イラン周遊
イランで出会った人たちと印象
| イランは4千年にわたる歴史、変化に富んだ広大な国土と豊かな自然、、他民族・多言語の多彩な風俗文化を擁す魅力ある国だ。荒涼たる砂漠やオアシス以外に、手軽にスキーの出来る高原がテヘラン近郊にもある。また雨多く緑濃いカスピ海沿岸の風景は、私たちには予想外だった。 けれども、私たちが何よりも感動したのは、この国の人々の優しさだった。 各地で出会った人々は皆印象的で、とうてい書き尽くすことが出来ないが、例えばヤズドで、暑い中15分歩いて道案内をしてくださった貧しげな身なりの老婦人は、失礼かとは思ったが小額のお礼を差し上げようとしたらとんでもない、お金なら私持っていると日本円にしたら30円位であろう紙幣を2枚取り出して見せてくれて、ニコニコしながら去っていった。道案内といえばマシャドでも国際電話の出来る私設話局まで、1キロメーとる約10分の道のりを、自分の携帯電話であちこち電話して聞きながら一緒に探して連れて行ってくれたこちらはバリバリのビジネスマンもいた。彼からは、マシャドやホラサン州について教えてもらった。長距離バスで乗り合わせ、イラン語で詩や手紙を書いてくれた人もいた。 日本で働いた経験のある人にも何人も出会った。旅の最初の日にテヘランで両替できる銀行を探している時に声を掛けてくれたアリさんは、旅に必要なイラン情報や通貨について教えてくださり、近くの旧王宮や考古学博物館を案内してくださった。シラーズで出合ったトニーさんと高小ぴん夫妻は、日本で働いているときに知り合ったそうで、二人とも日本語が上手。特にトニーさんは知識が深く、日本文化をよく知っていた。自身日本在住時は、4年半剣道を習ったそうである。中国人の奥さんは明るく率直で、気持ちのよい人だった。カスピ海沿岸の港町バンダレ・アンザリーの魚河岸で会ったゴム長靴の魚仲買人(?)のオジサンは、腹にずしんと響く低音の美声で、34年前にマルハ漁業で働いていたと言った。すっかり言葉を忘れたというが、どうしてどうして文法も正しく、一つ一つ言葉を思い出しながら話してくれた。潮焼けした顔がジャン・ギャバンに似て、渋い味のある良い顔だった。 イランでは、女子は教育も受けられず、家に閉じこもり、黒い2006年6月3日更新チャードルをすっぽり被って目だけ出しているのかと思っていたが、それぞれの経済力に応じてお洒落している。若い女性は、ジーンズにハーフコートで、スカーフ以外は世界共通のスタイルだ。 観光地では好奇心からか、女子大生に声を掛けられ、なかなかに活発で、積極的だと思った。マシャドのハラム(聖廟)では、英文学科シェクスピア専攻!!の女子大生が、ボランティアの英語ガイドとして付いた。また家族連れが多く家庭内での女性の地位は低くないという印象がある。年齢にかかわらずカップルで街中を歩き、手をつないでいる人たちも、珍しくない。ホテル、旅行社、航空会社などで働く女性は多く、責任者の地位にいる人もいる。 これまで旅した国の中には、貧富の格差が人心を荒れさせている印象を与えている国も少なからずあったが、イランにはそれを感じなかった。 もちろん情報を得にバックパッカーが必ず立ち寄るので知られている、エスファファーンの絨毯屋「アラジン」の主人が言うように「イランにも良い人も悪い人もいる。それはどの国でも同じ」という言葉通り、個人的にはぼられたこともあり、不愉快な人もいる。車の運転は非常に怖い。けれど、人の心はまだ、そんなに金・金という感じではなく、穏やかだった。もちろん砂漠の産油国のような人口希薄な土地で、途方もない金持ちの国とは比べられないが、6500万人の人口を擁し、国民総生産は中東一だし、生活水準は世界の平均より高い。がちがちの原理主義の恐怖政治国家というイメージを捨て、一度旅してみたらイランの姿が随分変わって見えて来る。 懐かしい国である。イランの旅は毎日が出会いの連続だった。普通の観光や移動だけで終わった日は、「珍しく今日1日何もなかった」と旅日記に書いた。 今も、思い出すたびに何とはなく懐かしさで一杯になる。 |
1 エスファファーン
