旅の扉 1992年沖縄

旅先での出会いが、どれだけ素晴らしいものかを教えてくれた最初の旅でした

 僕が偶然、眼鏡をかけた男性、村上さんに出会ったのは始めての沖縄島に着いてから5日目のことであった。
 僕が沖縄に来たのは1つの経緯があった。   
 その前の年の大晦日、僕は例年通り、家族と一緒にこたつに入って紅白歌合戦を見ていた。年越しそばをすすり、腹もいい具合になってきて眠くなりかけたその時、沖縄復帰20周年ということで、沖縄のミュージシャンが出てきた。そのバンドの名は、喜納昌吉&チャンプルーズ。そのバンドのリーダーらしき髭面の男が何とも言えぬ優しい声で歌い出した。
 「泣きなさい。笑いなさい。いつの日か、いつの日か、花をさかそうよ・・」
 僕は思わずそのシンプルかつ、悟りを開いたようなその歌詞に涙ぐみそうになったが、家族がいる建て前、それを我慢せざるを得なかった。  
  そして年が明けるとすぐに僕は彼のCDを買いに出かけた。そのCDを聞くや否や、すっかり彼等のファンになり、更には沖縄音楽のとりことなってしまった。9月には大阪で行われた彼等のライブにも出向いたが、非常にエキサイティングで感動的な最高のライブだった。  

