遠きトリノ

悩むにふさわしい、霧の日

こんにちは、ごぶさたしておりました。いかがお過ごしでしょうか。

さて、いよいよトリノ・オリンピック・・・なのでしょうか。ヴェネツィアにいる限り、オリンピックは何かよその出来事。ほとんどの情報を日本語メディアから得ている私は、残念ながら、「現地」情報をお送りすることができません。

この1カ月ほど、メイルも書けないほど多忙にしていたわけではないのですが、試験の準備等々でずっと家にいることが多く、わざわざメイルにして「みなさん!」と元気に呼びかけて書くほどのことがあるだろうかと、なんとなく書きあぐねていました。自分の満足だけで書く、ある意味消極的な日記はそれでも細々と続けていたのですが。

言葉の重み

試験前の、いつものことと言えばいつものことなのですが、再び、厚い言葉の壁に立ちふさがれて、もがきにもがいていました。
普段、私は友人としゃべったりするときには、1対1だろうが、グループだろうが、よほど方言が強かったりしない限りは、だいたい皆の言っていることがわかるし、私もほとんど皆と同じペースでしゃべっています。ほんとうに100%理解しているかというと、そうではないけれど、文脈で判断したり、あとは適当に流したり。でも、日本語、つまり母国語でも常に全部わかっているわけではないし、そういうものだろう、こうやってだんだん、理解度も上がっていくのだろう、と深く考えずずっとそうしていました。自分が話すときも、だてに皆と同じ勢いでしゃべっている分、いろいろ文法的な間違いはあるはずなのですが、普通に会話しているときには、誰も直してはくれません。
ですが、読むのと書くのは、相変らずとても苦手。なので試験も、授業の内容が中心、参考文献は文字通り参考程度、という科目については、ともかく通って、録音して、家でも聞いてまとめて、わからないところを本で探して・・・と、それなりに対策を立ててきました。特に、美術史関係は、まず絵(イメージ)ありき、なので頭にも入りやすい。何より、やはり好きなものは、聞くにせよ、読むにせよ、なんとかなるものです。
問題は、授業が試験にあまり役に立たず、かつ課題の本が何冊か別にある科目。今残っているのは全て、苦手だからついつい後回しになってしまったものばかり。もう仕方ないのですが、まさに七転八倒。本を開いて、目で文字を追うものの、一向に頭に入りません。
友人たちも、「外国人には大変だよね」と同情はしてくれるものの、ふだん私がエラそうにしゃべっているだけに、「読むのは大変」といっても、せいぜい1.5倍くらいかかっているのだろう、と思われているくらい。彼らの3倍、4倍、5倍かかって、しかもその半分も理解できているかどうか・・・というところまでは、思い及ばないでしょう。

ずっとこうして、「読めない」病に苦しんでいた上に、得意だと思っていた「しゃべり」にも黄信号がかかりました。読めない・書けない解消のために、1カ月くらい前から、友人にイタリア語を見てもらうことにしたのですが、これがもう、思っていた以上にひどい。作文を書けば、「完全にしゃべり言葉」。それは承知の上として、ふだん何気にペラペラしゃべっている部分も、書いてみればバッサリ文法を直されます。そして、恐怖の前置詞と冠詞。日本語で言えば「て・に・を・は」が違うと意味が全く逆になることもあるし、自動詞・他動詞の違いも同様。冠詞が違うと、やはり意味やニュアンスがかわってきます。今までずいぶん、いい加減に話していたこと、聞いていたことに、思わず青くなります。
あるいは、「文法的にはまったく正しいけど、発想が極めて日本人的で、イタリア人にはありえない文。」!!!!!私はイタリア語で話すときは、日本語から訳さず、そのまま口をついて出てくるまましゃべっています。イタリア語で考えているか、というと少し違って、正直のところむしろ、口先だけでつるつると、ほんとに考えなしにしゃべっているような気さえします。その結果が、この判定。

1つ1つの、言葉をもっと大切にしよう、と思いました。

根本的にイタリア語も、またきちっと矯正しなければ、などと思いつつ、悩み、もがき、自分なりに苦しんで迎えた今日の試験、「ともかくダメ元でも受けるだけ受けたら」との周りのアドバイスにも、準備不足はななだしくどうしても受けられませんでした。

それでも、今まで何度もトライしようとして、まったく手のつけられなかったのが、人の助けも借りて、消化できそうな見込みがでてきたのが唯一の救いでしょうか。次回は、きっと。

それでは、また。
Fumie

6 febbraio 2006