| 「世界の半分」と謳われたエスファファーンは、エマーム広場、スィー・オ・セ橋、街路樹を植え込んだ市街を縦横に走る水路など、都市計画の見本のような美しい都市で、サハヴィー朝5代アッバース大帝によって、計画建造された。大帝は、15世紀初頭のイランで異民族侵略の絶えぬ困難な時代を東奔西走して撃退し、久々のペルシア人による大帝国の最盛期を作った。 この英雄は、建築・美術に造詣深く、またペルシア絨毯などの地場産業の育成に励み、経済振興に勤めた。また国内に聖地聖廟を整備し、自ら1300キロメートルを徒歩で巡礼して手本を示し、国内の巡礼を国民に奨励して国富の海外流出を留めた。しかし彼はエスファファーンの完成を見ることなく、亡くなった。 この町は歩いていると、実に楽しい。何日も過ごしたくなる所だ。 |
| 世界遺産「エマーム広場」世界第2の広さ(第一は天安門、第3は赤の広場)。 2つのモスク、宮殿、大バザールを含む広場全体が美術館といわれるほど美しく、 この広場には全てがあると謳われ、世界遺産に登録されている。 |
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| @広場の東正面。中央のモスクは、王家専用の「マスジェデ・シェイフ・ ロトフォッラー」王族の女性は対面の西側王宮から地下道を通り、 姿を見られることなく礼拝に通った。 1月の噴水池には薄く氷が張っていた。 |
A南側の「マスジェデ・エマーム」イランイスラム建築の代表傑作。 巨大すぎる上、金曜日で、非公開、修復中。 繊細精緻を極め、まるで宝石のような美しさでで有名な エイヴァーンの鍾乳石飾りを写せなかったことが残念。、。 |
![]() B広場北側。2階建てテラス形式の大バザールがぐるりと広場を囲み 北側になんと1キロメートル以上続いている。 古の時代には、ポロ競技が催された。 |
![]() C広場の東に位置するアーリー・ガープ宮殿から、南西方面を望む。 大駐車場になっていて、さまざまなイベントも行われる。 |
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| D広場西側アーリーガープ宮殿2階バルコニーのペルシャ美人の壁画。 Cの写真は、このバルコニーから撮った。木造が珍しい。 |
Dのバルコニーの奥の部屋の壁画。アッバース大帝の戦闘の場面(?) 金曜日とて見学できたのは2階だけ。最上階(7回)の音楽室は次回に。 |
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| バルコニーから遥か遠く雪山を望む。雪解け水がこの地に豊かな水を恵む。 | 広場北側の大バザールの一角。 | ||
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| スィー・オ・セ橋ザーヤンデ川にかかる10本の橋の一つで町の中心と結ぶ。33のアーチが美しく、両岸にはチャイハネ(茶店)が立ち並ぶ。 | |||
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エマーム広場からバザールの中を1キロメートルほど歩いた 処にあるマスジェデ・ジャーメ(金曜礼拝モスク)。創建は紀元 8世紀。焼失再建された12〜14世紀以後のさまざまな建築 様式が残っている。スペインのコルドバのメスキータに似た 列柱の続く回廊や、浮き彫りが見事な説教壇、スタイルの異 なるメナーレにそれぞれに趣向を凝らしたエイヴァーンなど 見るものが多い。敷地内は瞑想にふけったり、休息する信者 達の姿が見られ、家族の憩いの場にもなっている。 |
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| 水路に植え込まれた街路樹。ちょろちょろ流れる水の中から、木が生えている。 | チェヘル・ソトーン宮殿迎賓館としてつかわれた。暇そうなチャイハネあり。 | ||
2ヤズド(Yazd)
地図で見るとイランのど真ん中にあるヤズド。イランは半分が砂漠、後の半分が山と高原だが、ヤズドは山が尽き砂漠に入り込んだ辺りにある。
エスファファーンから沢山あるバス会社の一つの乗り合いバスに乗っていったが、途中の風景の移り変わりが楽しかった。出発直後は緑の田園
だが、やがて荒涼とした土漠が続くようになり、1時間後には遠くに見えていたイランではお馴染みの雪山が間近に迫ってきた。峠越えのあたり
では粉雪が舞いだし冷え込む。やがて再び土漠地帯へ。水の豊かな土地に慣れた日本人には住みにくそうな土地だが、結構集落が多く、乗客の乗り降りがある。4時間半で砂漠の中のオアシス都市ヤズドへ。イスラム以前のペルシャの国教ゾロアスター教徒が今も少数ながら住んでいて、神殿や鳥葬などの関連施設が残っている。
