Detour 04-1in Vietnam
Osaka〜Ho Chi Minh City(19th)

基本情報

●正式国名:ヴィエトナム社会主義共和国
●首都  :ハノイ
●面積  :33万平方キロメートル
●人口  :7,500万人

●言語  :ベトナム語が公用語。フランス語・英語も、ホテルやレストランなどでは通じる。
●宗教  :人口の70%は仏教徒、10%はキリスト教徒(カトリック)
●時差  :日本より2時間遅れ(日本が正午のとき、ミャンマーは午前10時)

1.ベトナムの地理
 ベトナムはインドシナ半島東部に位置し、面積は約33万平方km。南北に細長いS字形の国です(ほぼ日本から九州を除いた大きさ)。日本からの距離は約4000km。関西からは関空からのサイゴン直行便もでています。値段だけ考えればソウル経由の便が安いのですが、乗り継ぎが不便で時間のある人向きかな。日本との時差は2時間あり、日本の8時はベトナムで6時です。ベトナムは北を中国、西はラオス、カンボジアと接し、東と南は南シナ海に面しています。北部は紅河、南部はメコン川によって形成されたデルタ平野が広がり、南部の肥沃な土壌は米の三期作や三毛作が行われるほどです。中部は山脈が続き、細長くなっており、一番狭いところでは幅100kmを切っています。このため中部の山岳地帯は国防の重要地点となっており、この地域を攻められて南北が分断されることを非常に恐れています。ラオスとの関係で神経質になるのもこの地政学上の問題があるからだと思われます。また、中部は平野部が狭いためベトナム国内でももっとも貧しい地域となっており、秋の台風シーズンには洪水の被害が頻発しています.

2.ベトナムの気候
 気候は北部、中部、南部とそれぞれ異なっています。北部は四季らしきものがありますが、春、秋は非常に短く、長い夏と短い冬とそれ以外の季節と言ってもいいかもしれません。天気は一年を通して曇りが多く、街自体の色彩の乏しさと相まって、ハノイという街の色のイメージは灰色です(別に悪口を言っているのではありません)。南部は雨期と乾期に分かれており、一定の時刻(だいたい午後)にマンゴーシャワーの降る雨期は意外に過ごしやすいそうです。雨期の始まりは5月、乾期の始まりは11月くらいです.中部は夏、非常に蒸し暑く、北部と南部より気象条件が厳しいところで、夏から秋にかけての季節には台風の襲来もあります。98年は台風の当たり年で、何回かの台風襲来で統一鉄道が寸断され、不通になっていました。といっているうちに、99年の洪水被害は死者200人を越し、過去70年で最悪になったという事を聞きました。昔から中部の人間は木魚で飯を食うと言われるほど貧しい地域で、確かに見た目の土壌もやせて感じられます。そのためか、革命に活躍した多々の人を排出し、ホーチミンやヴォー・グェン・ザップもこの地域の出身です。フエとダナンの間にあるハイヴァン峠を境に中部の気候は大きく変わります。おおざっぱに言って、北側は北部よりの、南側は南部よりの気候になります(あたりまえですが)。ハイヴァン峠を越えてダナンに入ると風が心地よく感じられます。

3.ベトナムの民族
 ベトナムは、現在54の民族が確認されている多民族国家です。そのうちキン族(狭義のベトナム人)が約8割を占め、残りを53の少数民族が占めています。主要な少数民族としてはタイ族(120万人)、ターイ族(100万人)、ムオン族(90万人)、華族(90万人)、クメール族(90万人)、ヌン族(70万人)、モン族(60万人)、ザオ族(50万人)などがいます。

4.通貨
 単位ドン(Dong、VNDと表記することも)
1米ドル=約14,000ドン
200ドン(2〜3円程度)

200ドン(2〜3円程度)

