死な(ね)ない理由 (5)


 ここまでなら別にこのHPを立ち上げませんでした。人間必ず最後は死ぬし、死ぬ程苦しい思いをしてまで生きて苦しみを延ばすだけなら、早く死んだ方がマシだからです。
 では、なぜそんな私が1人でも自殺するのをやめてほしいとこのHPで訴えるか理由を書きます。自殺者のうち、誰1人死にたいから自殺するわけではなく、生きるのが辛すぎて、苦しすぎて、疲れすぎて、とにかく今の状態から脱却したいと、死を選ぶのだと思います。私はそうでした。だから、ニュース等で自殺した人の報道を見ても、何かやるせないけれど、自殺を止める理由が自分にはありませんでした。私が自殺しなかった(出来なかった)のは、ただ心から恐怖したからです。今からの死が怖かったからです。
 雨がパラつく静かな夜、遠くには大きな木の影がかすかに揺れている。そして、俺は今、この世界から消える。俺が地上に落ちてこの世から消えた後も、遠くにみえる大きな木は静かに揺れ続け、向かいの団地の集会も終わったとみえて、電気はもう消えている。淋しい・・・。もうこれ以上生きられないから、もうつくづく疲れた、生きるのが嫌になったから死んでしまおうと決心したのに。いざ死ぬとなると、「怖い、死にたくない」「これから死んで、その後どうなるか分からない」「死んで無になったり、楽になれるならいいけど、もし、もっと苦しい世界になってしまったらどうしよう」という怖さでした。
 それともう1つ、死へと踏み出せなかった理由に、私が仏教(浄土真宗)の話を聞いていた事が挙げられるかも知れません。次のような説話があります。
 {ある日、釈尊(釈迦)が托鉢の道中、大きな橋の上で、あたりをはばかりながら1人の娘が袂へ石を入れている。自殺の準備である、近寄られた釈尊は、優しくその事情を尋ねられた。娘は外ならぬ釈尊なので一部始終を告白した。「実は、お恥ずかしいことでございますが、ある男と親しくなり妊娠しましたが、その後、見捨てられました。世間の眼は冷たく、おなかの子供の将来なども考えますと死んだ方がどんなによかろうと思います。どうかこのまま見逃して下さいませ」と泣き崩れた。釈尊は哀れに思われながらも、厳しく仰せられた。「お前は何という馬鹿者なのか。お前には例えをもって教えよう。或る処に、毎日荷物を満載した車を引かねばならぬ牛がいた。牛はなぜ自分はこんなに苦しまねばならぬのか、自分を苦しめるものは一体何なのかと考えた。その時、牛はこの車さえなければ苦しまなくてもよいのだと思い当たった。或る日、猛然と走って、大きな石に車を打ち当て、壊してしまったのだ。ところが牛の使用人はやがて、鋼鉄製の車を造ってきたのだ。今までの車の何百倍、何千倍の重さであった。今となっては、どうすることも出来ない牛は、軽い車を壊したことを深く後悔したが、後のまつりであった。お前は、その肉体さえ壊せば後は楽になると思っているが、死ねば地獄へ飛び込むだけだ。お前には判らないだろうが、地獄の苦しみは、この世の苦しみ位ではないのだ」釈尊は、それから地獄の苦しみを諄々と教えられた。娘は、始めて知る後生の一大事に驚き、仏門に入って救われた}
 仏教では、この世、暗闇の世界なら、死んだ後も、暗闇であり、この世も苦しみなら、死んだ後も苦しみだ、と説いています。仏教は、この後生の一大事のある事と、その解決を説いたものです。浄土真宗の開祖、親鸞聖人は、この後生の一大事は、現在生きている時に、一念という何億分の1秒よりも速い時間で解決できると断言されています。その時、この世も未来も、決して崩れない幸福になれる、これが人生の目的であり、この身になるまでは決して自殺してはならない、と説かれています。

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