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| 行 事 記 録 (詳 細 - 25) |
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神奈川県立金沢文庫企画展 「十五代執権 金沢貞顕の手紙」 古文書研究会
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行 事 名 |
神奈川県立金沢文庫企画展 「十五代執権 金沢貞顕の手紙」 |
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研 究 部 会 |
古文書研究会 |
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実 施 日 |
04年月7日6日(火) 10:00〜12:00 |
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実 施 場 所 |
神奈川県立金沢文庫 |
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参 加 者 |
会員 9名 (新井、小方、尾田、柴田、清水、鈴木、坪井、野々山、佐伯) 会員外7名(大川、片平、久世、中西、野寄、藤田、広脇) 合計16名(他2名) |
| 記 録 | 佐伯良江 文書作成 久世辰男 |
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概 要 |
金沢県立金沢文庫企画展「十五代執権 金沢貞顕の手紙」を金沢文庫学芸員 の永井 晋氏の解説で見学しました。 |
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金沢文庫学芸員・永井晋氏の解説で見学しました。貞顕の手紙を題材にして、料紙(手紙・文書の素材としての紙)や手紙・文書の形式・作法などについて解説いただきました。 金沢貞顕といえば、政治への情熱を失った執権高時と得宗家を連署として支え、高時の出家後は15代執権となりながら僅か11日でそれを辞し、1333年、東勝寺で高時ら一門と共に最期を遂げた人です。幕府滅亡に至る間の貞顕の生き方を貞顕の手紙から辿る、というようなことを期待していたので、やや予想外の内容でした。 文書・手紙には、残そうとして残ったもの(契約書・裁許状など)と、たまたま結果として残ったものがあります。金沢文庫を作った学問好きの金沢北条氏や真言律宗の拠点の称名寺は、書籍や教典の書写活動を盛んに行いました。その結果として多くの手紙類が紙背文書として残り、貞顕の653通の手紙もそのようにして残ったものです。 私が驚いたのは、称名寺の実質的な開祖である審海を下野薬師寺から迎えるという、歴史的にも宗門的にも重要な書類と思われる書状を、なんと裏紙に利用して教典が書写されていることです。永井氏の話では、当時の価値観では、教典の方がよほど大事で、手紙はどうでもいい、ということでしたが・・・ 文書・手紙の料紙として、まず楮(こうぞ)を原料にした「白くて厚くて美しい」 良質の「檀紙」があります。しかし不純物をしっかりと取ってから漉かないと美しい紙にはなりません。鎌倉幕府が成立すると紙の需要が倍増し原料の楮が絶対的に不足したため、楮の量を減らし米粉を混ぜた杉原紙(すいばらし)が普及しました。虫に食われやすい欠点があります。近世の紙はさらに質が悪く、虫食痕が私たち古文書会員を悩ませます。Fさんの指摘ですが、奈良時代の戸籍・計帳など(正倉院文書)は米粉を使わないせいか確かに虫食いが少ないですね。墨の滲みを押えるために漉いた紙を叩くということも行なわれます。 使用済みの紙を漉き返すことも行なわれました。鎌倉時代には、墨成分を取除いてかなり新品に近い紙に再生できたそうです。ところが右上の写真は、貞顕が作らせた円覚経の写経で金泥の罫線、端正な文字など金と手間をかけているのに、紙は漉きむらや墨痕を残した漉き返し紙です。その訳はこの写経は貞顕が父顕時を供養するために、顕時の遺筆を集めそれを漉き返したもので、父の遺筆の痕跡が残るようにわざと古い方法で漉き返しているからです。貞顕の手紙が653通も残っている理由も、貞顕の子・貞将が父と同じことをするために、父貞顕の手紙を集め、称名寺に送り貯めさせていた為だそうです。 右の文書は足利尊氏が称名寺に出した御判御教書を掛け軸に仕立てたものです。ところがよく見ると宛名の「金沢称名寺長老」の部分は別の文書から切り取って貼り付け、「金」の字を細工した形跡があり、偽文書の可能性があるということです。 右下の文書は「後醍醐天皇綸旨并万里小路宣房副状写」です。表書きの寺名が擦消され、充所と日付のところが極端に傷み、屋外にさらして傷ませた形跡があります。極楽寺宛の文書を称名寺宛の文書と見せる偽文書の可能性が高いようです。 文書の内容だけでなく、紙を見る目も必要なんだよ、と永井氏からいわれました。 見学の後、何人かの方と称名寺境内にある金沢顕時・貞顕父子の墓所に寄りました。顕時の墓は堂々たる五輪塔で恐らく貞顕が建てたものでしょう。貞顕の五輪塔(写真)は顕時のものより一回り小さく、貞顕の遺体は東勝寺の火炎の中に喪われたはずで、この塔は後に建てられた供養塔のようです。 |
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