<kitunoの旅−信長編−>
愛知県江南市から始まった旅。
感想やkitunoが訪れた地についての質問・情報をお寄せ下さい。
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吉乃の墓
本能寺
一乗谷
kitunoの旅<信長編>−吉乃の墓(1)−
投稿者: kituno_i 2001年2月25日 午後10時35分
メッセージ: 2477 / 2569
kitunoが生駒吉乃のお墓参りに行ったのは、1999年7月でした。
自分の先祖調べをしていて出会った吉乃さんに「kituno」というハンドルネ−ムをインタ−ネットで使わせてもらっていることを報告する為のお墓参りです。^^;
吉乃の暮らしていた生駒屋敷跡は、保育園になっていました。(メッセージ:
886 )
生駒屋敷が織田・豊臣時代の歴史的舞台として注目されるようになったのは、この時代に織田信長や豊臣秀吉の参謀役として働いた前野氏(吉田氏)の子孫が編纂した『武功夜話』が世に出たからです。その内容とは、今までの歴史的事実を塗り替えるものであり、信長や秀吉が、天下制覇の第一歩を踏み出した地がこの生駒屋敷でした。
永禄三年(1560)桶狭間合戦の奇襲、西美濃攻め戦略はこの地で練られ、蜂須賀小六や前野小右衛門らによって国々の情報を厚め、戦いの費用は生駒八右衛門家長によって賄われました。
信長の天下布武への道はこの屋敷を起点としていたのです。
(参考:江南市)
信長と吉乃及び吉乃の死に関しては、メッセージ:
1361〜とkitunoのHPに掲載しています。
生駒屋敷を訪れた後、吉乃の葬られている久昌寺、そして吉乃の荼毘地を訪ねました。
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kitunoの旅<信長編>−吉乃の墓(2)−
投稿者: kituno_i 2001年3月03日 午後 9時51分
メッセージ: 2486 / 2569
久昌寺縁起によると至徳元年(1384)前昌時を草創、途中、嘉永3年(1387)寺号を慈雲山龍徳寺とし、生駒氏が大和より移住したとき開営し、菩提寺とされました。
3代生駒家宗の代になり、その娘吉乃が織田信長の側室となり、吉乃が永禄9年(1566)5月13日に病没したときから、「久昌寺」に改められました。
久昌寺の本堂西・生駒家の墓地 の最も奥に、吉乃の墓はありました。
そして小さく「織田信長側室」と立て札がありました。
手向けられている花も枯れ、お香も焚かれていませんでした。
持っていった花を手向け、香をを焚き、吉乃と話をしてきました。
言い知れぬ寂しさが私の胸に湧いてきました。
その血を引いているかも知れない私は、吉乃という信長に心から愛された女性の存在を強く意識しました。
偶然、吉乃の墓の前に立っているとは、思えませんでした。
吉乃の墓
吉乃の荼毘地
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kitunoの旅<信長編>−本能寺(1)−
投稿者: kituno_i 2001年4月02日 午後11時25分
メッセージ: 2557 / 2569
旅の日時はグンと飛びます。
2001年.3/30・3/31、本能寺を参拝してきました。
現在の本能寺は、本能寺の変後、移築されたものですが、信長自刀の後三男信孝が立てた墓碑も移されています。その墓碑の左手には森蘭丸らの供養塔も建てられていました。
朝早く、まだ人気のない時間に、お参りをしてきました。
午後から、改めて出直して「大宝館」も見てきました。

本能寺信長御廟
kitunoの旅<信長編>−本能寺(2)−
投稿者: kituno_i 2001年4月03日 午後10時39分
メッセージ: 2561 / 2569
本能寺「宝物館」では、7/1まで「信長展」を開催中です。
展示内容は、
・信長の肖像画としては珍しい「口ひげのない信長」