私達が泊まったホテルは、旧市街の中心マスジャデ・ジャメ(金曜礼拝モスク)から徒歩1分の「シルクロード・ホテル」。ここは各方面から集まるバックパッカーに大人気の宿で、毎日入れ替わり立ち代りで若者達がやってきた。日干し煉瓦を土で塗り固め、広々とした中庭を持つイスラム建築様式。安宿だが、地元の住宅と同じ造りで、異国情緒満点。中には縁台があり横になって休むこともできる。宿泊費が1番安く、思い出に残る宿だ。またここでは、エスファファーンでであった、朝日サンツァーズのメンバーに旧市街を散策中に再会。一瞬の偶然に再会できたことを喜んだのだった。
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| 「シルクロード・ホテル」の中庭。たくさん並んでいる木の縁台に足を出して座ったり、胡坐をかいたりして、夜更けまで同宿者たちが話し込む姿が見られた。 | |||
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アーテシューキャデ(ゾロアスター教神殿) ガラス越しに赤く光っているのが1500年間絶えることなく 燃やされ続けた聖火。堂守のおじさん(神官?)が見回りを 兼ねてか裏の小部屋から始終焚付けを追加している。 〜隣の青年はシルクロード・ホテルで同宿した福岡出身の バックパッカーのお兄さん。 ヤズド〜 沈黙の塔〜聖地チャクチャクまでの1日ツアーを ご一緒した。上の写真の中庭で、チャイを飲みながら楽しく おしゃべりしました。天津まで船で行き、中国を縦断、ゴビ砂漠 〜チベット〜ネパール〜インド〜パキスタンを通過し、最近大地震 があったバムを通過してきたそうだ。これまで旅してきた国から イランに入ると近代的でほっとする、貧富の格差が少なく、子供の 物乞いがいない。今日1日の食べ物に困るほど飢えている人が いないイランは、皆が中流という印象だそうだ。 |
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| 「沈黙の塔」円筒形の中が鳥葬の場所。大が男性、小は女性とか。円筒の中に入り、周囲を見渡した写真が下の2枚。50年前まで現役だったが、法律で 禁止され、今はゾロアスター教徒も土葬になっている。右下は通夜に使われた施設と、墓地。 |
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| ナリン・カスル(Narin Castle)6千年前!から、ササン朝(前3世紀) まで、積み重ねられて、使われた。レンガに藁くずを混ぜた土を塗り固めて 作られた城砦。 |
砂漠の遊牧民(イランの人口の約1割)の機織機。 | ||
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| ゾロアスター教の聖地「チャク・チャク」インド・パキスタンなどの国外からも巡礼が訪れるという。砂漠の岩山にコンクリートの建物が建っていて、中には黒い石が鎮座ましまし、岩壁から滴り落ちる水で濡れている(だけ)。岩山だけにどこから水が湧き出るのか、不思議といえば不思議。堂守のおじさんが、聖なる水を引いた水道で食器を洗っていたので、頼んで飲ませてもらった。のどが渇いていたからおいしかった。下の2枚もチャクチャクと周囲の岩山。 | |||
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| バードギール砂漠の耐え難い暑さをしのぐために考案された設備で、風を取り込むためのもの。細い連子状に沢山の風取り窓が空いている。右側は33メートルもあるドラウト・アーバート公園内のもの。 | ヤズドのマスジェド・ジャーメ。宿泊した「シルクロード・ホテル」から徒歩数分。外出のたびに目にした。旧市街の中心にある。14〜15世紀に建造され、イランで最も高いメナーレ(尖塔)や、美しいタイルワークで有名。 | ||
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| 広場にに置かれた高さが8.5メートルもある「ナフル」(木製の山車で、シーア派の信仰の対象である、ホセインのシンボル)で、ヤズドのナフルは巨大であり、有名。 このころ、各地で大小様々なナフルを見かけ、何だろうかと不思議に思ったものだった。シーア派最大の祭りアーシュラが近づいていた。 |