  その歌詞から流れる未知なる沖縄を一度見てみたいと思い、大学のサークル活動や授業が落ち着いた11月、とうとう憧れの沖縄へ足を踏み入れることが出来たのだ。
 沖縄には他の日本とは大きく違うものがたくさんあった。11月でもTシャツ1枚で過ごせる気候、珊瑚礁の綺麗な海、長寿の秘訣と言われる沖縄料理の数々、所々にアメリカナイズされた街並み、亀甲墓と言われる家のような墓、民家の屋根や門柱に見られる守り神シーサー、人懐っこくて優しい人々、何度聞いても全く聞き取れない沖縄方言・・。
 最初は全てが新鮮で、必要以上に重い荷物を抱えながら、南から北までバスに揺られながら駆けずり回ったが、沖縄にも冬の気配が訪れ、そろそろ体力的にも限界を感じていた。もうそろそろ家に帰ろうかなと思った。
 家に帰る前に沖縄民謡を生で聞きたいと思い、夜9時頃、あらかじめ目星をつけておいた、沖縄市はコザ仲之町の民謡スナックに足を運ばせた。客は誰もいず、カウンターにはお姉さんが2人、暇そうにしているだけだった。実は僕は酒が飲めないのだが、ここに1人で来てコーラやウーロン茶を頼むわけもいかず、仕方なくビールを頼んだ。
 しばらくして、三線引きの男性が背広姿で現れたが、僕の他に客がいないため、何も演奏することなく、ややぶっきらぼうな態度で僕にふるまった。 三線引きの彼や従業員のお姉さん達と話をしていると、2人の男性が客として店にやって来た。1人は髭面で見るからに沖縄の顔をしていた。もう1人は眼鏡をかけていた。
 僕はカウンターで、彼等はテーブルで飲んでいると、眼鏡をかけた方が僕に話しかけてきた。
「観光?どこから来たの?」
「神戸です」
「あ、そう。近いね。僕は加古川出身なんだ。今はこうして沖縄に住んでいるけどさ」
「僕、喜納昌吉さんのファンで、沖縄を見てみたくてここに来たんですが、もう明日帰るつもりなんです」
「え?明日ね、昌吉さんのライブが近くの小学校であるんだよ。しかも無料だし、僕は昌吉さんとは顔見知りなんだよ」
 帰る前に朗報である。僕は迷わず、そこに行くことに決めた。どうせ気楽な学生の身分である。少しくらいの延長なら問題ない。彼は自分の名刺を手渡してくれ、電話番号を書いてくれた。
 その後、上機嫌になった三線引きの演奏も始まり、宴は3時まで続いた。彼等は朝まで飲むつもりだろうが、飲まされて前後不覚間際になった僕はヘトヘトになっていた。僕は自分の支払いを済ませ(何とわずか3,000円だった)、彼等に十分お礼を言って、ちょっと年増のお姉さんの1人に見送られながら店を出た。
 店を出る時、
「あの人はね、あなたに電話してもらいたいのよ。だから、明日電話してあげなさい」
と僕にアドバイスをしてくれた。
  次の日、起きたら午後3時を回っていた。かなり焦ったが、たっぷり寝たお陰で体力は回復したし、酒も残っていなかった。僕は早速夕方から始まるコンサート会場に出かけることにしたが、その前にお姉さんに言われた通り、村上さんに電話をかけることにした。彼女の言う通り、彼は僕の電話を待っていてくれたような口ぶりだった。ひとまず、彼の家でコーヒーをご馳走になり、一緒に歩いてコンサート会場へ向かった。
  会場である小学校に到着したが、開演までまだ時間があるので人気はあまり感じられない。でも、しばらく歩いて行く内にライトアップしたステージが見えて来た。喜納昌吉&チャンプルーズがリハーサルをしていた。僕は彼等をこんな近くで見ることが出来て、とても興奮した。しかも、誰にも邪魔されずに間近で見ることが出来るのだ。
 僕は彼等が休憩をとっている間、早速喜納昌吉さんの所へ向かって手帳を差し出し、サインをお願いした。すると彼は快く、サインをしてくれた。もうすぐライブなので、ほとんど会話が出来なかったが、それでも十分満足だった。実は彼のサインは大阪のライブでCDを買った時にもらったのだが(もちろんその場で書いてもらった訳ではない)、今もらったサインはそれよりも100倍は嬉しかった。
 感激のあまり浮かれている内に、地元の人がたくさん集まり、コンサートが始まろうとしていた。どうやら選挙運動の応援という名目でのコンサートらしい。
  まずは、立候補者の弁論がしばらく続き、その後で彼等のコンサートが始まった。 大阪のライブのようにファンばかりが集まっているわけではないが、なかなかほのぼのとして楽しい。沖縄の人はみんなノリがよく、曲ごとに踊ったり手拍子を打ったりしている。
 そして、ライブのフィナーレを飾る「ハイサイおじさん」が流れた。本土でもかなり有名な曲だ。大阪のライブでは、この曲が始まると熱狂的なファンはステージに上がって踊るのだ。見るからに楽しそうだったが、その時はとても畏れ多くてそんなことは出来なかった。このライブでも昌吉さんに促されてみんなステージへ上がって行った。正直羨ましいなと思っていると、一緒にライブを見ていた村上さんが、
「さあ、ステージへ行こう」
と僕の手を引っ張った。恥ずかしいけれどこうなったらヤケクソである。僕は上がってみんなに合わせて踊った。昌吉さんともその間に握手してもらった。本当に気持ち良かった。 でも、ラッキーなことはそれだけで終わらなかった。コンサートが終わるとみんなで記念写真を撮ったりしていたが、突然村上さんが、
「これから、昌吉さんのお父さんの家で、打ち上げがあるから一緒に行くといい」
と言ってきた。どうやら村上さんがメンバーに同行を取り計らってくれたのである。そう言って彼は先に家に帰ってしまった。さすがは、顔見知り。僕は村上さんに大いに感謝した。そして、民謡スナックのお姉さんにも感謝した。
 打ち上げでは終始緊張気味だったが、チャンプルーズのメンバーやスタッフはとても気さくで優しかった。僕はまるで夢を見ている気持ちだった。だって、喜納昌吉さんに憧れて沖縄を旅していて、会うことなんて全然期待していなかったのに、こうして会えたなんて・・。
 しかも、次の日は那覇のスタジオでレコーディングがあり、それも見学させてもらった。そのスタジオは電気屋の最上階にあったのだが、関係者以外は一切立ち入り禁止なのである。その日のレコーディングは深夜まで続いたが、全く退屈することがなかった。
 沖縄を経つ最後の日、お世話になった人達にお礼を言って、飛行機に乗った。もちろん、彼等にはその後も再会し、今でも沖縄に行った時には会いに行っている。こんな出来事があれば、旅にはまらない訳がないではないか。  あれから10年、こうして僕の旅は今でもずっと続いているのである。

1992年11月の沖縄