(これは、フロイスが絵描きに書かせた信長の似顔絵に似ているような気がしました。)
・信長公の位牌及び本能寺の変戦没者の位牌
・信長が本能寺に寄進した麒麟の香炉
・信長が所持していた抹茶茶碗
・信長公陣羽織
・本能寺で焼け残った、信長所持の茶入れ
(日に焼けて釉薬が変色していて生々しい)
など、信長の存在を実感させてくれる遺品でいっぱいでした。
特に信長が所持していた天目茶碗(抹茶茶碗)の前からは、離れがたい気持ちになりました。
信長もこのお茶碗でお茶を点て服していたのかと思うと....。
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kitunoの旅<信長編>−一乗谷(1)−
投稿者: kituno_i 2001年9月09日 午後 4時43分 メッセージ:
2960
旅をしたのは1999年10月で、あれからまもなく2年の月日が流れます。
一乗谷は、福井市の東南10kmにあり、戦国時代一世紀の歴史がそっくり埋もれている大変貴重な遺跡で、越前の守護・斯波氏の被官だった朝倉隆景が、文明3年(1471年)に築城してから、天正元年(1573年)に織田信長に滅ぼされるまで、敏景、氏景、貞景、孝景、義景と5代103年間にわたる栄華の跡です。
昭和42年から発掘調査が進められ、昭和46年には一乗谷城をふくめた278haが国の特別史跡に、平成3年にはそのうちの朝倉氏4庭園が特別名勝に指定されました。
朝倉館の発掘調査は、これまで洛中洛外図屏風などの絵画史料や文献などからしか伺えなかった中世末の武家住宅のを平面のみではありますが、かなり具体的に示すことになりました。
一乗川と再現された町並み
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kitunoの旅<信長編>−一乗谷(2)− 投稿者: kituno_i 2001年9月10日 午後 9時15分
メッセージ: 2962
一乗谷には、戦国時代、戦乱の続く京都を逃れて多くの貴族や学者・僧侶達が訪れ、朝倉文化が開花しました。 室町幕府の15代将軍足利義昭も一時ここに滞在しましたが、その後朝倉義景は上洛しようとしなかったので、義昭は織田信長の元に赴き、信長は義昭を奉じて上洛し天下統一の巨歩を踏み出したのです。
元亀元年(1570年)の姉川の戦いで朝倉義景・浅井長政が織田信長に敗れて後、天正元年(1573年)織田信長によって朝倉氏は滅ぼされ、一乗谷は城内に押し入った信長軍により火をつけられ灰燼に帰してしまいました。
以来400年間一乗谷は田畑と化して地中に埋もれることとなり、地中には貴重な戦国時代の城下町がそっくり保存されたわけです。
朝倉城跡
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kitunoの旅<信長編>−一乗谷(3)− 投稿者: kituno_i 2001年9月11日 午後10時22分
メッセージ: 2965
一乗谷川に沿って帯状に広がる狭い平地の一乗谷川東岸山間部に山城・砦・櫓など防御施設跡が、山麓には朝倉氏の館跡が見られます。また一乗谷川をへだてた西側には計画的に作られた南北約200mの道路を中心に、重臣の屋敷や下級武士・庶民の住居が、発掘された塀の石垣や建物の礎石を元に当時の工法で実物大に復元されています。
遺跡の中心である朝倉館跡は、東西南北80mあり、東は山、残る三方は土塁で囲まれ、外側には堀が巡らされています。山側から整然とした礎石の全景を見ることができ、常御殿・主殿・会所・遠侍・武者溜・厩舎・蔵などの間取りを判別することができます。
川を隔てた復元された町並みの大規模な武家屋敷は、周囲に土塀を巡らし、門を道路に開いています。それに対し小さな庶民の住居は直接建物が道路に面し、裏庭にトイレがぽつんとある実にシンプルなものです。当時のままの地形を生かしたこの200mの道路を歩いていると、戦国時代の一乗谷にタイムスリップしたようでした。