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Detour 04-8 in Vietnam
Ho Chi Minh City(26th)
旅の終わりというのは、実に淋しいものです。2〜3日だと、それも完全に割り切れますが、それが1週間ともなると、実に淋しい・・・。
ちょうど、調子がでてきた頃に、『はいさよなら!』とは・・・。
でも、逆に言うと旅に期限があるのでおもしろいのかもしれません。『一生どうにでもなれ』と、日本を飛び出していたら、調子が出たなんてそんな悠長なこと言っている場合ではないでしょうしね。
それじゃあ、残りの12時間を有意義に過ごすことを考える事にしましょう。
『ブンタオに日帰りで行く?』、『チョロンで中華を堪能してから洒落たお土産を探す?』、『公園でボーっとする?』
しかしどれも、パッとしません。
でも良く考えたら、当のホーチミン。あんまり観光というものをしていないではありませんか。もう、延べ日数にしたら10日以上になるかもしれませんが、めぼしい観光地はいつもの公園と、戦争犯罪展示館ではないでしょうか。
統一会堂(旧大統領官邸)もホーチミン博物館も歴史博物館もサイゴン大教会も見に行ったことがありません。
そこで、今回はのんびりと一日かけてホーチミン市内を観光と、ショッピングで費やすことに決めました。
そうそう、先日の約束どおりにベンタン市場に、コーヒーも買いに行かなければならないしね。
『まず初めは、・・・。食事かな?』
あと三度しかない食事は特に重要です。『何度もくどいかもしれませんが、寝だめと食いだめだできればな!』
荷物をホテルに預け、さあ、私設ツアーの開始です。ロンリープラネットと、カシオペアを持って歩き始めました。
初めに向かったのは、“戦争犯罪展示館”。と思っていたら、名前が変わっていました。現在は“戦争証跡博物館”。どうも、アメリカからのクレームで名前が変わったらしいと、何かで見たような気がします。
戦争証跡博物館
入場料10,000ドンを入場口で払いうと、パンフレットが渡されました。そして、その門をくぐると、いやでも目に米軍戦闘機やヘリコプター、戦車、大型爆弾などがそこに展示しているのが見るでしょう。ここまでは、気分は良好です。でも、建物に入ると・・・それは一転します。

私設の名前は変わっても展示物は昔のままでした。ベトナム戦争時のアメリカ軍が行った残虐行動のありさまを、写真や文字、ディスプレイなどで展示してあります。数多くの残虐行為をしっかりと写した写真。たとえば、“ベトナム人の生首を手に記念撮影するアメリカ軍”なんてものもありました。たぶん当時、彼らは英雄そのものだったのでしょう。
戦争が残した足跡
でも、彼らがいま現在も生きていて、この写真を見たらどういう反応をするでしょうか?
そして、枯葉剤(ダイオキシン)が身体へ及ぼす影響を・・・。
手が3本あったり、口がない、鼻がない、そんなのはあたりまえ、もっとグロテスクな写真が展示されています。説明を引用させてもらうと、文字通り、“モンスター”といえるでしょう。
しかも、写真だけでも充分だと思うのですが、そのモンスター(人間の子供)のホルマリン漬けまでありますから、とても正視することは不可能だと思います。さすがに、私もその写真は撮れませんでした。
しかし、今日は日曜日だったのにもかかわらず大勢の小学生がこの博物館に押しかけてきていて、彼らは自分の興味を持っていることを、熱心にノートに書いていました。そして、先ほどの写真や、このモンスターにも少しも動じていないようです。
この現実を、彼らがどうのように受け止めているのか、このことのほうが私は気になってしまいました。
更に先に進むと、当時の拷問のようすを再現したディスプレイ。見ているだけで、頭がおかしくなってしまいそうです。
『人間て、こんなにも残虐なことができるんだ・・・!』
もちろん、それはアメリカだけのことではありません。日本軍も、太平洋戦争時にベトナムに侵攻していますから、そのことに対する展示類もあります。でも、でも、でも、メインはアメリカ。ベトナム戦争。
パンフレットの最初の部分を借用します。
「ベトナム戦争を遂行するために、アメリカ政府は延べ650万人の若者を動員し、直接戦争に参加させた。ピーク時には、南ベトナムの地には543,400人のアメリカ兵が駐屯していた。(アメリカ陸軍の70%、空軍の60%、海兵隊の60%、22,000のアメリカ企業が直接ベトナム戦争に従事していた。)アメリカは戦争中に、785万トンの爆弾(銃弾は含まない)をベトナムに落とし、7,500万リットルの枯葉剤(ダイオキシンを含む)を南ベトナムの森林や農村、田畑にばら撒いた。第二次戦争中にアメリカが各地に落とした爆弾の量は2,057,244トンであった。アメリカ政府の発表した数字によると、アメリカがベトナム戦争中に使った費用は3,520億ドルであったという。
