『大審問官と自由からの逃走』

 

内容

1.はじめに

2.自由への恐怖〜神からの別離

3.人は何故自由を恐れるのか

4.自由とは両立し得ないもの〜悪魔の3つの問いから

5.いかに恐怖を克服するか

6.おわりに

※無断転載はご遠慮下さい

1.はじめに
 人間には自由を得たいという内的な欲望のほかに、服従を求める欲求がある。
 この逆説的な命題を発見し、解き明かそうと試みた人物に、ドストエフスキーとフロムがいる。ドストエフスキーは彼の最後の長編小説である『カラマーゾフの兄弟』の中でイワンという悩める無神論者が創作した『大審問官』という大叙事詩を通して、人間が自由に恐怖し、一刻も早く誰かに自由を受け渡そうと苦しむ様を生々しく描いた。一方、フロムは『自由からの逃走』のなかで、ナチスドイツにおいて、ドイツ国民がヒトラーにいともたやすく自由を売り渡してしまったという現象は特殊な現象ではなく、人間の本性の中に自由を恐れ、自由を放棄しようとする傾向があることに由来するのではないかという問いから出発し、心理学的分析によってこの問題を検証している。ここでは両者の共通点、相違点を指摘しながら、自由の意味について考えていきたい。

2.自由への恐怖〜神からの別離
 フロムは人間の自由な選択への恐怖が特に雄弁に語られているのは、人間の楽園追放という聖書の神話においてであるという。

 ……神話はこの最初の自由な行為が、どんなに罪深いものであり、又その結果生ずる苦悩が、どのようなものであるかを特に強調する。……男と女はエデンの花園において、お互い同士、又自然とも、全く調和して生活している。……人間は善悪の知恵の木の実を食べることを禁じられている。ところが彼は神の命令にそむいて行動する。……権威の命令に反抗し罪を犯すことは、積極的な人間の立場から言えば、自由の最初の行為であり、最初の人間的な行為である。i

 聖書では自由な行為とは、神への反逆を意味し、人間は今までの楽園での生活を失ってしまうという悲劇的な結果を招くものとして描かれている。楽園を追放された人間は自由であるが、孤独で無力である。新しく獲得した自由は喜びではなく人類に降りかかる呪いである。
 このテーマはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』では主要なテーマの一つである。イワンの思想の代表的なものに、「不死がなければ全ては許される」というものがある。すなわち、神の世界を否定すれば全てを自分で選択する自由を得ることが出来るというものである。小説中、この思想を持つイワンは、自由を得て生き生きと生活するどころか、病気をわずらい、ついには気が狂い、危篤状態に陥ってしまう。又、イワンは弟のアリョーシャと飲み屋で初めて自分の思想を包み隠さず話す場面で、神の調和の世界を激しく非難する。彼は、コレクションしているという、子供が親や権力者にひどい迫害を受けた事例を示す。そして、このような子供の苦難の上に築かれた神の調和を容認しなけらばならないのであれば、彼は神の世界を認めないと熱烈に語るのである。これらのことから、『カラマーゾフの兄弟』は神の調和を否定し、
自由を得た(ドストエフスキーの時代でいう)現代のアダムである無神論者イワンが、自由に押しつぶされてゆくという、ロシア版楽園追放物語であるということができるであろう。 
 
3.人は何故自由を恐れるのか
 これまで、フロムが例示した聖書の楽園追放の話とドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中で、自由が悲劇をもたらすというテーマが力強く描かれているのを見てきたが、しかし、人は何故自由を恐れるのであろうか。
 フロムは人が自由を恐れる理由として次の二つを挙げている。
 @人間は他人と何らかの協同なしには生きることが出来ず、生きようとする限り、敵や自然の脅威から自分を守るためにも、あるいは働いたり生産したりする事が出来るためにも、他人と協同することが必要である。ii人は子供のときに他人の助けが必要であることを痛切に経験し、孤独を恐れ、何かに帰属していたいという欲求を心に刻み付けるため自由を恐れる。
 A人には主観的自己意識の事実、あるいは自己を自然や他人とは違った個体として意識する思考能力があり、どこかに帰属しない限り、又生活に何らかの意味と方向とがない限り、人間はみずからを一片の塵のように感じ、彼の個人的な無意味さに押しつぶされてしまうから。iii
 簡略化すると@生存のため、A人生の意味付けのため、となるであろう。
 一方、ドストエフスキーはイワンがアリョーシャに語る大審問官という自作の大叙事詩の中で人間が自由を恐れるメカニズムについて言及している。@については、大審問官はパンのために自由を放棄する人々を描いてあらわしている。そして、Aについてはイエスが人間の良心を支配せずに自由にしたことを非難して次のように述べている。

 ……もしだれかがおまえに関係なく人間の良心を支配したなら、そう、そのときには人間はおまえのパンすら投げ捨てて、自己の良心をくすぐってくれるものについてゆくことだろう。この点でおまえは正しかった。何しろ人間の生存の秘密は、単に生きることにあるのではなく、何の為に生きるかということにあるのだからな。何の為に生きるかという確固たる概念なしには、人間は生きてゆくことをいさぎよしとせぬだろうし、たとえ周囲の全てがパンであったとしても、この地上にとどまるよりは、むしろわが身を滅ぼすことだろう。iv

