サークルREC誕生から現在に至るまで
(2002.5.14改訂)




まえがき
サークルRECは1982年の設立以来来年には設立20周年を迎えます。しかし、今までのサークルの歴史というのはごく一部の古い人しか分からず、現在スタッフをしている人。既存会員のほとんどの方も年齢的に20代〜30代前半の方が多く歴史的な沿革をまとめてほしいという構想は漠然と今までありました。
今回、RECホームページ開設に伴い、現会長の中野友幸さん(1983年入会)にサークルの沿革をまとめていただくこととなりました。原稿が出来次第、アップしていきますのでどうぞ最後までお付き合いください。


目次(クリックすればその場所までジャンプします)
1.REC黎明期

2.REC発展期

3.REC全盛期

4.REC混乱期1

5.REC安定期

6.REC混乱期2

7.REC縮小期

8.REC転換期

9.REC再生期


REC黎明期


設立は1982年(昭和57年)11月。設立者は野村俊一(初代会長)。
当時、日本社会事業大学の学生であった彼は徳島県の出身で、地方から上京してきた彼にとって新しい出会いの場が職場や学校などに限られていることに疑問を持ち、上下関係やしがらみに囚われない全くフリーで対等な人間関係の交流の場を造ろうとサークル「YSC(ワイ・エス・シー)」を立ち上げました。
YSCours ervice enter の略で彼の通っていた大学の影響もあって社会福祉活動を柱としたサークルとしてスタートしました。当時は彼の大学の友人や下宿先の隣人などごく身近な5,6名のメンバーで活動開始したようです。その後徐々にメンバーを増やしていってサークルが最初の大きな転換期を迎えることになります。

きっかけは、当時発行されていた映画情報誌「Angul(アングル)」にサークルの仲間募集記事が掲載されたことでした。1983年(昭和58年)9月の出来事です。
この募集記事をきっかけに、それまで親しい友人だけの15名程度の集団から一気に80名以上のサークルへと変貌を遂げたのです。
この時期はサークルの土台が造られた時期でもありました。まず、会報誌ばいちゃんす」が創刊されました。1983年(昭和58年)10月創刊号です。実は、これ以前にも創刊準備号が何回か発行されています。
また、サークル名を現在のREC(レック)に改名しました。RECとはjoyful ecrea―tion and life long ducation through hearty ommunication.の略で、「心からの交流によって充実した余暇活動と一生涯教育を実践しよう」という意味が込められています。

これにより、社会福祉活動とは別に余暇活動が新たな活動の柱に加わり再出発することになったのです。
当時、野村会長が心の師と仰いでいたのが「若い根っこの会」加藤日出男氏(1929年生まれ、73歳)でした。この「若い根っこの会」は若者団体としてはかなり著名で、あの松下電機の創始者でありPHP友の会の会長でもあった松下幸之助氏と交流があり継続的に寄付を受けていました。翌年、彼はRECを去り加藤氏の元で活動を開始することになります。(若い根っこの会は昭和28年に秋田県出身の加藤日出男氏が地方出身の若者達の活動の中心となり設立しました。1960年代には会員数3万人を越える団体となり最盛期を迎えました。その後、財団法人根っこの家を母体に現在も活動中。2003年には50周年を迎える。)
当時の活動の主な内容は、清瀬療護園や椎名町の老人ホームに訪問して掃除、手紙の代筆、買物の手伝いなどのボランティア活動と、新宿御苑、小金井公園親睦会と称してドッチボールやレクリエーションゲームなどの活動、新宿喫茶店「カトレア」(当時RECの拠点だった)での座談会(ちなみに当時の題材として「若者の自殺について」「本物のやさしさについて」「戸塚ヨットスクールを考える」など)、ボーリング大会、森林公園サイクリング、飲み会、定例会は当時月4回実施されていました。1カ月の活動回数は12〜13回程度でした。

