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「なぜ、人間の命は地球より重いのか」
「なぜ、人間に生まれてきたことを喜ばねばならぬのか」
「なぜ、親孝行しなければならぬのか」
ハッキリ答えられる人がいるだろうか。
苦しみにあえぐ人は、こんなに苦しいなら死んだほうがましだ「なぜ私を産んだ」と親を恨んでいる。
「誰のお陰で大きくなった」と反論するのが精一杯。
「それじゃ、産まなきゃよかったのだ」で完敗だ。
倫理や道徳では答えられない。根っこのない浮き草である。
ヒューマニズムも薄っぺらなもの。
医学の進歩はめざましい。
もっと医学が進めば、人工臓器の移植も夢でなくなるかも知れない。もし、このような人体の組織移植が、自由に適用されるようになったら、実に面白いことになろう。
心臓患者は、障害のある心臓を、あれこれと治療することを止めて、心臓銀行から新品の心臓を買い求めて、手術によって取りかえて、再び元気をとりもどすことができるであろう。
胃腸の悪い人も、新しい人工胃腸と交換して丈夫になれる。手足が動かなくなればこれまた新品の人工手足と取りかえる。
勿論、にごった血液は、清浄な血液と全部入れかえもできる、といった具合に、丁度、機械の部品が故障を起こすと、新品に取り替えられたり、補強されたりするようになるかも知れない。
さて、そのようになった場合、一体、生来の私というものはどうなるのか、ということが問題になる。
肉体の総てが、全く入れ替わってしまった時でも、私という根源的主体性というものには、全然、影響が及ばないのか。
肉体は他人であって、意識は依然として私である、という面白いことがおきる。総ての肉体が変わっても、私そのものは変わらないとすれば、その私とは一体何者なのであろうか。
これは決して、夢のような未来の医学を過程しての問題ではない。
すでに、我々の肉体の総ては、四百兆の細胞からできていることは、周知のことである。丁度、巨大なビルが小さなレンガの積み重ねによってできているように、我々の肉体も細胞の集積に外ならない。
しかもその細胞は、たえず新陳代謝して、凡そ七年間で全部入れ替わる、と言われている。
故に、七年前の私と、七年後の私とは、物質的には全然別人ということである。
然るに実際は、別人の感じはなく、やはり同一人であることに、間違いはないのである。
してみれば、七年前の自分と、今の自分との間には、物質以外に何か一貫して変わらない「もの」があると思わなければならない。
これを統一的主体と言われる。
「いくら年をとっても、気だけは若い感じがする」と老人は言う。
統一的主体としての自己があって、それは肉体の老化と関係なく、永遠の青年であるからである。
これが明らかにならなければ、私が行方不明になる。
この世は皆、しばらくの縁である。しばらくの間、夫であり妻であり、子供であり親なのである。
そうと知れば、一瞬一瞬のご縁を大切にせずにおれなくなる。
一日一日が、完全燃焼だ。
孝行にしても、いつまでも親が生きていると思うからできない。
ほんのしばらくの親子の縁だと思えば、大切にせずにおれなくなる。
「バカヤロー」「甘えるな」「ふざけるな」学校に行けなくなった子供を、強烈カウンセラーがどなりつける。親にも「子供になめられてるんじゃねー」。二時間で引きこもりを治す、通称[奇跡のおばちゃん]の荒療治だ
彼女の持論では、人間は苦しみを一つ一つ克服しながら大人になってゆくものである。しかし不登校や引きこもりの子供は、その苦労から逃げている。甘やかす親にも原因があると、厳しい。「だから、私が闘わせるんです。逃げることに慣れたら、一生、逃げ続けなくちゃいけなくなりますから」