5.ベトナムの歴史
ベトナムの歴史は、他民族からの侵略と征服の歴史です。それは、中国による約1000年の支配にはじまります。記憶に新しいところではアメリカとのベトナム戦争。これは<B>『プラトーン』『地獄の黙示録』『フルメタルジャケット』</B>など、数多くの映画の題材にもなりました。しかし、以外に知られていないのはそれ以前、フランス統治下のベトナムではないでしょうか。

[フランスのベトナム進出]
18世紀末、一度は追放された前王朝阮一族の阮映(アイン)は、フランスの後押しを得て、中部ベトナムを奪回しました。1861年にはフエを、1802年にはハノイをそれぞれ攻略。1804年、国の名前を越南(ベトナム)とし、彼はカンボジアをも支配下におき、首都をフエに定めました。これが、その後第二次世界大戦終結までつづく阮王朝です。
しかし結果として、フランスにベトナム進出のキッカケを与えることになったのです。次の皇帝・明帝(ミンマン)は、カトリックの布教を禁止し、ヨーロッパ諸国を廃絶。しかし1858年、何人かの宣教師が殺された後、フランスとスペインを中心とした軍がダナンを攻略。1年後、ホーチミン市(旧サイゴン)が占領されます。その後1867年までにフランスは、ベトナム南部を全て征服。フランスの植民地としました。さらに1882年には、ハノイを征服。フエの阮朝は弱体化し、ここにフランスはベトナム、カンボジア、ミャンマを植民地として支配下におきました。
1925年、ホーチミンは、中国広州でベトナム青年革命同志会を組織し、武力によるベトナム開放を目指した。ホーチミンが率いる共産ゲリラは、フランスの支配に抵抗するものの弾圧。一時期革命は滞りました。一方日本軍は、ナチスドイツがフランスを制すると、支配の弱くなったベトナムに進駐。その後、日本はフランスの傀儡政権である「ビシー政府」と協定を結び、ベトナムは日仏二重支配の時代を迎えるのです。両者はともに圧政を敷き、日本軍はジュートなどの強制作付けや米の強制供出を行いました。これにより、ベトナムでは深刻な食糧不足が起こり、北部では200万人とも言われる餓死者がでたそうです。1945年8月19日、日本の無条件降伏を受け、ホーチミンは「ベトナム独立」を宣言しハノイで蜂起します。一方、フランス軍は同年9月、ベトナム南部の武装解除にあたるイギリスの支援を受け再侵略。翌年2月には北緯15゜以南のベトナムを支配します。ここに南北ベトナムの戦いがはじまりました。戦闘は長期化し、次第にフランス軍は消耗。その間、1950年には中国とソ連が北ベトナムを承認。逆にアメリカは、フランスの傀儡政権である南ベトナムを承認。結果フランスはアメリカに依存するようになりました。そして1954年、有名な「ディエン・ビエン・フーの戦い」で、フランス軍は大敗を喫したのです。
[アメリカのベトナム進出]
1954年5月のジュネーブ会議で、ベトナムは北緯17゜線を軍事境界線として二つの国家に分断されました。すなわち共産勢力の北とアメリカに援助された南です。イデオロギーの対立は急速に戦闘へと発展します。その頃、南ベトナムではアメリカに支援された政府が「腐敗」と「反対者への弾圧」とで、民衆の支持を失っていきました。
1960年12月、南ベトナムに「南ベトナム民族解放戦線」が結成。南ベトナム民族解放戦線はアメリカと南ベトナム政府に宣戦を布告。ここに第二次インドシナ戦争(ベトナム戦争)が始まったのです。アメリカは本格的な軍事介入に乗り出し、戦争はしだいに泥沼化していきます。1964年アメリカは北爆を開始。しかし、長引く戦闘の中、アメリカは次第に国際世論に避難され孤立化していくのです。ソンミ事件や枯葉剤の使用などにより、国内にも反戦の動きが盛んになるアメリカ。1973年には、パリ和平合意が調印され、即時停戦とアメリカ軍の撤退が決定。しかしアメリカは、その後も軍事援助を続行し戦闘を続けました。だがそのアメリカも、北ベトナム解放戦線の反攻を受け、1975年4月30日、サイゴンはついに陥落したのです。サイゴン陥落と同時に南ベトナムは消滅しました。そして、ベトナム社会主義共和国が統一国家となりました。その後もベトナムは、領土問題などで、中国やカンボジアとの紛争を起こしています。しかし、1989年9月、ベトナムはカンボジアから完全撤退しました。その一方でベトナムは、経済の発展を図っています。1986年に発表された「ドイモイ(刷新)政策」の導入から始まって、1992年の新憲法発布と続きます。そんな努力が実り、94年にはアメリカからの経済制裁措置が解除されました。95年7月にはアセアンに加盟。同年8月5日ベトナムは、アメリカと国交を回復したのです。