アメリカが北ベトナムに落とした爆砲弾は、ベトナムの各施設を破壊し尽くした。高等学校から、大学までの各施設2,923校、病院、産院、治療所1,850ヶ所、教会484ヶ所、神社・寺465ヵ所。現在も正確の統計はでていないが、ベトナム戦争中およそ300万人近くのベトナム人が死亡、400万人のベトナム人負傷し、5,800人以上のアメリカ兵が死亡した。
ベトナム人民にもたらされた戦争の後遺症はあまりにも深く、計り知れない。今日、私達は過去を見つめなおし、歴史に学び、決して恨みを呼び起こしてはならない。なぜならベトナムの地に再び、あの悲惨な光景が蘇ることのないように。またそれは、私達の地球上のどんな場所でも、繰り返されてはならないものである。
これは、ベトナムの言い分ではなく、当時のアメリカ国務大臣マクナマラの回想録を引用したものというのが、この文章のミソではないかと思います。
「私達は過ちを犯してしまった。重大な過ちを。私達は、将来の各世代に対して負債を負いつづけなければならないだろう。混ぜこの過ちを犯してしまったかのを説明するために。」こうも書かれてありました。

何故か日本語でも説明していた
パンプレット
この辺で次のところに行くことにしましょう。そして向かった先は、“統一会堂”(旧大統領官邸)です。地理的には、すぐ隣になるのですが、なにせ敷地が広いので、正面玄関に行くまでかなり歩かされます。ここもやはり日曜日という事で、多くの人で賑わっていました。
博物館を見に来た人も多いのですが、それ以上に多いのが買い物客。建物の大広間で“見せ物市”とでも言ったらいいのでしょうか、いろんな企業が自社製品のPRを兼ねて即販会を開いていたのです。バイクのタイヤから、カップラーメンまで。私は、博物館に行く前に、先のこっちのほうに紛れて入りましたから、なんだか気分的に博物館の有り難味が薄れてしまったたかもしれません。
私よりも一世代前の人、学生運動に参加した人々は、たぶんこの建物をとても神聖な建物のように感じているかもしれません。でも、私にはその実感はありません。物心ついた時には、すでにベトナム戦争は過去の歴史の一部になってしまっていたからです。でも、今回はもう少しそれを掘り下げて鑑賞してみることにしましょう。
外見は、どっかというと、博物館とういうよりはむしろ体育館のような感じです。入り口近くには、たくさんのイスが据えられており、ある程度の人数がそろえば、ツアー開始のようです。もちろんガイド付きで。
しかし外国人は違います。第一に入場料金がいります。15,000ドン(120円程度)でチケットを買うと、なんとガイドが付きます。私は、一人だったのでマンツーマンのガイドが付いてもらえました。英語のガイドでいいかと聞かれて、それじゃとでてきたのが、民族衣装であるアオザイをビシッと身にまとった女性。こっちが緊張してしまいます。
入場チケット
そして、大統領執務室をはじめ、各国の大使と謁見する部屋、食堂(大統領専用、大統領夫人専用、家族用と3部屋)、大統領夫人専用室、娯楽ルームにはビリヤード台・麻雀卓なんてものも設置されていました。
そして、建物を上へ上へと上がっていきます。建物は4階までしかないのですが、最上階には辺りが見渡せる展望スペースがとられ、そこから一台のへリコプターを見ることが出来ます。
1975年4月30日アメリカはベトナム戦争に負けました。アメリカの傀儡政権であった当時の南ベトナム大統領ゴ・ディン・ジェムの官邸にベトナム解放軍の戦車が、官邸の鉄柵を破って無血入城を果たし、一方空中からはこのヘリポートにそのヘリコプターが着き、解放軍の旗を掲げたのです。これは、そのヘリコプターを記念して、そのままの形でディスプレイしている物なのです。
ヘリポート
今度はどんどん建物を降りていくので、ここでツアーは終わりと思いきや、1階を通り越して地下まで連れていかれました。ここは、爆弾が落ちても大丈夫なようにと設けられて、いわばもう一つの大統領官邸なのです。
先ほどよりは、格段に質素ですが大統領執務室があり、作戦室があり、アメリカと直接通信できるラジオ局があったりと、いかにも、戦争があったということを思わせるのもばかりです。
出口手前には大統領専用車ベンツもありました。そして、ツアーの最後にはビデオルーム(英語・フランス語)なるものも用意されており、充分にベトナムの過去を感じさせてくれる場所ではないでしょうか。
“統一会堂”(旧大統領官邸)
逆に一歩外に出ると、ベトナムの現代があります。ここでは、日曜日ということもあって、結婚式の野外パーティーがこの敷地内で行われていました。これこそ、まさに、これから力。未来を作る、ベトナムの姿でしょう。
(こんなところで、結婚式のパーティーが行えるなんて・・・日本では考えられません。)
この辺で一休み。そういえば、喉も渇いたしお腹もすきました。統一会堂を出たところには、南国特有の大きな木々が並ぶ公園がありそこで一服すすることにしました。“ラオサン”と呼ばれる、ベトナム風あんみつ、そしてフランスパンのサンドウィチを頬張りながら、おばちゃん達とお話。