アミール・チャグマーグのタキイェ(15世紀に建てられた寺院、バザールなどの複合施設。興味があって覗いたが、エスファファーンの隆盛からは遠く、寂びれた感じがする。 |
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| ドラウト・アーバート庭園。観光客が少なかったが、園内のチャイハネは雰囲気が良く、屋内に水路が引かれ、囲むように縁台の客席がしつらえてあり、くつろげる。 | |||
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| ヤズド旧市街。日干し煉瓦に泥を塗っただけの土壁が続き、迷路状態だが、家々の内側は、中庭を囲み、華やかに飾られまったく印象が違う。 イスラムは外側を飾らぬ主義のようだ。 |
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3ペルセポリス・シラーズ
古都シラーズはペルセポリス観光の基地であり、周辺にはアケメネス朝、ササン朝、サハビィー朝各時代の遺跡も多い。私たちはヤズドから約8時間バスに揺られて行ったが、世界的大観光地だけに、飛行機の便数も多いから、時間がなければ、飛行機は利用価値がある。(産油国だけにガソリンが安く、飛行機も国内線はとにかく安い、3000円から5000円くらい)またこれらの観光にはシラーズからタクシーをを1台1日チャーター(3900円)して回ったが、遠方から先に観光したのでペルセポリスの見学が駆け足になってしまった。ペルセポリスは、意外に時間がかかるので、計画時に予め充分時間を見ておくとよかったと思う。
シラーズ市内も1日〜2日ゆっくり時間をとって、見学してよかった。日本の京都・奈良にあたる古都なので観光客が全国から集まる土地柄ではあるが、ゆったりとした時間が流れている。空港であった石油関連の会社員氏は、20日働き10日時間がなければ、飛行機は利用価値がある。帰宅する単身赴任を選んでいる由。大変じゃないですかと聞いたら、日本のように子供の学校とかの理由で単身赴任を余儀なくされているわけではなく、自身で選んだ事だという。女房はテヘランやアファーズなどの都会に住みたがるが、都会は騒々しく、忙しく、汚い。生まれ育ったシラーズが一番だそうだ。気候は暑いが確かに緑も多く、住みよさそうな気がする。
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| @パサルガダエ遺跡 (紀元前6世紀アケメネス朝最初の首都)のキュロス大王の墓。キュロス大王は事実上の開祖で、南部ファルース(ペルシャ)地方の王家からたち、メディア王国から独立。小アジアからバクトリアに至る大帝国を築いた。 |
パサルガダエ遺跡は、シラーズから130キロメートル離れている。かってのペルシャ初の統一大帝国の最初の首都。今は何もない田舎の村。 | ||
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| ゾロアスター教神殿跡と言われている。 | |||
| Aナグシェ・ロスタム遺跡 岩山の上にアケメネス朝ペルシャの4つの王墓がならんでいる。ダレイオス1世(大王)の墓もここにある。彼は、キュロス王の死後起こった内乱を鎮圧し、北はスキタイ、西はエジプト・小アジア、東はインダスに版図を拡大した。 ![]() |
ゾロアスター教神殿跡。聖火を奉っていたと言われる。![]() |
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| 「騎馬戦勝図」紀元前4世紀にアレクサンダー大王に滅ぼされた、アケメネス朝の王墓の下に、紀元3世紀に起こったサーサーン朝のレリーフが数多く残っているのが面白い。捕虜となったローマ帝国皇帝ヴァレリアヌスが騎馬上のペルシャ王シャプール1世の足下にひざまずく姿勢で描かれている。宿敵には違いないが、ローマとペルシャは国境争いなどで始終戦争してはいたが、互いに深追いは避けて共存していたとも見える。 | |||
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Bナグシェ・ラジャブ遺跡 サーサーン長時代のレリーフ。 左上の写真はゾロアスター教(サーサーン朝の国教)の神アフラ・マズラー が描かれている。多分、王権を神授しているところではないかと思う。 右上は騎馬の王と従者か兵士。 左も戴冠の様子を現したもの? |
