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行 事 の記 録 (詳 細 - 21)
 
旧東海道川崎宿めぐり 横浜探訪の会・古文書研究会
掲載日  04−5−16

行 事  名

 旧東海道川崎宿めぐり

研 究 部 会

 横浜探訪の会・古文書研究会

実 施  日

 04年4月11日(日)

実 施 場 所

 小土呂橋跡より六郷の渡し跡までの旧東海道の道筋と大師道

参 加 者

 7名 会員5名 (小方、須田、須藤、竹内、坪井) 会員外2名
記  録  坪井 健爾

 概  要

横浜駅京浜急行改札口付近集合(AM9:30分JR京浜東北線にて川崎へ
小土呂橋跡→佐藤本陣跡→砂子の里資料館→宗三寺→一行寺→田中本陣跡→万年()跡→六郷の渡し跡→医王寺→若宮八幡宮→川崎大師→石観音

 
 旧東海道川崎宿めぐり                             坪井 健爾
 
● 川崎宿のなりたち

 川崎宿は、東海道五十三次のうち日本橋から二つ目の宿場です。徳川幕府が慶長6年(1601)に東海道を制定した後、往来が多くなるにつれて継立(公用旅行者の伝馬人足を宿民が負担する輸送制度)の負担が過重となったため、宿場が追加され、川崎宿は元和9年(1623)に起立しました。

 川崎宿は、京口土居(現在の馬嶋病院付近)から江戸口土居(現在の六郷橋付近)1.5kmで小土呂・砂子・新宿・久根崎の4か村で構成。新宿には、交通機能を司る問屋場、助郷会所、高札場、田中本陣などの施設が集中していました。当初は、1村当たり40戸足らずの寒村でしたが、幕府から100両が交付されて、田中仮本陣と旅籠12軒が建てられました。
 
 小土呂橋
 旧東海道と新川橋通りと交わる小土呂橋交差点付近には、昔新堀川と呼ばれた幅5mほどの用水が流れており、小土呂橋が架けられていました。橋の欄干の親柱が現在の交差点の歩道脇に保存されています。
 
 佐藤本陣跡
 佐藤本陣は、川崎宿三本陣のひとつ。惣兵衛本陣・上本陣ともいいます。その子孫で大正・昭和期に活躍した詩人の佐藤惣之助は明治23年(1890)に川崎区砂子に生まれ昭和17年(1942)に52歳で世を去りましたが、「赤木の子守唄」「人生の並木路」「湖畔の宿」又「六甲おろし」等の作詞家としても有名です。現在、川崎信用金庫本店のかわしん広場に彼の肖像と「青い背広で」の一部が銅碑に彫出して掲げられています。
 
 砂子の里資料館
東海道川崎宿をテーマにした資料館。浮世絵を中心に毎月変わる企画展示を行っています。現在は4月19日(土)〜5月22日(土)東海道書画五十三驛(揃)と新所蔵浮世絵展を行っています。又300年前の東海道川崎宿の模型も展示され、ナマコ壁の江戸町屋風の外観は、川崎宿の当時の町並みを連想させてくれます。
 
 宗三寺
宗三寺はこの地で一番古い勝福寺の後身とみられ、戦国時代、この地を知行した間宮氏が当寺を中興しています。「江戸名所図会」に本尊釈迦如来は「一尺ばかりの唐仏なり」とあるように、本尊はひくい肉髯、玉状の耳朶、面長な顔、腹前に下着紐を結び、掩腋衣をあらわす中国風の像です。今、墓地には大阪方の牢人で、元和元年(1615)川崎に土着した波多野伝右衛門一族の墓や、川崎宿貸座敷組合の建立した紅燈巷女萬霊塔:江戸時代、宿場で給仕をし、売春を兼ねた女性たちの供養碑があります。
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 一行寺
川崎宿が東海道宿駅として正式に起立したのは元和9年(1623)のことで、それとともに宿駅の機構や、町の整備も進められました。浄土宗一行寺もその頃開創の寺院で、本陣が火急の場合、宿泊者の避難所にもあてられました。地獄の恐ろしさを説く閻魔坐像や地獄・極楽絵を所蔵し、1月第2日曜日と7月16日(薮入りの頃)に一般公開されます。境内には川崎宿で最初の寺子屋「玉淵堂」をひらき、太田南畝などとも交誼のあった能書家浅井忠良の墓や、富士講の大先達として幕末期に著しい宗教活動を展開した西川満翁の墓があります。川崎宿では宝暦11年に川崎宿二百年で最大の火災が発生し小土呂から六郷渡し場まで町並みはほぼ全焼。宗三寺、一行寺も焼けました。再三の火災から立ち直った川崎宿だが、今、宝暦以前の歴史文献は見当たりません。
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 田中(兵庫)本陣跡
田中(兵庫)本陣跡には現在、何も残されておりませんが、田中(兵庫)本陣は寛永5年(1628)に設けられた宿内最古の本陣です。伝馬継立の負担増大が宿民を苦しめたが、当本陣の跡を継いだ田中休愚が尽力し、これまで江戸町人の請負だった、六郷川渡船の請負を宝永6年(1709)よりは川崎宿が行うこととなり、渡船は、武士など公用旅行者は無賃でしたが、一般庶民は料金を支払うので、この収入が川崎宿の財政を潤し、宿場経営に役立ちました。又休愚は当時の農政を論じた「民間省要」の著者としても知られています。
 
