卒業旅行 マレー半島縦断の旅 【5日目】

1994年2月13日 クアラルンプール→シンガポール

 辺りがまだ暗い内にバスはマレーシアの首都、クアラルンプールに到着した。僕とU君は今度こそ鉄道で行くぞ、という想いを胸に眠い目をこすりながら鉄道駅へと歩いた。建物の大部分のシャッターは下りていたが、真新しくて綺麗なオフィスビルが目立ち、バンコクとは違って上品な印象を受けた。途中、駅前にインド人経営の喫茶店で朝食を済ませた。
 まだ6時過ぎなのに、中国正月のせいか、日曜日だからか分からないが、駅構内は多くの人でごった返していた。シンガポールに7時間で着く快適な急行列車はまた満席だった為、僕等はエアコンなし3等自由席の各駅停車に乗ることになった。シンガポールまでは約10時間の道のりだ。
 各駅停車が来るホームはマレー系の人々が大多数で、他にはインド系が少しいる程度だ。金持ち華人の姿はどこにも見当たらなかった。のろのろとやって来た列車は、バタン・ベサールからバタワースまで走っていた列車と全く同じ形のものであった。座席に余裕があったので、僕等はそれぞ4人分の座席を確保し、別々の席に着いた。
 最初の方は広々として快適であったが、途中の駅から人がたくさん乗り、エアコンがないので、非常に暑い。車内の暑さは尋常ではなく、シンガポールの道のりの半分以上を病人の様に寝て過ごした。トイレに行って戻っては寝、腹が減ったので食堂車でナシ・ゴレンという焼き飯を食べては寝、U君の席に行って話をして戻っては寝ていた。
 「オリル」
 はっと目が覚めた。僕の横に座っていたマレー系の若者が確かにそう言ったのだ。僕はびっくりして、
 「Can you speak Japanese?」
 とたずねてみた。しかし全く反応がなかったので、今度は日本語でゆっくりと、
 「日本語話せるのですか?」
 これも反応がなかった。確かに僕が降りるには早過ぎるし、「オリル」と言った青年も別に降りる様子はない。とにかく、暇だったので彼とコミュニケーションを取る事に決めた。僕はかばんから「地球の歩き方」を出し、マレー語会話のページを開いて彼に見せた。当然、横に日本語訳が書いてあるのだが、彼は一生懸命、単語の1つ1つをたどたどしい英語で説明してくれた。「kawan」という単語で、彼が「僕と君の事」と何気なく説明してくれた事が印象的だった。「友達」と言う意味だった。
 この後、サリーを纏ったインド系の女性も話に加わり、暑くても楽しいひと時を過ごす事が出来た。午後3時頃、「オリル」と言った若者は列車を「降り」、他の人たちも大勢降りていったので、静かになった車内で僕はまた眠り始めた。
 午後5時過ぎに列車内で簡単な出国手続きを終え、その後1時間程度でシンガポールに到着し、10時間に及んだ灼熱列車の旅は終了した。

 シンガポール駅構内で1万円のトラベラーズチェックをシンガポール・ドルに両替し、僕等はMRTと呼ばれる地下鉄に乗った。70セント(約50円)だった。サマセット駅で下車し、そこから10分ほどしてあらかじめチェックしていた安宿に到着し、ツインの部屋を取った。昔は高級ホテルだったのであろう。ホテルのつくりは立派であるが、全てが老朽化し、物静かな老人と、その娘らしき中年女性が2人だけで経営しているようだった。
 鍵を渡され、部屋に入ると、何とベッドはツインではなくダブルであった。体が元気だったらすぐに文句を言いに行く所だったが、タイからシンガポールまでほとんど休みなく来た僕等にはベッドがあるだけでも楽園であった。一応クーラーもあるし、ホットシャワーも出て2人で36シンガポール・ドル(約2,600円)だから文句は言えない。
 部屋の壁には古い雑誌の切抜きがポスターの様に空しく貼られていた。夕食へ出掛ける前に、僕等は順番にシャワーを浴びた。3日間風呂に入らず汗にまみれた体にホットシャワーが染み透った。シャンプーはなかなか泡立たず、体をこすったタオルは、換気扇を拭いた布の様に真っ黒になった。
 シャワーでさっぱりした僕等は、歩いてオーチャード・ロードの裏手にある、ホーカーズという屋内のフードコートで夕食を取った。ここも中国人・欧米人・日本人と様々な人種で賑わっていた。食べ物の味・種類・値段は、ペナン島で、タクシーの運転手に連れて行ってもらった店と変わりはなかった。
 ホテルへの帰り道、シンガポールの物価を確認する為に、セブンイレブンに寄った。菓子等の値段は日本の8割もした。夜食用にポッキーと缶ジュースを買って店を出た。

 この卒業旅行の折り返し点は、次の目的地、インドネシアのバタム島だ。U君とも明日でお別れである。とにかく、今日はベッドに横になってのんびりと休ませてもらう事にする。