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| ペルセポリス シラーズから57キロ離れた砂漠の中の遺跡ペルセポリス。世界遺産に指定され、今回の旅で最もロマンを掻き立てられ、憬れていた見所。 アケメネス朝時代の祭儀用の都。アケメネス(アケメネスは学校の授業で習った言葉だが、これは英語だそうで、イラン人はハー何とかと耳慣れぬ発音なので、通じない。私の老化した頭では覚えられなかった。)。シューシュが行政上の首都であったが、ペルセポリスでは、即位式・ノウルゥーズ(春の到来とともに行われる新年の儀式。日本の正月)ペルセポリスの祭儀・外交使節団や朝貢の迎賓・謁見など重要な行事が行われた。紀元前512年ダレイオス大帝により着工し、息子の時代に完成。そして、紀元前331年にアレクサンダー大王によって破壊され炎上した。ペルシャ戦争など長年の宿敵ギリシャだったが、ギリシャ系マケドニア人のアレクサンダー大王によって、ともに幕引きがされたわけである。アレクサンダーの死後ヘレニズム世界が出現、やがて歴史は、ローマ=パルティア時代へと大きく転換していった。 ペルシャとはギリシャ語で、この地方一体をペルシャ語でファルースと呼び、おなじ言葉だそうだ。ファルース地方に住むイラン人の 一派をギリシャ人がペルシャ人と呼び今にいたるまで、世界共通語になっている。イラン人自身は今も昔も自分たちを「イラン=アーリアン」と呼んでいるそうだ。(私は知らなかった)このような歴史からファルース地方はイラン人の故地として大切に思われている。 2時間ぐらいで十分見学できると見て、のんびり他の観光や昼食に時間をとってしまい、時間がなくなった。最低でも半日は必要だった。私たちは夕方になってになったから慌て回る羽目になったが、レリーフだけでももう一度じっくり見たいものだと思う。このため、写真が薄暗い中でとったためか、ぼやけてしまい、よく取れていないのが残念。 |
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| 見事なレリーフ | 触られて黒光りしている |
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| 東側の岩山にあるアルタクセルクセス大王の墓のレリーフ | |
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| 謁見の様子 | クセルクセス門の人面有翼獣身像。 |
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| クセルクセス門の人面有翼獣身像A | アバターナ(謁見の間)の階段レリーフ。 |
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| 朝貢国の使者が特産品を献上している。各地の特徴が分かる。 | 階段は5段ごとに切り出してある。 |
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| 牡牛に襲い掛かるライオン | |
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| 双頭の鷲像 | 遺跡@(裏側)からみた |
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| 遺跡A南側から見渡す正面の光景 | 遺跡B西側 |
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前日シラーズ市内観光、中に出会った大学生グループ。彼らも、観光で 来て、ナグシャ・ロシュタムでも会い3回目。みんなで笑ってしまった。 とてもフレンドリーで、顔を合わせると「ハロー」と呼びかけてくる。ちょっと 挨拶し、話したりもするが、見知らぬもの同士の壁を感じさせない親しみ やすさがある。 そういえば、エスファファーンもそうだが、イラン人の観光客は一人旅を あまり見かけない。ほとんどが家族と一緒か友人同士、カップルだった。 |
シラーズ