 去年と同じように、夜行フェリーで神戸に向かうことにしました。
ただ、去年と今年一番違っていたことは、“暖かい”という事。こごえながら、午前4時の街を歩かなければな
らなかった去年に対して、今年は万全を期して用意していたトレーナーも必要はなさそう・・・。(この日のために、中学時代に使用した、捨ててもいいトレーナーを予備に持ってきていたのです。)

4時10分 神戸着。
朝でも思ったよりも、かなり暖かい。とりあえず所持金はこの時点で、6,000円強。これでは出国することさえも出来ないかも?
そこで、去年と同じく神戸・三宮のシティバンクに足を運び、50,000円を引き出しました。
『四国に帰る費用込み(新幹線を使って9,000円程度)でも、ベトナムの1週間はこれだけあったら十二分だろう・・・?』
吉野家の朝定食(納豆定食380円)で食事を済ませ、5時20分の始発電車に乗り込みました。
もちろん、まだ日は出ていません。でも、あたりを見回すとこんな時間でも、電車
には人がけっこう乗っているのには驚きです。
大阪で一度乗り換え、そこからは直通の快速電車が連絡されていました。正直、もう少し眠りたかったので、『各駅停車でもいいかな。』とも思ったりしたのですが、乗り越してわけのわからないところに行くよりはましかもしれません。
そうして、7時過ぎには関西国際空港に到着したのです。

 『さて、それにしてもあと2時間はチェックインも出来ずに、一体何をするべきか・・・?』
それでも、今年はまだましです。去年は出発が午後2時。チェックインが出発の2時間前というのが普通ですから、それにしたって、5時間+2時間待たされました。今年はそれが2時間+2時間。でも、いざ2時間という時間は長くて短いもの。紀伊国屋本屋に行っては雑誌の立ち読みし、地下のローソンではパン買って・・・。
『あっ、そうだ! ドルだ!』
そういえば、小額のドル紙幣が必要なんだ。ドル・ドル・・・。
関空内には銀行は3店舗ありましたが、開店していたのは東京三菱だけ。おかげで、長い列が。
列に並びながら、いろいろ考えた挙句の2万円。(182米ドルと54円)
そして、その両替が終わる頃には、ここに来てからもう2時間が経とうとしていました。
そして、チェックインカウンターを見ると、すでに人の列が・・・。
そうなると、特別急ぐわけでのないのに私も並ばざるを得ません。すこしベンチで横になって仮眠もしたかったのですが、これは機内への持込としましょう。
そして,出国審査を抜けようとすると,人・人・人そしてまた人。