翌年1984年7月の西湖キャンプをもって野村会長はRECを去り「若い根っこの会」に就職しました。残された、メンバーの中で当時副会長だった金子義明氏(後の2代目会長)と一般会員だった私、中野友が中心となりREC再生に向けて動き出したのです。
傾きかけたRECの一番の問題は財政問題でした。私が金子氏から80名の会員名簿とともにRECの会計を任された時、資金は既に底をついており、4万6千円しかありませんでした。これでは会報誌2カ月分も発行できない予算であり、根本的な財政改革が急務となりました。
そして、協議の結果、3カ月で1千円であった会費を6カ月で3千円に変更し、この年の10月からスタートさせました。(当初は3ヶ月1,500円だった)しかし、会費の更新をしたのは80名のうち50名に満たない数でした。
そこで、次なる立て直しに乗り出したのが、会員募集活動です。後に、金子氏はサークルの規模について「いつかは1000人規模のサークルにしたい」と夢を語っていたことがあります。
この時期の仲間募集媒体のメインはやはり雑誌であり、その代表的なものがAngul(アングル)」でした。しかし、この雑誌も次第に発行部数が落ちていき、本屋でもあまり見かけなくなりました。
一時的にメンバー数80名規模まで回復させたものの、会員募集活動をするには厳しい時代に突入していたと思います。後にAngulは廃刊することになります。Angulに変わって会員募集の花形となったのが、当時まだ売り出し中の「ぴあ」でした。ページの欄外にYouとぴあにすとというコーナーがありそこで、それぞれのジャンルの会員募集などがその他の情報交換と一緒に掲載されました。当時まだ月刊だったので(後にすぐ月2回発行となった)、あまり世の中に認知されていませんでした。1985年から1987年頃の話です。
しかし、やはりメディアの威力はすごいもので、「ぴあ」に掲載されると応募総数が100通に達することもあり会員数は一気に増加しました。ただ、雑誌の人気が出始めて遂には週刊誌としてメジャーになると、募集コーナーは廃止され、RECはまたもや募集媒体を捜さなければなりませんでした。


REC発展期


サークルの立て直しが軌道に乗り始めた1984年(昭和59年)11月の定例会で、正式な新役員が決定しました。第2代会長に金子義明氏、副会長に中野友幸と安蒜宏美(あんびる ひろみ)の2名。そして、会計担当は中野が兼務となりました。編集長は創刊号の発行に多大な貢献をした小出泰三(芝浦工業大学の学生)。この4名体制で新生RECは再出発したのです。REC黄金期の前ぶれです。

後に、RECの活動の主体となるテニス企画がスタートしたのは1985年(昭和60年)8月のことです。当時恒例行事だった2泊3日の夏キャンプ(神奈川県藤野のキャンプ場)の中で初めて体験テニスを取り入れたのです。
背景には、活動の2本柱の1つであるレクリエーション活動が、単なる余暇活動に留まり、継続性が無いことに疑問を感じていたことがありました。RECのうちducationが社会福祉活動に限定されるわけではなく、一生涯教育とは自己啓発活動であり題材や方法に囚われないものであると僕らは考えました。
そこで、1つのことを反復継続して経験を重ねて行くことにより自己の内面を高めようという主旨で、テニス企画が2カ月に1回というペースでスタートしたのです。
ただ、現在のようにテニス経験者がいなかったので最初の1年余りはお遊びテニスの域を出なかったのは否めません。テニス企画が大きく変貌を遂げたのは、1987年(昭和62年)7月以降のことです。
当時、企画の内容の進め方に限界を感じていた中野は自らアメリカンテニスアカデミーで学びUSTA認定資格を持つ校長が開いているテニススクールに入学し、そのノウハウを吸収してRECのテニス練習に取り入れていきました。
それまで、乱打か、稚拙なゲームしか出来なかったサークルが、テニススクールと同じようにボール出しによるフォームチェックやボレーの練習、ダブルスのフォーメーションや基礎的なルールについてなどを学び始め、RECテニス企画が活動の主役へと一気に踊り出たのです。
テニスの企画回数も月2回以上に増えて安定継続した企画となりました。この体制は15年経過した現在も続けられています。


REC全盛期


REC黄金期が到来したのは1989年(平成元年)のことです。この頃はちょうどバブル景気の最盛期で、人も物も、お金も溢れていた時期です。そういった時代背景のおかげか、新規募集媒体も多岐に渡りテニス雑誌4誌、ぴあ、フロムエー、バイク雑誌、Citta、Caz、ケイコとマナブなど数多くありました。中でも大反響を呼んだのが、読売新聞です。当時の金子会長はもともとこの読売新聞の募集記事を読んでRECに入会しました。それゆえ、彼の新聞広告にかける意気込みが違っていました。編集部で取り上げてもらえなくても、諦めずに投稿し続けたのです。そして、この年の8月、遂に編集部から取材が来ることになりました。当時のRECの拠点であった新宿の喫茶カトレアに取材に来たのです。そして、テニス練習風景を撮りたいということで練習会の日にも再度取材が来ました。
RECの記事が写真入で紹介されたのは9月の中頃、当時毎週木曜日に綴じ込まれていたタウン情報のコラム欄に掲載されました。
反響は大変な騒ぎとなりました。たまたま、編集部の手違いがあり、問合せ先が住所ではなく中野の自宅の電話番号しか載っていなかったために、片面30分ある留守番電話のテープが毎日満杯となり、ひとりひとり連絡を取っている時もキャッチホンが何十本も入ってくるような日々が約1週間続きました。
問合せでとりあえず説明会に参加するところまで話しができたのが200件以上ありました。
この時期、定例会(サークル説明会)は毎週水曜日に実施されていました。
説明会を聞きに来た新規の方は毎回30名以上となりました。また、2回目、3回目の新メンバーも含めて参加人数は100名近い状況が2カ月以上続きました。その中で既存のメンバーは20名から多い時でも30名程度なので、ほとんど別のサークルといってもいいほど、毎回知らない人ばかりという状態でした。この募集によりRECの会員数は150名から最高376名(会員登録数、平成元年12月時点)まで膨らみ、会報誌「ばいちゃんす」の発行部数は毎月700部に達しました。
この時期だけでのべ800名(のべ累計1500名)以上の方がサークルRECを訪れたことになります。
ちなみに平成13年4月までののべ累計会員登録数は3000名以上になります。