たしかに人生は苦しみの連続だ。受験戦争を勝ち抜き、就職難をくぐり抜け、リストラにおびえて働き、老いや病魔とも闘わねばならない。人間関係のストレスに悩まされ、事故や災害、会社の倒産など、不測の事態も襲ってくる
だが、それらの苦難を乗り越えて、どこへ行くのか。最も大事な目的地を示さず、ただ「逃げるな」「闘え」の連呼は、「ゴールなき円形トラックを回り続けよ」と鞭打つのと、変わらない。
平成十三年度の過労死認定件数は、百四十三件、前年比六八パーセント増(厚生労働省調べ)で過去最多となった
仕事のストレスや長時間労働による過労自殺も増えている。「三交替制勤務で仕事がきつく、睡眠障害に悩まされていた」「残業が多く、夜中三時ごろに帰宅する生活が続いていた」。全国四十八ヵ所に設置の「いのちの電話」が鳴らぬ日はないという
優しい音楽でリラックス、愛らしいキャラクターで目の保養、ヒノキ風呂、ミニ盆栽、炭の香りなどいやしブームは花盛り。疲れ切った心を慰めてもらいたい。企業戦士の本音だろう
大学では心理学が人気らしい。学部や学科も次々と新設されている。志願者が増え、倍率は跳ね上がる。中高年の相次ぐ悲劇に不安を感じ、心に確かなよりどころを求めているのか
ハイテク進んだ現代は、物が豊かになり、確かに便利になったが、「ああ、幸せだ」という実感がないのはなぜなのか。
苦労が必ず報われる、真の「人生の目的」を知りえてこそ、心から充実した人生が開けるのである。
「人類滅亡まであと七分----」。米国の科学誌は、毎号の表紙に「終末時計」を載せている。核戦争による地球破滅を午前零時に設定し、分針の位置で核の危険を警告する
一九四七年に「七分前」から始まり、冷戦の終結で「十七分前」まで針が戻された。その後一進一退して今年二月、四年ぶりに二分進められ、「七分前」に逆戻り。テロの脅威が主因という。核軍縮は進展せず、世界で懸念が高まっている
体調不良で病院へ。風邪と言われても驚かぬが、「ガンだ」「エイズだ」となると大騒ぎする。死に至るからであろう
ドイツの哲学者・ティリッヒは、人間は一瞬たりとも、死そのものの「はだかの不安」には耐えられないと言った。死と真正面に向き合うのはあまりにも恐ろしいから、それに衣を着せ、和らげたものと対面しようとする。戦争が怖い、病が恐ろしいというのも根底に死があるからだ。
核の問題を解決しても、死からは逃れることはできぬ。一日生きれば一日死に近づく。百パーセントの未来を、我々は見落としていないか。
オサマ・ビンラディンを、米国は同時多発テロの黒幕とした。テロ行為は断じて許されぬ。しかしアメリカが当初報復を「限りなき正義」作戦と名づけたのは、虫が良すぎると見るむきもある
ビンラディンをかつて英雄視し、武器を提供したのもアメリカだからである。八十年代、旧ソ連のアフガニスタン侵攻に、ビンラディンは私財を投じた部隊で抵抗した。アメリカは彼らを「自由の戦士」と呼び、支援したのだ。味方の時は「自由の戦士」、刃向かえば「テロリスト」と色分けするのが、アメリカの論理である
米国を「大悪魔」呼ばわりするイランの、ハタミ大統領は事件後、直ちに哀悼を表明した。異例の急変は、ビンラディンを匿ったタリバーンが、イランと犬猿の仲だったことによる
昨日の味方は、今日の敵。都合のよいときは善人、悪くなれば悪人という。己の時々の都合で他人を裁き、評価する。人間の価値判断は、いかにいい加減か。「今日ほめて 明日悪くいう 人の口 泣くも笑うも ウソの世の中」と、一休も笑っている。
空から火の玉が落ちてきた---。七月一日深夜、ドイツ南部で、ロシア旅客機が貨物機と空中衝突して墜落。乗客の多くは、夏休みを迎えたユネスコ特別学校の優秀な生徒だった。愛息を失った母親は、「出掛けた子供から二日前に電話があって。海辺での休暇を、とても楽しみにしていたのに・・・・・」と泣き崩れたという