● 川崎稲荷社
川崎稲荷社は戦災で社殿や古文書が焼失したため、創建など不明です。現在の社殿、鳥居は昭和26年(1951)頃再建されました。東海道川崎宿、新宿にあった、「馬の水のみ場」からここ稲荷社の前を通る道は「稲荷横丁」と呼ばれ、この稲荷横丁の少し先に大師用水に架かる石橋があり、これを渡ると府中道に合流し、一方反対に東海道を横切ると真福寺の参道となり、大師道へとつづいていました。享保元年(1716)紀州藩主吉宗が八代将軍継承で江戸下向の折、本陣近くのこの稲荷社境内で休息したと伝えられています。
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 万年(屋)と奈良茶飯
川崎宿の家並は文久3年(1863)には旅籠62軒をはじめ、八百屋、下駄屋、駕籠屋、提灯屋、酒屋、畳屋、湯屋、鍛冶屋、髪結床、油屋、道具屋、鋳掛屋、米屋など368軒が軒を連ね、街道筋は賑やかな旅籠街でした。幕末のはやり唄に「川崎宿で名高い家は、万年、会津屋、新田屋、藤屋、小土呂じゃ小宮・・・・」と唄われておりますが、なかでも万年屋とその奈良茶飯は有名でした。
 
 大師電気鉄道六郷橋跡
多摩川六郷の渡し跡の、土手脇の道路に沿って、現在の京浜急行大師線が走っていますが、その上に架かる陸橋の下を覗くと、旧大師電気鉄道の川崎側の起点となっていた、六郷橋駅の跡が残されています。
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 六郷の渡し跡
関東でも屈指の大河である多摩川の下流域は六郷川とよばれ東海道の交通を遮る障害でもありました。そこで慶長5年(1600)に徳川家康は、六郷川に六郷大橋を架けました。以来、修復や架け直しが行われましたが、貞享5年(1688)7月の大洪水で流された後は、架橋をやめ明治に入るまで船渡しとなりました、江戸の町人や、八幡塚村が請負っていた渡船権が、宝永6年(1709)川崎宿に許可され、明治7年に八幡塚村の鈴木左内らが架橋するまで、渡し舟でした。明治元年(1868)、明治天皇の渡御の際には、23隻の舟を横に並べ、船橋を作って渡りました。
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 大師道
六郷の渡し跡を通り過ぎて、最初の陸橋を渡って、京浜急行の反対側を京浜急行に沿って、やや行くと、川崎大師が造った、高く土盛りした昔の道の一部が見られます。
 
 医王寺
延暦24年(805)創建です。境内には、火事から鐘楼を守った蟹の話を伝える「蟹塚」、地蔵を塩で清めると子供のできものが消えたが、一方の地蔵はやせ細ったという「塩どけ地蔵」があり、その伝説とともに親しまれています。8月の塩どけ地蔵の地蔵盆は家族連れでにぎわいます。
 
 若宮八幡宮・金山神社
 暴れ川だった多摩川の治水と、干拓の無事を祈って建立された神社です。淀川の治水工事を完成させたといわれる仁徳天皇を祀っています。境内には二ヶ領用水に架けられていた石橋をはじめ、9橋の欄干、11個の力石など、大師河原一帯の歴史を感じさせるものがたくさんあります。特に「大師河原酒合戦記念碑」では「水鳥記」にある慶安2年(1649)の酒合戦が大師河原で行はれていたことを伝え、現在、若宮八幡宮で行はれる「水鳥の祭」の元となっています。又境内社の金山神社では、4月に「かなまら祭」がにぎやかに催されています。
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 京急発祥の碑
 京浜急行大師線の川崎大師駅のそばにある記念碑です。京浜急行電鉄株式会社が、創立70周年を記念して、発祥の地である川崎大師駅に設置したもので、京浜急行電鉄の前身である大師電気鉄道株式会社は、明治31年(1898)2月25日に、日本では京都、名古屋に次いで3番目、東日本では最初の電気鉄道として設立され、翌明治32年1月21日に川崎六郷橋〜川崎大師間の営業を開始しました。 営業路線は2km、車両数は5両、運賃は1人50円90銭2厘でしたが、特に21日は大変混雑しました。
 