街のサンドウィッチ屋さん
それにしても見てください。ほとんどの露天商人は、天秤を掲げ、これ一本で商売しているからたいしたもんでしょ。
ここにしばらくいてから、また散策に出かけることにしました。そこから、すぐ先のところには、ホーチミン最大のカトリック教会であるサイゴン大教会が、そしてその左手には、中央郵便局があります。ともに、現在も使用中ですが、どうですかこの外見、フランスの影響を見事なほど残しているのが分かるでしょ。

さあさあ、今度は・・・。実は、もうねた切れです。そんな根性入れて、動き回ろうとも考えていませんし、第一『また来たくなったら来ればいいや!』。私は、どこに行ってもそんな風に考える事にしています。もう2度と来られないと考えると淋しいでしょ。
ということで、少々おみやげ物を買うために街中へと戻ることにしました。
ただ、まだ時間があるのですぐにおみやげ物に寄らずに、そこを通り抜けサイゴン川までやってきました。
夕涼みに大勢のベトナム人がやってくる夜とは違って、昼間のサイゴン川は至って静かです。そのままベンチで横になるのもいいのですが、先日のカフェでベトナム最後になるであろうカフェを飲んで、残されたわずかなくつろぎの時間を楽しむことにしました。
そうすると、暇な人たちが話し掛けてきて、けっこう楽しい時を過ごせたりするのもです。このときも、店員の女性に話し掛けられ、ベトナムについていろんな勉強をさせていただきました。
『今度こそ、お土産だ。そろそろ、メイリーのところにも行かなければな。』
そうして、腰をあげ彼女達に礼を言い、その場を去ってベンタン市場に向かいました。しかし途中で、ロッテリアなんか見つけたもんで、ついつい物珍しく足を踏み入れてしまうという、寄り道はありましたが・・・。
ちょうど、その時雨が降り始めました。たぶん、ベトナムで会う最初で最後の雨ではないでしょうか。
本当に、ちょうど良かった。
『ベンタン市場であれは、屋根があってしばらくは時間も潰せそうです。』メイリーはそこにいました。
先日も言いましたが、初めて彼女に会ったのは3年前。当時、彼女は数枚のベトナムの絵を持ち道行く外国人に売っていました。彼女自身がすごく絵に興味があり、それを楽しんでいました。が、傍目ではそんなに楽な商売ではないように感じていました。
『従業員でもいいから、普通の店で働いたほうがいいのに。』私としては、そんな風に感ざるを得ませんでした。
そんな時、何かの拍子で、彼女と話す機会があり、英語を通じてベトナム語を教えてもらったりしたのでした。
たぶんそんなにしっかりした学校教育も受けてないはずなのに、彼女の英語が実に流暢だったのと、そして何よりも彼女の明るさが印象的でした。
とりあえず、お勧めのコーヒーを選んでもらい、後の時間は当時の思い出のや、それからのことなどに付いて話を聞かせてもらいました。
現在の、給与は100ドル。まあ、公務員の給与が40ドルと言うのを聞くと、そこそことは思いますが、ベトナムの中でも一番の都会であるホーチミンにあっては、やはり不満足みたいでした。
「将来は?」と聞くと、絵のお店をしたい。当時の彼女の夢はまだ、現在も生きているようです。
「将来、きっとその夢がかないますように。」そう言って、彼女とは別れました。
3年ぶりの再開
前に言いましたが、世界の距離を急速に縮めたインターネットの波はここにも及んでおり、メイリーとは今後E-mailというかたちで連絡がつくことになりました。不思議なものですよね、世の中ってものは!
最後の仕上げとして、街をぶらりもう一周。
『もし、今度来ることがあったら、どんな街に変わってしまっているのだろうな?』そんなことを考えながら・・・。
本屋で絵本を買い(メイリーに紹介された有名なベトナムの昔話)、国営百貨店ではココナッのキャンディーやドリアンのクッキーなどという少々物珍しいものをお土産として買い、今回のベトナム旅行の仕上げもほぼ完了です。
『最後にフォーを食べよう。やっぱり、最後はこれでないと・・・!』
最後になりましたが、これが私のお気に入りの“フォー”の写真です。
フォー
『あっ、また雨が降り始めました。早く空港に行くことにしましょう!』
小走りでホテルの戻り、リュックを取ると、近くにいたバイクタクシーに声をかけ、料金は40,000ドン(300円程度)で合意。
すぐに空港に向かってもらいました。一つ、最後になって選択を誤ったのは、ケチってバイクを選択したこと。
途中で更に、雨の勢いは増し、おかげで空港に着いたときには、全身“濡れ鼠”。
夕方のホーチミン市内
でも、なんだかプールから出てきてシャワーを浴びた後のような爽快感が、そのときの私には感じられました。
『・・・・・・』
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