黒石ねぷたの歴史
☆ねぷたの由来と歴史
伝説では昔、坂上田村麻呂が蝦夷征伐のおり、大丈丸という蝦夷の首長が
岩木山に立てこもって田村麻呂の軍を悩ましたので、美しい人形の中に人を隠して川へ流したところ、
それに誘われて大丈丸が出てきたのを捕まえたなどといわれている。
その人形がねぷたの始まりともいわれている。津軽地方のねぷたが、いつの時代から始まり、
どんな形のものであったか明確な資料はないが、
享保9年(1724年)7月7日に津軽五代藩主信寿が弘前城下に出て
見物をした記録があるところからみると、この時代には相当盛んになっていたものだろう。
☆黒石ねぷたの歴史
黒石藩祖津軽信英は津軽藩祖津軽為信の孫で二台藩主信牧の次男である。
明暦元年(1655年)に黒石に分地して藩祖になった。
黒石ねぷたが資料に登場するのは天保12年(1841年)に、黒石上町の
商人で「金正」佐藤という人が描いた黒石のねぷた絵が載っているのが最初である。
☆黒石ねぷたの特徴
黒石には古くから人形ねぷたと扇ねぷたの両方があった。青森は人形ねぶたであり、弘前は
扇ねぷたに代表されるが、黒石は両方が共存してきた。
黒石ねぷたには黒石独特のものがあり、それは人形ねぷたの作り方にみられる。
その一つはねぷたを乗せる台が三段〜四段と積み重ね、その上に高欄があることだ。
もう一つは見送りである。見送りは表面の武者人形に対して美人画を書く。
表面の絢欄豪華に対し徹底してものさびしさを追求する。観客はこの
見送りに魅せられる。