『今日は、関空もそんなに混んでないのかな?』
と思ったのですが、それは単なる気のせいに過ぎませんでした。
『いつもながら思うのですが、こんなに多くの人は一体どこに行くのでしょうか?』
免税店を横目に、いち早く搭乗ゲートに向かって歩き始めました。それでも、まだ搭乗時間には1時間半以上もあるのに・・・。
さすがに、そのゲートには誰もいません。ひとりでテレビを占領して、王様気分。
も独りだと、しかも暫くしても、人が増えないとなると、少々不安な気持ちがおそってきます。
たとえ、はっきりとチケットに73ゲートと書かれてあっても・・・。
案の定、その後ゲート変更があり、またまた長い道のりを歩かされる羽目になってしまいました。皆さんも気をつけてください、こんなことは、しょっちゅうなんですから。
しかし、
言われるままにそのゲートにきてみると、TG622というのはわかるのですが、JL622というのがボードに表示されています。TGとはタイ航空のコード記号ですし、JLとは言わずと知れた日本航空のこと。
『何で、同じゲートに同じ飛行機がつくの?確かに、私はタイ航空で申し込んだはずなのに・・・。』
その答えは飛行機に乗ってしばらくするまでわかりませんでした。

飛行機に搭乗するときも、JLの客と全く同じ。しかも私の周りの席は大半が日本人。
『なんで?』

そして、時間どおりに、飛行機の機体が動き始めたかと思うや否や、静かに離陸を始めました。関空を飛び立ち、水平飛行にうつると、機長からの挨拶の放送がありました。

それによると、どうやらこの飛行機は、JALとタイ航空の共同運航のようなのです。更にもう少しすると、食事の案内なるパンフレットが配られてきました。
『タイ航空にまで乗って、茶そば!?』

なんだか、おおいに裏切られたような気がするTGでした。ただ、早めにチックインしたので窓際に座れたのと、私の乗った飛行機の機体がBeoing777-300という、今までに乗ったことのない新機種だったので、タイ料理はあきらめる事にしましょう。

今回の旅行は、もともと南のビーチを目的としていましたから、ベトナムのホーチミンを第一の目的地にしていました。もちろん、関空からはベトナム航空やJALが直通便を飛ばしていたのですが、『せっかく飛行機に乗るんだったら今までに乗ったことのないやつ。しかも、マイレージポイントが貯まるやつがいいな。』と、ひそかに思っていたのです。私自身タイ航空のマイレージカードを持っていることは持っているのですが、2〜3年前にANAがスターアライアンスという航空機数社による共同システムに参加したお陰で、タイ航空のマイレージポイントを、そのままANAのマイレージポイントに換えることが出来るようになっていたのです。そういうわけで、私はタイ航空を選びました。気が変わったら、タイでストップオーバー(途中下車)してもいいと思ってもいましたし・・・。


 タイのドムアン空港についたのは、大阪を出発してから5時間半ぐらいしてからでしょうか。でも時差の関係で、タイはまだ、午後3時過ぎでした。窓からは、はっきりとタイの住宅の様子が覗えます。

タイのほとんどの人々は、第一次産業に属していますが、すこしずつ第1次から第二、第二から第三へと移り変わっているようです。そして、それに従って、所得も大いに伸びているように感じます。そして今、それらの住宅を、遠目ではありますが目の前にすると、改めて実感するようです。

さて、ここでは一旦飛行機を降り、再度バンコク〜ホーチミンという飛行機に乗り換える必要があったのです。
またもや、2時間余り待たされて、出発は午後5時50分。今度は明かりが灯りはじめて、少し暗くなったバンコクをあとにします。
窓の外には、高速道路を走る車のヘッドライトの光の波が何重にも重なり合って、とても美しく見えます。

『なんて、まっすぐな道なんだ。ベトナム戦争で、アメリカが造ったのかな?』

さすがに、バンコクからホーチミンまでは1時間もかかりません。でも、これでも国際線。飛行機が水平飛行に変わるや否や、ソフトドリンク、サンドイッチ、コーヒー・紅茶が次々とだされて、ばたばた。
そうすると今度は隣の席の人がおもむろにソニーのバイオを取り出して、Win98を立ち上げ始めました。
『ビジネスマンに違いない。』
でも、彼が始めたには“フライトシュミレター”飛行機の中で飛行機を飛ばす。いやいや、なんとも羨ましい限りです。
周りの人々の視線は彼のバイオに集中。こんな楽しみ方もあるんですね。

