源馬は、こうしたじっとした生活をしていることに辛抱し切れないので、十津川へ出て行って剣術を教えたりしている。
この十津川の郷士中で第一の剣客は中井庄五郎。
まだ二十歳そこそこだが、活発元気な人物、居合は一流に達していた。
これが京へ上がるというのを聞いて、自分も形勢視察に出かけると、一緒に上洛し、中町の丸太町にある十津川郷士の屯所に滞在して、諸方の同士と往来していた。
ある日、高瀬四条下るの浮蓮亭で、この片岡と中井が酒を飲み、帰途、四条橋際で、新撰組の一粒選りの猛者、沖田総司、永倉新八、斉藤一の三人に出逢わした。
互いにそれとは知らなかったのだが、酔ったまぎれに喧嘩をはじめ、一斉に抜き合わせた。
中井は居合の達人だといったところで、場数を踏んだ新撰組の、この連中にしてみれば、生兵法に等しいものである。
斉藤一一人が立ち向かって切り立て、切り立て、中井は西の方に追いつめられ、たじたじとなってしまった。
片岡には、しぜん沖田と永倉とが左右から斬りかけたが、瞬く間に片岡は、左の肩先と右の足に深手を負って、橋の上にぶっ倒れてしまった。
闇の中で斉藤がみえない。
一人ぐらいを相手にしたのにどうしたのだろうと沖田、永倉がこれを探しに行く。
中井は、一時その場を逃げたが、三人の姿が見えなくなってから、こっそりと出て来て、息も絶え絶えになっている片岡を肩にかけて、ようやくその場の生命を拾った。
片岡はずいぶん深手であったが、ようやく姉小路で書店をやっている池村久兵衛というのが得意なので、ここへ逃れて応急の手当てを受け、それから下御霊社の裏手にある古本屋の小座敷を借りて、ここに潜んで傷治療をした。
新撰組の沖田、斉藤などは、後になって四条橋の斬り合いの相手は、土佐の片岡と紀州の中井と知り八方人相書をまわして手をつくし、捜索厳重を極めるので、片岡は、大体傷がよくなると、またこっそりと十津川の田中光顕のいたところへ戻って行った。
そしてまず第一番に、まっ裸になって肩の深手を出して見せて「これを見ろ」
と自慢した。

(田中光顕翁談)          画像は田中光顕氏



剣士仲間
試衛館の師範代と伊庭の小天狗とは、愛刀を持っての、とある試斬の会で顔を合わせたのである。
まもなく八郎は、三日に開けず牛込甲良屋敷地面内の試衛館に遊びに来るようになった。
これは道場破りに対する助太刀の意味もあったのかも知れない。
いずれにせよ、近藤勇の養父周斎も八郎が気に入っていたので、八郎が来るともりそば三枚をふるまうのを常としていたという。
周斎老人の唯一の趣味は軍談を聞く事であったが、彼は八郎や歳三がそばをうまそうに啜り込むのを眺めながら、今日聞いてきたばかりの軍談について、ひとくさり批評する。
しかし、そばを食べ終わると八郎はスッとどこかへ行ってしまう。
つづいて八歳年長の歳三も、姿を消してしまう。
かと思えばこの二人は、お人好しの周斎老人からしばしば小遣いをせびった。
「周斎老人の財布は、大抵の場合中味が豊富で、それをねらうのがいたずら者の伊庭八郎とその頃店の名は忘れたが、吉原は江戸町一丁目辺りの混ざり店に深いのがあった土方歳三と両人で、よく口実を設けては周斎老人に借款を申し込む。
すると周斎老人は二分や一両はきっと出してやる。
そして判で捺したように、
『くだらない女などに引っかかるんではないよ。ことに病気のありそうな女にはなぁ・・・・・・・
鼻の障子が取り払われるばかりでない・・・・・・・・・・
第一かさ(梅毒)をかくと膂力がぬけて剣術が使えなくなる・・・・・・・・・
勇には内緒だよ』
と叱言付きで財布をはたいてやる」

流泉小史『新撰組剣豪秘話』より    画像は伊庭八郎



総長 山南啓助
あれは丑年(慶応元年)の二月二十三日です。
七ッ時(午後四時)だったと思いますが、山南さんが切腹するということを、私の家の者へ知らせた人がありました。
どうも不思議な話で、あんなに新撰組の中でも勢力があり、まして最初から近藤と一緒に来て、一緒にここへ残った人なのに、そんなはずはないと思いましたが、急いで父も出かけたので、私も後からついて行きました。
ちょうど、私の家の門を私が出た時に、大急ぎで通る女があるのです。
見るとそれがかねて山南と馴染んでいた島原の天神で明里という女で、私どもでも顔は知っているのです。
歯を食いしばって眼を釣り上げていました。
私も、おやっと思いましたが、言葉もかけずに門の前に立ったまま見ていると、明里は前川さんの西の出窓の格子のところへ走り寄って、とんとん叩きながら何かしらしきりに叫んでいます。
それがただ事ならぬ様子なので私もしだいに側へ寄り、明里のうしろ十間ぐらいも離れたところで、黙って立って見ていました。
明里は「山南さん山南さん」といっていたようです
しばらくすると、格子戸の手障子が内からすぅーと開いて、山南啓助の顔が見えました。
私もはっとしましたが、明里は格子へつかまって、話をすることもできずに、ただ声をあげて泣きました。
山南のこの時の顔は今でも、はっきり思い出せますが、何ともいえない淋しい眼をして、顔色は真っ青でありました。
明里は泣いて、今にも倒れやしないかと、見ている私の方もおろおろしていました。
山南も涙を拭いて、顔をずっと格子のとこまで出して、何か、ぼそぼそと明里へ言い残しているようでした。
何を放しているのか聞こえませんし、ただ二人が格子の内と外で、じっとしているだけなのですが、明里のいかにも悲しそうな様子というものは、実際私も泣かずにはいられませんでした。
筆にも言葉にも尽くしがたい有様でした。
二、三十分も、そうしていましたが、隊士も出て来たし、明里のところからも人が来て、連れて去ろうとしました。
明里がまだ格子へしがみついているうちに、内からすうーっと障子が閉まってしまいました。
私はその時の事を思い出すたびに涙が出ます。明里は泣きながら去りましたが、私はその場を動くこともできずに、黙って西窓を見ている内にしだいに日が暮れて来ました。
今にその窓へ灯りがつくか、つくかと思っていましたが、とうとう灯りは入りません。
そこへ父が前川方から帰って来ました。
「山南さんはどうしました」
と聞くと、もう切腹してしまわれたと、ほろりとしています。父もやはり、そのまま家へは帰れず私と一所のところに立って、西窓を見つめていました。
「あすこの部屋だったそうだ」
といっていました。山南は、明里と別れを惜しんだ西窓で死んだのです。
山南時に三十二歳、介錯の沖田は二十二歳であった。






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