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| 行 事 記 録 (詳 細 - 16) |
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都内古墳巡り 遺跡見学会
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| 掲載日 03−11−28 |
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行 事 名 |
都内古墳巡り |
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研 究 部 会 |
遺跡見学会 |
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実 施 日 |
03年11月9日(日) |
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実 施 場 所 |
亀甲山古墳など多摩川左岸の古墳群 |
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参 加 者 |
15名 会員6名 (天野、尾田、佐伯、清水、坪井、西田) 会員外9名(1期) |
| 記 録 | 天野 博之 |
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概 要 |
東急多摩川駅→浅間神社古墳→多摩川台公園→古墳展示室→亀甲山古墳
→宝莱山古墳→八幡塚古墳→等々力渓谷→野毛大塚古墳 |
| 多摩川左岸の古墳群を歩く 天野 博之 | |||||
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はじめに
東横線で多摩川を渡ると最初の駅が多摩川駅、昔の多摩川園駅である。この一帯には、前方後円墳をはじめ数々の古墳が今も残っている。この辺りは武蔵国荏原郡だったので、荏原台古墳群と総称されており、さらに細かく分けると田園調布古墳群、野毛古墳群に分けられる。 一帯は水の便に恵まれていたため、弥生時代から米作りが盛んで生産性が高かった。4世紀前半の全長98mの宝莱山古墳や、100mを超える4世紀後半の亀甲山古墳などが田園調布古墳群に見られる。 尾田さんがたてた最初の計画では11月11日に予定されていたが、申し込みが少なかった上、11月9日に一期の会が全く同じコースを歩くことになっていたことを知り、急遽合流させていただくことにした。急な変更の為に参加出来なくなった方がいらっしゃいましたら、お許しください。 |
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へえー、こんなに沢山古墳があるんだ!
―田園調布古墳群― 多摩川園駅に定刻10時に集まったのは、一期の会員が9名、さいかちの会からは、尾田・佐伯・清水・坪井・西田・天野の6名、合計15名である。 まず最初は浅間神社古墳、東横線が都営三田線に乗り入れるための工事で調査された前方後円墳。神社は北条政子が夫頼朝の安全を祈願して祀ったという由緒を持つ。眺望が素晴らしく、川崎市が見渡せる上、晴れた日には富士山が美しいという。 ついで多摩川台公園の中の古墳展示室を見る。太田区内の古墳所在地や出土品が要領よくまとめられていて、参考になる。慶応大学の西岡秀雄教授が調査した古墳が多く、西岡○号墳と名づけた小古墳が数十あるのには驚いた。小学生の男の子が、父親と遺跡の所在を示すボタンを、順順に押しているのがほほえましい。 展示室を出るとすぐ亀甲山(かめのこやま)古墳である。私事で恐縮だが、私は満洲から引き揚げてすぐ田園調布の大叔父の家に間借りし、六年生の二学期から田園調布小学校に通った。その時慶応大学の西岡秀雄先生が勾玉と頚飾りを持って話に来られ、自分達の住まいの近くに古代人の遺跡があることに興奮した覚えがある。堰堤の管理人の息子の同級生と共に亀甲山古墳を捜して藪コギをしたが、結局見つからなかった。 今見ると、整備されて見事な前方後円墳の全貌がよく分かり、この付近に居住した古代豪族の財力のほどが偲ばれる。4世紀後半の築造、国指定史跡だ。全長100mというと、森将軍塚とほぼ等しい。 亀甲山古墳から台地を上流に向かうと、8基の小円墳(一基は前方後円墳)が連なっている。 |
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| 亀甲山古墳は全長100mを越える前方後円墳で、国指定史跡 |
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台地のはずれに宝莱山(ほうらいざん)古墳がある。ここは4世紀前半の築造で、関東地方最古の古墳の一つだそうだ。残念ながら亀甲山古墳に比べて、全貌を一望することは難しい。私が少年時代に見た勾玉と頚飾りはこの古墳の出土品である。其の他にも鏡や鉄製武具などが発見されている。96年に都史跡に指定された。
向かいの宝来莱公園は、三角ベースやゴロベースなどをして日暮れまで遊んだ公園である。その後、丘陵から多摩川沿岸に降りたが、途中の渋沢栄一が開発した田園調布の住宅地は細分化されてしまい、昔の面影はほとんど残っていない。三百坪ほどあった大叔父の家の敷地には、三軒ぐらい今風の家が建っていた。 |
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| 宝莱山古墳は築造当時全長97.5mの前方後円墳であったと推定された。都指定史跡 |
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この後は野毛大塚に向かって住宅地の中の道を辿るが、一期の会の女性達の道案内が素晴らしかった。伺うと、前もってロケハンされ、コースと時間を計算されていたとのことであった。また、要所要所で久世辰男氏の解説があり、今回の古墳探訪は一層充実したものとなった。
皆さんのご苦労に感謝を捧げたい。
多摩川河畔の旧農村部では、延宝(1670年代)の墓を見つけたり、享和2年(1802)の年紀を持つ鳥居があったりし、歴史の古さを感じた。もっとも古代の三税の一つ、地方の産物を納める調に布を納めたことが、調布の名の語源となったのだから、江戸時代の遺物に驚くこともないかもしれない。 円墳変じて前方後円墳になる −野毛古墳群の再調査ー
住宅地開発で今は消滅した古墳も多いが、尾山台近くには、八幡塚古墳、狐塚古墳、御岳山(みたけさん)古墳など、原型をとどめた古墳も幾つか見られる。 この日の終着点も間近になった。等々力不動尊の一隅で休憩後、等々力渓谷沿いに上流に向かって歩く。紅葉には未だ早いが、散策の人もチラホラ見える。ここでは横穴墓が三基発見されており、等々力渓谷三号横穴墓は完全な形で残っているそうだが、生憎の曇りで薄暗く、中の様子は分からない。ロケハンの時は中まで見えたそうで、案内の女性が悔しがる。 等々力渓谷から環状8号線にのぼって3分ほど歩くと、玉川野毛公園があり、その一角に野毛大塚古墳がある。野毛大塚古墳は、5世紀前半の関東地方を代表する古墳で、もとは大型の円墳と考えられていた。明治30年に発掘が行われ、箱型石棺から勾玉や武具類の他、石製の刀子(とうす)などの模造品が230点以上も発見されて有名になった。 ところが十数年前に再調査したところ、新たに三基の埋葬施設が発見され、中央からは約8メートルの長大な割竹形木棺が発見され、甲冑や刀剣など多数の武具や、銅鏡なども発見されたのである。 また円墳ではなく、帆立貝式の前方後円墳(通常の前方後円墳に比較して前方部が短い)で、前方部の向かって左脇に「造出し」が存在することが判明したのである。墳丘も後円部は三段、各段に円筒埴輪が巡らされていたことが分かった。 後円部直径は約60m、高さ10m、前方部長約22m、幅28m、 これは堂々たる首長墓である。 出土品から見て、野毛古墳群は毛野(群馬)、対して田園調布古墳群は大和系と考えられている。中央の勢力と関東在地の勢力が、5世紀ごろ、この付近を最前線に勢力争いを繰り広げていた、と考えることができそうである。 朝から今にも泣き出しそうだった空も、一同の祈りに応えてか、最後までもってくれた。出発から4時間近く、おそらく5qは歩いたと思うが、下調べも行き届いており、楽しい一日となった。 一期の会の幹事さん、有難うございました。
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