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ハーフェズ廟 シラーズ出身で、イランで最高の詩人とされているハーフェズの廟。 詩人は、日本とは大違いで、民衆に広く知られているばかりか、大変尊敬されている。 ほとんどの人は有名な詩の幾つかを暗誦し、何かと口ずさむ。 詩集の1ページを無作為に選び、そのページの詩をみて占う「占い」まであるそうだ。 私たちが訪ねたときも、石棺や詩碑に口づけしたり、祈ったり、詩を口ずさむ人々であふれていた。 |
、キャリムハーン城砦 市内中心最も交通量の多いところにある。ザンド朝(17世紀)時代の建築で、素朴で頑丈、レンガ模様と四隅の丸いカーブに特徴がある。中は現在女子校となっている。 |
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| シャー・チェラーグ廟聖人の聖廟でであったアフメドさん。もの静かで落ち着いた紳士だった。テヘランからお参りにやってきたそうである。聖廟内を案内してくださり、付属の博物館(中はイラン・イラク戦争で殉死した若者たちの写真や遺品が祭られている)の入場料を払ってくれ、帰りのタクシーを捜し、行き先を告げ、乗り込ませてくださった。見ず知らずだが、日本で働いたことがあるそうで、日本人はみな優しいと言っていたが、アフメドさんこそ優しいと思った。 | マスジャデ・ヴァキール 背の低いミナーレと花瓶にバラや花束などの明るく淡い色調の モザイクタイルが特徴。アラベスクなどの息が詰まるほど精緻な 模様が多いなかで、珍しく、明るくどこかほっとする。 |
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| おもしろい聖廟体験 各地にゆかりの聖人廟があり、敬虔なイスラム教徒参拝客で賑わっている。私たちは、シラーズのチェラーグ廟と、イラン最大の聖地マシャッドのハラムを見学した。 廟内部は男女別に別れていて、女性はチャドルを身に着けなければならないが、無料で貸してくれる。原則はイスラム教徒のみなので、写真はだめ、速やかに退出するように入り口の下足番に言い渡される。中に入るとアララどこもかしこも鏡のモザイクが張り巡らされ、不思議なきらめく空間。大勢の人々の動きにあわせて中の像がゆらゆら揺れ動き、ラスベガスや、ミラーボールはここが発祥かと思われるほど。聖人の棺は男女の間仕切りの真ん中に置かれていて、どちらからも参拝でき銀の柵に囲われている。参拝者が口付けしたりさわるので、ピカピカである。ひつぎの柵に触りながら回遊したり、グループで輪になって座りお喋りしたり、果てはお弁当を広げて食べたりしている。日本の寺やお宮参りは、人が多くても原則、静寂、清潔、祈るだけのイメージがあるが、ここでは息抜きもかねてレクリエーションに来ているのでは、と見うけられる家族連れや友人グループがある一方では、ひとり部屋の片隅で瞑想にふける人、泣きながら熱心に棺の周りを巡る人など、聖俗種々雑多に、鏡できんきらきらの一堂に会している。 |
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4チョガー・ザンビール、シューシュ |
| 世界遺産「チョガー・ザンビール」は、イランで最も古い遺跡の一つで、紀元前13世紀中頃エラム王国建国時に宗教センターとして建設された。シューシュは政治の中心、チョガーザンビールは宗教の中心だったが、紀元前640年シューシュがアッシリアに滅ぼされた時に破壊されたという。シューシュは、紀元前550年にアケメネス朝ペルシャが建国した時に、再び行政の中心になったが、王朝はゾロアスター教を奨励し、宗教中心としてペルセポリスが建設されたのである。 ハフトタッペは4000年前の遺跡で、これらの古さに驚くが、地図で見るとイラクの国境に近く、メソポタミア地帯といってよい距離だ。古くても、不思議ではないのである。イラク内のメソポタミア時代の遺跡をこの目で見ることは当分不可能である以上、古代メソポタミアのジッグラトはイランで見物するしかないかも。遺跡所属のガイドは古代の「オリジナル」レンガをよく知っていて、その他重要なところは逃さず説明してくれるので、英語がよく理解できないけれど、ガイドに案内してもらって良かった。 |
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| 初めて目にしたジッグラト。105mの正方形階段ピラミッド。当時は高さ 50mあったが、現在は3段目まで残っている。 |