そうこうしている間にタンソンニャット空港に到着です。
でも、『あっ、いよいよあの入国審査が始まるのか。』と思うと、・・・。

 私がベトナムに行くのはこれが2回目です。大雑把に言うと、以前は首都ハノイから入って、1ヶ月かけ南に下ってきて、ホーチミンから出国しました。ですから、このタンソンニャットに来るのは2回目なので、それ自身には問題はないのですが、入国審査が大変だったからです。勲章をいっぱいぶら下げた軍人のような官僚たちが、厳しい顔付きで、入国審査をしているのです。そしてこれがまた、遅いのなんのって。官僚主義の権化みたいな連中が、とうせんぼしているからたまりません。その上、入国申請の書類は多いし、いざ入国しても、もしその半券をなくしたならば、50ドルの罰金があるとか・・・。悪いところはあげるときりがありませんが、よい点は皆無でしょう。あえて言えば、ミャンマーみたいに強制両替がないことぐらいでしょうか。
空港に到着後、『いざ入国審査』と、少々緊張していたのですが、
『あれっ?』

ベトナムもここ3年ですが、ずいぶんと変わってしまいました。あっけないぐらい簡単に入国審査は終わり、手荷物だけの私は、さっさとベトナム入国に成功したのです。
ビザを頼んだ旅行会社も、いろいろとコピーだの何だのいろいろ用意してくれていたのですが、何にも必要ありませんでした。
 さて、私の旅行で一番緊張が高まるのは市内へと向かう時ではないでしょうか。というのは、なぜかしら発展途上国には市内と空港を結ぶ路線バスがないからです。
「それじゃあ、タクシーに乗ればいいじゃない。」と、普通の人は思うかもしれませんが、これもなぜかしら、まともなタクシーが少ない。ほとんどのタクシーはメーターがなく、交渉によって料金が決まります。(もちろん、かなり割高。)もし、メーターがあっても運転手はそれを使わないでしょう。そして、目的地に着くなり料金をふっかけてきます。これは、値段交渉をして、値段をきめていても同じこと。それがだめなら、遠回りをしてみたりと、これも言いだせばきりがありません。
ただ、運転手を怒らせて、知らないところに連れて行かれることだけは避けたいものです。
反対に、正真正銘まともなタクシーはあっても非常に高額なのです。『今回はどうしようか?』
『前回の経験から、最悪でも表の通りに出て、流しのバイクタクシーでも捕まえればいいや。』
 そうは思っても、目敏いタクシーの運転手にはかないません。空港の自動ドアが開くと黒山のたかり。もちろん大半は、お迎えなんでしょうが、そうでない輩も見受けられます。
『どこまで行くの?』なんて言ってよってくる人ばかり。ロンリープラネット(海外で一番有名なガイドブック)によれば、タクシーの相場は5ドル。
『それじゃ、4ドルにしよう。』
そう自分の中で決めていました。たぶん、前来た時、市内から空港は3ドルぐらいだったような・・・?
そうして、初めに声をかけてきた運転手と値段交渉をしてみると、あれっ?
4ドルでOK!」
『これで、十分なのね。』

 
無駄な時間を過ごす必要もなく、タクシーは市内へと向かいます。一度来たことあるだけに、方向感覚もしっかりしており、すべて順調。恐ろしいぐらい順調な滑り出しを切ったベトナム入国です。