 明長寺
 川崎大師の表参道を仲見世通りに向かって行く途中の左側にある天台宗の寺です。当寺所蔵の葵梶葉文染分辻が花小袖は萩田主馬長繁という武将が松平忠直(徳川家康の孫)に従い大阪の陣で大功をたてたことにより、家康から拝領したものと伝えられています。辻が花染は室町時代に起こり、桃山時代にかけて流行した絞り染めの技法で、江戸時代初頭に消滅したため「幻の染め」と呼ばれており国の重要文化財に指定されています。
 又、紙本着色地蔵菩薩及び十王図は、江戸時代中頃のものと考えられ、亡者を救済する地蔵菩薩を筆頭に、初七日に最初の裁きを受け持つ秦広王から最終の裁き(三回忌)を受け持つ五道転輪王までの十王が一幅毎に描かれています。画面は各々罪人を裁く王とその眷属、下部に責め苦を受ける亡者などが描かれ、これらの地獄の情景を当時の人々の感性で彩色豊かに明るく表現しています。
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 大本山金剛山金乗院平間寺
 今を去る八百七十余年前、平間兼乗という武士が生国を追われ、流浪の末川崎の地に住みつき、貧しく暮らしていました。兼乗は仏法に帰依し、特に弘法大師を崇信していましたが、わが身の不運と、42歳の厄年に当たることから、日夜厄除けの祈願をつづけていました。 ある夜、一人の高僧が、兼乗のゆめまくらに立ち、「我むかし唐に在りしころ、わが像を刻み、海上に放ちしことあり、以来未だ有縁の人を得ず。いま、汝速やかに網し、これを供養し、功徳を緒人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり、諸願もまた満足すべし」と告げられました。兼乗は海に網を打ち一体の木像を引き揚げました。この弘法大師のお像を本尊として、高野山の尊賢上人が兼乗と力をあわせ、大治3年(1128)建立されましたのが川崎大師の縁起といわれています。
 現在の本堂は昭和39年に再建された、総鉄筋、鉄骨、コンクリート造りで、平安朝の建築様式に近代的な感覚を豊かに盛り込んだ大伽藍です。平間寺の境内には、さまざまなお堂や石碑等がありますが、その内から2つばかり、ご紹介したいと思います。
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 しょうづかの婆さん
 人は死後三途の川を渡るといいます。その川の奪衣婆、すなわち「葬頭河の婆」が訛って「しょうづかの婆さん」と呼ぶようになったようです。
 その昔、品川のお台場にあったといわれ「台場の久兵様」とか「歯のお地蔵さん」と呼ばれていたこともありました。昔から、歯の痛みをいやし、容貌を美しくすると信じられ、その他にも健脚や諸願をかける人が多く、香華の絶えることがありません。
 
 施茶翁の碑
 天保6年(1835)に建てられたもので、羽佐間宗玄と言う人の塚です。
 この人は雅号を瓢仙と称し、奇人にして常に「ふくべ」を愛していた。来訪の客にはいつも抹茶を供養することを楽しみとして、晩年を大森に栖し益々その風流ぶりを発揮したといいます。
   地獄いや 極楽とても望みなく
     又六道の辻で
         施茶翁
 
 石観音
 イボ取りのご利益があることで有名な仏堂です。寛文5年(1665)、天台宗明長寺の僧弁融によって建立され、本尊は石造・如意輪観音像です。境内には「霊亀石盥盤」と呼ばれる手水石が置かれており、不漁続きの享保18年(1733)、霊亀の助けを受けて、地元の漁師たちが海中から引き上げたものだといわれています。
 又、郷土の俳人花鳥庵梅動が、早朝から夕刻にかけて句を詠みつづけ、万句を詠んだといわれた時の記念碑「梅動独吟万句詠草塚」や延享4年(1747)俳人茗荷坊の門人6人が、石観音に奉納する句を詠んだ時の記念碑「六人一句碑」があり、「川崎大師サマーフェスタ」では、これにちなんで石観音で俳句作りが行われます。
 
以上、横浜駅をAM9:30分に出発してPM3:00分帰着、昼食の時間をはさんで、5時間半、汗を流しながら歩きました。ご案内下さった須田さん、長時間誠にありがとうございました。又、ご一緒の皆さん大変お疲れ様でした。
無学な私ですが、お蔭様で大変勉強をさせて頂きました、これからも宜しくお願い致します。
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