これには本当に驚いた。古代のダム。45km先の山から、ガナートを掘ってこのダムの9つの水門から水を引き込み、水圧で上に上げて配水する仕組みになっている。 |
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古代の人の時間を計るために日時計として彫像を立てたり、足跡 |
| アラブ人のガイドさん。ここは門にあたり、指し示しているのはオリジナルの金を施した楔形文字。他にも、青や白の色タイルの破片、昔の水止めとして使われたアスファルを塗った配水管。インカによく似た形のレンガ製日時計兼用の犠牲の円形祭壇。城門は狭く2箇所でかんぬきがかかる様に、工夫されていた。 | |
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← ハフト・タッペ遺跡 紀元前2000年、つまり今から4000年前の都市遺跡。 昔も今も変わらぬ日干しレンガを積み上げて、分厚い壁で四方を囲み、都市を守っている 入り口に小さな博物館があり、出土した棺や土器、豊穣・多産のシンボルの女神像が展示されている。写真で発掘の様子や復元した遺跡をみることができる。 この遺跡はまだ発掘中で作業員があちこちで仕事中だった。 この地帯ではまだまだ小さな都市遺跡が埋もれているかも知れない。 2時間ぐらいで十分と思っていた |
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シューシュ遺跡(スサ) 馬の彫像。胴体部分しか残っていない。 日本では、スサとして知られている。古代3500年以上前から、 アレクサンダー大王に滅ぼされるまで、古代ペルシャの行政の 中心だったが、アラブ時代に普通の田舎町になってしまった。 遺跡は度重なる破壊を受け、ほとんど何も残っていない。 けれど、世界史の舞台だっただけに遺跡に立つとロマンを感じる。 |
4 カスピ海沿岸
| ラシュド | |
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| ラシュドの魚屋さん。地中海の沿岸の漁港と似た雰囲気 | |
| バンダレ・アンザーリ ホテルの部屋から、朝夕の出船入船を見るのが楽しみだった。 | |
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| ゴルガーン トルクメニスタンとの国境近くの町。 | ||
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| カスピ海沿岸地方独特の木造建築の民家。 | 屋根の勾配の曲線がおもしろい。 | |
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| エマームザーデイェ・ヌール(聖廟)14〜15世紀建築。レンガの組み方で模様を浮き出させている。 | ||
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| 同じく14〜15世紀建築のマスジェデ・ジャーメ。レンガの模様が美しい。メナーレも昔のまま。 | ||
| バンダレ・トルキャーマン カスピ海沿岸の港町。住民のほとんどがトルクメン。 | |
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| 町を行くトルクメンの娘さん。無断で写真を撮ると悪いかなと思いながら、後ろから失礼して写させてもらった。民族衣装の鮮やかなビロードの濃い赤の ロングワンピースの上に、ロシアのお土産品のような腰まで覆う大判花柄スカーフの姿が華やかで目立つ。 |
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| カスピ海。雨で、天気が悪く写真はどれも映りが悪い。昔はカスピ海をこの目で見ることが出来るとは思わなかった。次はカスピ海の北側を見てみたい。 沿岸は海の家やみやげ物の露店ががずらりと並び、雨で客もいなくて、暇そうだった。(カスピ海は雨が多く、空気も湿っている)日本人には、慣れた気候だ。 |
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