 空港
から市内までは、15〜20km程度。時間にしても20分もかからないほどです。タクシーから外の様子を眺めていると、少しずつ昔のことがフィードバックされてきます。恐ろしく多いバイク。恐ろしく派手なネオン。何にも変わっていません。むしろ、もっと派手になっているぐらいです。
途中からは、自分でもどこを走っているかわかるぐらいになってきました。なんせ、前回は1週間とにかく市内を歩き回ったのですから。
時間は、8時になろうかという頃、バックパッカーには安宿街として有名なデタム通りに到着しました。
『ここも、ぜんぜん変わっていないや。』
何のトラブルもなく、約束どおりタクシーの運転手に4ドル払い、なおかつ順調な滑り出し。
(運が悪ければ到着するや否や、やっぱり10ドルだとか、8ドルだとか言う悪徳運転手も多いですから。)
一応、運転手の推薦のホテルも運転手の顔を立てる意味で覗いてみましたが、料金は10ドルとごく普通の値段。
『私としては、前回の基準に照らしてみて6ドルが目標かな?』なんて思っていました。
でも荷物も少ないので、急いでホテルを決めなければならないといったこともありません。

『それじゃ、ちょっと出かけるか!』

「どこえって?」

3年前、1週間ずっと通った、あの場所へ!
ちょうどホーチミンの中心にある公園。ベトナムでも指折りの有名ホテル、REXホテルのすぐ前。そして、そこがもっと有名なのは正面に旧ホーチミン市庁舎があり、建国の父ホーチミンの銅像もある広場だからなのです。
ですから、昼間はもちろん、夜になればなおさらの賑わいぶり。外国人はもちろん、それ以上に現地のベトナムの人々が集まる一大観光名所なのです。
(詳しくは深夜特急Chapter03参照

 久しぶりに見るその公園は・・・。

確かに、賑わいはあるのですが、何か違う。絶対何かが違う。
3年前に見られたような、物売りの姿がめっきりと少なくなってしまいました。あれだけいた、ココナッツ売りが3〜4人しかいない。
『何だろう?』



          
ホーチミン市庁舎





 REXホテル




そこで、しばらくベンチに座って、REXホテルの側面にミレニアムを祝う2000の数字をかたどって装飾された電灯を見ていました。

『こんなに派手だったっけ?』


ホーチミンはベトナムの中ではずば抜けて垢抜けている街です。しかし、どこかしら、戦争や社会主義という暗い部分を持ったところがありました。それが、今はあまり感じられないのです。アメリカ型の商業主義がどんどんと入ってきて、街がどんどんカラフルになったようです。もちろんそれだけではありません。ベトナム経済が上向きなのでしょう。

私は、てっきり東南アジアを襲った通貨危機の影響で、まだ不況から抜け出せないでいると思っていたのに・・・。
そんなわけで、とにかくここは“景気がいい”のです。(あくまでも見かけ上のことですが。)
 いくらきょろきょろしても、3年前に遊んだ子供達の姿はありません。
『きっと、よい景気のおかげで、いい仕事を見つけることが出来たんだろう。』うれしいけども、なんだか物足りない・・・。

『・・・』
『会えることを期待していた自分のほうが愚かだったのかな?』
そう思うと、あきらめてホテルを探すことにしました。
 再びデタム通りに戻り、「安いホテルがあるという」客引きの紹介で、裏路地にあるホテルに行きました。
名前は、“TU LIEU”。ホテルというよりは、むしろ“間貸し”Room for rent”、という看板がそれを物語っています。
1階部分を家族で使い、残りは外国人に部屋を貸す。そんなことが普通の場所柄なのです。
そして、デタム通り界隈は旅行者のドルが落ち、ホーチミンでも非常に裕福なところの一つでもあります。
一日の平均日当が1ドルであるベトナム人にとって、外国人の持つお金は大きいどころではないのです。
 私の部屋は、4階。頭をぶつけそうなぐらい低い天井の階段を上っていくと、最上階の部屋に出ました。隣近所よりも1階分高い造りになっており、眺めも最高。そして、ベランダもあって落ち着けような予感。しかも、4ドルという料金もあって、即決。
今日は、もう寝ることにしましょう。昨晩はフェリーで3時間しか寝てない上に、時差の関係で今日は2時間も余分に起きている計算になります

『また明日、明日どこ行くか考えましょう。』