REC混乱期1


会員数の急激な増加は様々な部分で問題を引き起こしました。もっとも深刻だったのが一部の心無い会員による引き抜き行為でした。最初のうちは他の新入会員と同じようにマナーを守っていましたが、2,3カ月後には巧みな話術と勧誘行為で30名程度の会員を引き抜き、自らのサークル活動メンバーに取り込みました。このような行為はその後、別の心無い会員によっても何度と無く行なわれ、その度に会員同志の交流が出来なくなったり、人間関係に亀裂が生じたりしました。また、マルチ商法による商品購買の勧誘行為新興宗教の布教活動などでトラブルとなった事例もありました。
その他、異性(特に男性から女性)へのナンパ、ストーカー行為も新規会員が増えるとその都度発生していました。


REC安定期


サークル運営サイドとしてはこれらのトラブルを特に重要な問題と捕らえ、事例毎に厳しく対処しました。
首謀者が明確になった段階で警告若しくは即時退会処分等を実施し、会員同志が安心して参加できる環境を確保するよう心掛けていました。
平成2年後半からはサークルも落ち着きを取り戻し、会員数も募集活動がコンスタントに効果を上げ150〜200名を推移していました。その後、約4年間はRECの安定期を迎えます。
余談ですが、この頃私、中野とともにサークルRECを盛り上げてくれた親友達が良きパートナーにめぐり逢い次々と結婚した時期でもありました。程なく2世も誕生しサークルの存在意義と時の流れを実感しました。公私ともに充実感に満ちていた時代でした。


REC混乱期2


平成7年4月から2代目会長である金子義明氏に代わって私、中野3代目会長に就任しました。この時RECの新しい世代を担う者として中野以外に新たに3名の新スタッフを選出しました。
副会長水村君編集長川原君、同じく編集スタッフ坂本君で23〜26歳のいずれも若い世代であり、新体制のもとRECは良い意味で大きく変わるはずでした。
ところが、この体制は6ヶ月も経たないうちに足並みが揃わなくなり問題を抱えたまま継続しなければなりませんでした。理由の一つには編集担当の2名が比較的遠方に住んでおり、当時の拠点である新宿には頻繁に足を運べなかったということがあります。また、2名とも仕事が忙しい職種だったので、次第に連絡も途絶えがちとなりました。サークルの運営は事実上、水村君と2人で進めることになります。
当時の会員数は120〜150名程度在籍していましたが、サークルスタッフ側の不安定な状況がそのままメンバーの雰囲気にも大きく影響を与えていました。


●REC縮小期


入会間もないメンバーがサークルの企画(例えばバーベキュー企画や日帰り箱根旅行、温泉めぐりなど)を実施した際に参加者の連絡先を聞き出し、公然とナンパ等の行為をする者、企画等で聞き出した会員情報をもとに(名簿まで作成している者もいた)いかにもREC主催行事のように見せかけてクリスマスパーティーなどの行事を全く別のグループで実施するなど、ひどいものでした。このような会員は全て厳しく対応しサークルを退会してもらいました。RECも少なからず打撃を受けメンバー数も減少しました。
ちょうどこの頃、RECが拠点としていた新宿の喫茶店「じゅらく」が経営不振により閉店することにな(以前拠点としていた喫茶カトレアも経営不振で閉店している。RECが拠点とする喫茶店がいつも潰れてしまうのは偶然だろうか?)、ミーティングの場所を池袋の「サルビア」に移すことになります。時代の流れが急速にRECを押し流して行く時期でした。
平成8年度から平成9年度はサークルの内部崩壊が進んでいる時期でした。スタッフの最後の要であった副会長の水村君も病気や精神的ストレスから離脱することになり、RECスタッフは完全崩壊しました。
ただ、川原君の後を受けて、女性の小島さんが編集を担当してくれることになり会報誌の継続は確保されました。