 ここでは、良心の自由が問題にされており、人間は良心を支配されたときはじめて、生きる目標を見出すとされている。さらに、大審問官はイエスへの非難の中でこの後もずっとパンの重要性を説き続けるにもかかわらず、人間にとっては生きる目標を得ることのほうがパンよりも重要であると述べている。「……不死がなければ、善もないのです。」vと主張して来たイワンとしては、ここで明らかな自己矛盾を侵してまでもやはり大審問官に良心の自由の重要性を認めさせざるを得ないのである。そこで、大審問官は人々が善悪の判断をできるようにキリストの名による支配であると嘘をついてまで、人々の良心を支配するという、苦肉の弁証法的解決策を講じなければならないのである。
 以上のように、人は総じて弱い存在であるため、自由になると解放感よりもむしろ孤独や無力を感じ、生きる目標さえ失ってしまうため、せっかく得た自由を(目に見える、見えないにかかわらず)権力者に売り渡してしまいたいという欲求に駆られてしまうのである。

4.自由とは両立し得ないもの〜悪魔の三つの問いから
 これで見てきたことからだけでも人が自由を保持することがいかに困難であるかは十分理解できようが、人が自由であることをさらに困難にする要素がある。それは、人間にとって非常に魅力的なものが、自由とは両立し得ないものであることに由来する。
 ドストエフスキーは、イワンの『大審問官』のイエスとの対話で、イエスが悪魔の三つの誘惑を退けたことを激しく非難するが、その三つとは@パン、A奇跡、B権威である。これら三つはどれも自由とは両立しないというが、大審問官は人類の大多数は歴史を通して自由よりも悪魔の贈り物を重視してきたと言うのである。
 第一の悪魔の誘惑は、石ころをパンに変えてみろ、というものである。この提案を、イエスは、服従がパンで変われたものなら、何の自由があろうかと考え、退けた。しかし、大審問官は、多くの人は良心の自由に堪えられず、もしくはその意味さえ理解できず、もっとも明白なパン、すなわち食や財産や名声など欲望を追い求めるものであり、イエスの言葉は選ばれた少数のものだけの救いにしかならないと非難する。(しかし、先程述べたとおりパンの絶対性は大審問官自身の中で揺らぐ)
 第二の誘惑は、悪魔がイエスを寺院の頂上に立たせて、神への信仰を証明するために下に飛び降りろ、というものである。イエスはここでも提案を退けた。これに対し大審問官は、人間は神よりはむしろ奇跡を求めているもので、奇跡によるものではなく自由な信仰を求めるなどということは普通の人には到底できぬことであると反論する。
 そして最後の誘惑は、地上の王してやるというものであって。もちろんイエスは拒否するが、大審問官はこれを受け取っていれば、人間の求めることは全て叶えられたのであるという。何故なら、誰に良心をゆだねるべきかという人類始まって以来の問題が帝王の座を受け取ることによって解決されたはずだからである。
 このようにして、大審問官は人間の多くが自由よりも欲しがるものを挙げていくわけであるが、これらは全て自由とは両立せず、人間を服従の道へと導くものである。そして、服従とは目に見える権力への服従のみを示すのではなく、富や名声等を求める欲望、良心の支配権を受け渡すことによる内的な服従を示すことが明らかにされている。これらの大審問官の言葉が非常に説得力をもつのは、全てが歴史的現実に適合し、現代でも、というより現代ではより一層適合するからである。

5.いかに恐怖を克服するか
 さて、これまで見てきたとおり、自由とは恐ろしいものである。このような自由の恐怖に直面した人間にはどのような選択肢があるであろうか。一つ目は当然、@なにかに服従することであるが、フロムは二つ目の答えとして、A人間や自然にたいする自発的な関係を挙げている。これは個性を放棄することなしに個人を世界に結びつける関係であり、そのもっともはっきりしあらわれは、愛情と生産的な仕事であり、そのためには全人格の統一と力強さが必要であると述べている。viすなわち、自由を得た人間が服従に向かうか否かは自我をどこまで成長させるかにかかっているのである。
 ドストエフスキーの場合も、フロムのAに類する叙述が見られる。それは、イワンがアリョーシャに『大審問官』を聞かせる前に楽しく談笑する場面である。

 「……そうなんだときにはどこがいいのかわからずに好きになってしまう、そんな相手が大切なんだよ。……春先の粘っこい若葉や、青い空を、俺は愛してるんだよ、そうなんだ!この場合、知性も論理もありゃしない。本心から、腹の底から愛しちまうんだな、若い最初の自分の力を愛しちまうんだよ……」vii

 ここでのイワンの言葉は、フロムの言葉に照らし合わせると、誰かから押し付けられたものではない本心からの愛によって若葉や青空といった自然や人間と自発的な関係を築くことを表しているといえよう。
 

6.おわりに  

 人は様々な外的な権力に支配されてきた時代、自由を得たいと努力しつづけてきた。そして長い闘争の末、とうとう権力を打ち倒した。しかし、その後人間は自由の恐怖に直面し、今度は自由を売り渡すために努力することになってしまった。
 選択の自由とは、選択する自己がいて初めて価値を持つし、表現の自由は、表現するに足る個性を持った人間とってのみ価値を持つ。
すなわち、自由とは自分の人生を生きるための条件に過ぎず、本当に自分の人生を生きるためには、強い自己が必要であり、それなしには自由は宝の持ち腐れである。
 えてして社会の価値観に流されやすいわれわれ現代日本人は、知らぬ間にせっかくの自由を放棄していないか、考え直してみる必要があるのではなかろうか。

                                                                
i E.フロム著、日高六郎訳『自由からの逃走』(東京創元社、1951年)43ページ
ii 同書、27ページ
iii 同書、28ページ
iv ドストエフスキー著、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(上)』(新潮文庫、1978年)489ページ
v 同書、130ページ
vi E.フロム、前掲書、40ページ
vii ドストエフスキー、前掲書、441ページ


参考文献
・ E.フロム著、日高六郎訳『自由からの逃走』(東京創元社、1951年)
・ ドストエフスキー著、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(上)(中)(下)』(新潮文庫、1978年)

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