十一日、淡路島で、ダンプカーからの白煙のため視界が悪くなり、大型トラックなど九台が次々に衝突、四人が死亡した。それらの人はロシア機の悲劇を知っていただろうが、まさか数日後に自分も命を落とすとは、ユメにも思っていなかったに違いない。
ある精神科医はガンを告知され、「人生は地雷原だった」と嘆いている。「次の一歩が命取りなのか、あるいは随分先のほうまで進めるのか。いずれにせよ、生きて地雷原から抜け出ることだけはできない」
死の縁無量。「飛行機が衝突したのか」「自動車の玉突き事故か」と、眺めていられる人もいつまでか。〈無常念々に至り、恒に死王と居す〉である。
ソニーが新型ロボットを開発した。転んでも起き上がる世界初の二足ロボット。五万語以上の音声を認識し、歌い、話し相手の気持ちを見分け、一段と賢くなっている
ロボットの活躍はさまざまだ。地雷探知、遭難救助、海底調査、機雷除去をはじめ、世界貿易センタービル倒壊現場で捜索するロボットなど、危険な作業を一手に引き受ける。イングランドでは、宇宙や深海を探検するロボットチームの編成を目指す、人工知能の実験が始まっている
掃除機、洗濯機、車、携帯電話、インターネット等で暮らしは便利になった。ロボット研究がさらに進めば、人間は、仕事、家事、育児から解放されて楽になる。退屈しのぎには、絵画や音楽で和ませてもくれるだろう。全身マッサージからおしゃべりの相手まで、「どう生きる」はすべて、ロボット任せになるかも・・・
だが科学の進歩も、生きる手段にすぎぬ。快適に生きて人は一体、何をする。「なぜ生きる」の目的知らず、科学にもてあそばれる人生は悲劇である。科学もまた、浮かばれない。
腰から直径一・四ミリの針を刺し、レーザーを数分当てる。十分足らずで手術は終わり、二時間後には退院。たいてい一ヶ月は入院する椎間板ヘルニアの治療が、日帰りでできる病院がある。保険がきかないので手術費は五十万を超えるが、全国から患者が殺到し、七年間で六千人に上った
腰痛から胃ガン、心臓病まで、一日で治す日帰り手術に関心が高まっている。リストラを恐れて手術を受けられずにいたサラリーマンが、よく相談に来るそうだ。数週間も会社を休めば、首になりかねない時世だからであろう
残業など当たり前だ。遅い帰宅に、子供の寝顔しか見られない。もっと我が子と一緒にいたいと、「子育て退職」する男性もいる。家族と過ごすか、仕事をとるか、厳しい選択を迫られているのだ
「生きるための苦闘」は激しさを増すばかり。どう生きるかに追われ、「そんなにまでして生きるのはなぜか」を考える時間は、奪われているようだ。生きる意味を知って働ける人は、幸せである。
老後に不安を感じている日本人は、66%に上るという(朝日新聞調べ)。二十五年前から倍増した。中でも四割が「暮らし向き」を心配する声で、健康不安を挙げる人の三倍あり、不況が色濃く反映しているようだ
しかし、老後以上に心もとないのが、その先の死ではなかろうか。未来がハッキリしないほどの不安はない。有るか無いか分からぬ老後の心配さえするのに、必ず来る後生をなぜ、問題にしないのだろう
生まれた時から我々は、必ず墜落する飛行機に乗っている。だが人生が、永遠かのように錯覚しているだけである。胃ガンで余命一年と告知された若い高校教師が、なぜ生きるかに苦悩するテレビドラマも話題を呼んでいる。「来年の今ごろ、地上に存在しない」という事実を突きつけられれば、老後の不安どころではなかろう
日本では今日も、約三千人が死亡している。北朝鮮の核攻撃や大地震がなくても、今年のカレンダーに、私の命日があるかもしれぬ。死を直視することは、生の瞬間を日輪よりも明るくする第一歩なのだ。