アシュケナージの軌跡
じゃあ、ちょっとかるめに紹介。
参考文献「アシュケナージ 自由への旅(ジャスパー・パロット=著・奥田恵二・宏子=訳)」
| 1937.7.6 | モスクワの東方約250マイルにあるゴールキに、ダヴィッドとエヴストリアの間の子として生まれる。 父はソビエト中を飛び回る、エストラーダ所属の売れっ子即興演奏家。 母は当時すでに専業主婦だったが、ゴールキ技能学校出身でそこそこの歌い手だった。 ちなみに、父がユダヤ系、母がロシア系の血筋。 |
| 1940〜1943 | モスクワへ引っ越すも、翌1941年夏、戦火を避ける為に退避。 ヴォルガ河東→ウラル地方→シベリア→タシュケントと一家で流浪する。 父はその後モスクワへ。そして1943年の春、エヴストリアとヴラディーミルがモスクワへ戻る。 |
| 1943.8〜 | ヴラディーミルへの個人教授が始まる。 |
| 1945〜(8歳) | 中央学校に入学。アナイダ・スムバティアン(女性)に師事。 |
| 1955(17歳) | ワルシャワでの第五回国際ショパン・コンクールにソ連代表として初出場。二位を獲得。 実際は一位だったようだけど…。ある事情があって緊張してしまったらしい。 ちなみに、国外のピアノコンクール出場自体が初。 |
| 1955 | 音楽院に進学。ゼムリアンスキー(男性)に師事。クラスはオボーリンに属していた。 ゼムリアンスキーはオボーリン・クラスの助手。 この間、ノイハウス(スヴィアトスラフ・リヒテルやエミール・ギレリスが弟子にあたる)の前でも演奏。 |
| 1956(18歳) | ブリュッセルのクイーン・エリザベート・ピアノ・コンクールで第一位を獲得。 西側への国境越えは初。かなりの刺激を受けたようだ。 |
| 1957 | 有名興業師ソル・ヒューロックと契約、1958年10月半ば〜12月半ば、アメリカ演奏旅行をする。 とりあえずは大成功を収めたものの、これが元でソ連政府との関係に溝ができる。 結果、西側での演奏活動を制限させられる。 |
| 1958 | チャイコフスキー・コンクールにて、ドディ(トルン・ヨハンスドティール)と出会う。 この時には一・二度顔を合わせただけで、その後1960年に音楽院にて再会する。 そして、二人は交際後、結婚(1962)。 |
| 1961 | 二人の間に息子ヴォヴカ生まれる。 |
| 1962 | チャイコフスキー・コンクールで優勝(ジョン・オグドンと二人で受賞)。 このことで、西側での演奏活動制限が解除される。 |
| 1962 秋〜 | 再び興業師ソル・ヒューイとの契約。二度目のアメリカ演奏旅行へ。今回も大成功を収める。 その後、ソ連政府からの指示により、アイスランドでの演奏会も行う。 そしてドディの両親のいるロンドンで年を越す。 |
| 1963.1 | それまでの両親との同居生活から、二人と子供だけの新居生活へ。 |
| 1963.3 | ヴラディーミル一家、西側へ。イギリス内務省から居住許可を得る。 |
| 1963.5.14 | ヴラディーミル夫妻、ヴォヴカをイギリスの両親の許に残してモスクワへ。 (その後ドディはモスクワへ戻ってくる) ロンドンへ戻るまで、ソ連政府とヴラディーミルとの間で熾烈な駆け引きがあったようだ。 |
| 1963.7.2 | ロンドンへ再出発。実質、脱出。 |
| 1963 | EMIとのゴタゴタの後、デッカと専属録音契約。 |
| 1963〜1968 | 参考:アシュケナージの年間演奏回数 1963:54回 1964:約90回 1965:約90回 1966:107回 1967:114回 1968:129回 協奏曲レパートリー: ベートーベン 全曲、チャイコフスキー 1番、ブラームス 2番、ショパン 2番、 プロコフィエフ 2・3番、モーツァルト K271・K246・K466・K595・二重協奏曲、 バッハ 二短調、シューマン、ラフマニノフ 全4曲 |
| 1965 | 初来日。当然大成功。 |
| 1968 秋 | 仕事より家庭生活を重視する為、イギリスを離れて一家共々レイキャビィックに移り住む。 |
| 1969 ? | レイキャビィック音楽祭芸術顧問就任。指揮者として歩み始める。 第二子ディミトリーと第三子ディムカ誕生。 |
| 1974 | 第四子ソーニャ誕生。 |
| 1978 | アイスランドでの交通の便の問題により、不本意ながらもスイスのルツェルン州に居を移す。 |
| 1979 | 末っ子サッシャ誕生(1980現在で)。第五子。 |
| 2001 | 参考文献は1980年に執筆を開始したものなんで、1980〜2001までのことはよく存じ上げません。 機会があれば(もしくは文献があれば)追加していきたいです。 |
軽めにしたつもりだったのに…。つ…つかれた…。