REC転換期


運営上でのスタッフがいなくなった中野はサークル再編に向けて新たな方針を検討しました。
それまでの、テニスとレクリエーション活動の2本柱から継続的なレクリエーション活動を事実上廃止し、テニスを主体とするスポーツ・アウトドアサークルへと方針転換することにしました。
理由はいろいろありました。
社会的背景が長期的経済不況により余暇的活動や無駄な部分がどんどん排除される傾向にあったこと。
当然、募集雑誌の廃刊やコーナーの廃止などで会員募集も難航を極めました。
また、若者の活動母体が大規模集団活動から小人数の集まりに変化してきたことなどを受け、RECでも今までのような大人数を集めてその場限りの遊びを演出するのではなく、もっと目的を絞り込んで、それに見合ったメンバーの募集と活動を継続する方向性を模索することにしたのです。
もちろん、人材不足という内部事情があったことは言うまでも有りません。

平成9年春からテニス活動中心に切り替えたことにより会員数は70名前後にまで減少していきました。テニス開催地も模索していました。それまでの所沢・調布・国立・芦花公園などに加え板橋区営コートを利用するなど継続的に低価格で企画できる可能性を探りました。
テニスを目的としたメンバー構成に変わる事により会員数は減少し平成10年春には遂に50名を割り込むことになります。ただ、メンバーの参加率は改善し、いわゆる幽霊会員は少なくなりました。
そういった意味でサークル本来の姿に立ち戻ったと言えるかもしれません。
この時期の新規募集媒体としては情報交換を目的とした雑誌「じゃマール」が中心でした。じゃマール登場により募集広告には掲載料を支払うというのが一般的になっていきました。これによりますます会員募集の難しい時代に突入していきます。
平成10年秋に編集スタッフの小島さんが寿退任することになり、変わって木村君が編集担当スタッフとて引き継ぐことになりました。
それと同時にRECテニス活動の中心を現在の大宮健保組合運動場に移しました。
それとともに、メンバー構成も埼玉県在住者が増加する傾向が強まりました。テニスコートの立地上から車での移動が一般的となり、長年電車などを主な交通手段としていた時代から車保有率の高いサークルへと変わっていきました。
大宮健保組合運動場(正式には東京健康保険組合大宮運動場)にテニス企画の中心を移したのは、安定的にコートが確保出来ること(107面ある)費用が安く参加者の負担が少ないこと等が理由でした。
もちろん、きっかけは交通手段としてしての車を確保できたことが大きいと思います。



REC再生期


平成11年になって「じゃマール」とテニス雑誌を中心に募集活動を展開したところ、秋頃より効果が現れ始めました。一定の広告予算を割いて募集活動をした初めての年でした。
特に11月下旬から新規メンバーが増え始め、当時30名程度の会員数だったものが、45名を数えるに至りました。これは主にスキー・スノーボードを目的としたメンバーでした。もちろんテニスも参加するのが原則なので、両方に興味のあるメンバーだったと言えます。
また、編集の木村君との二人三脚でサークルを盛り立てながら、会報誌「ばいちゃんす」にも手を加え始めました。当時まだ、B4サイズの両面コピーで3枚程度(12ページ)のボリュームが主流でしたが思いきって無駄な記事等を整理し、基本的には毎月の予定とサークルのマナーなど必要最低限にスリム化し枚数もB4サイズ1〜2枚程度に減少させました。(後にA3サイズに変更となる)当時はまだワープロ機をサークルで買って使っていましたが、当然編集には自ずから限界がありました。
この頃、世間ではIT革命と騒がれ情報化時代の大きな転換期を迎えていました。
会社や個人でもパソコンを1人1台持つ時代となり生活環境が一変しました。RECでも平成12年に木村君が私財を投げ打ってパソコンを購入したのをきっかけに情報化時代の幕開けを迎えることになります。
まず、会報誌ばいちゃんすがパソコンにより編集されるようになりました。
また、原稿のやり取りとは別に会員名簿などの保存や改訂なども全てパソコンを利用するようになりました。写真の取り込み編集なども自由に出来るため会報誌ばいちゃんすの紙面も見やすく、キレイになりました。
そして、平成13年5月にはついに「RECホームページ」開設のはこびとなりREC史上でも記念すべき大きな1歩を踏み出しました。
これにより、会報誌を郵送しなくても世間一般の人が誰でも簡単にサークルRECを知る事ができ、毎月の行事もわかるように公開されました。
このことは、REC運営の課題であった会員募集活動にも新たな可能性を見出しました。ネット上で募集展開をすることにより今までとは異なった媒体からあらたなメンバーが集まるようになったのです。
これは、REC誕生から16年間雑誌という募集媒体をメインにしてきた歴史が大きく変わり、新しい時代に突入したことを意味します。
もちろん、当初はネット募集では応募数的にまだ少なく、雑誌等との並行募集が必要でした。

(つづく)

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