

Rie Fuse - 02/10/17 14:25:00
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「名前」、私は自分の姓名について考えることによって、いろいろなことに気付きました。まず、自分の姓名の真偽を自分で証明するのは、非常に難しいということ。例えば、私が初対面の人に「私は布施倫英です」と名乗った際に、もし相手から本当かどうか証明せよと問われたとしても、私自身だけでは「布施倫英」という名が私のものであることを証明することはできない。この事実は、固有名詞としての姓名(姓名に限らず)は、他者が名と「他ならぬこの人」とを同一のものとして認知しない限り機能しないということにつながるでしょう。さらに、私の場合、いくら私が「私は布施倫英だ」と叫んだところで、パスポートや運転免許証には「和気倫英」という名が記されており、区役所に行けば「あなたは和気倫英だ」とつき返される。これは、自分の姓名が自分のものであるということが、常に上位のレヴェルにある他者、この場合は国家権力、によってしか同一化されないということを意味しています。以上のことを考えた時、「夫婦別姓にすると家族が壊れる」という反対派、そしてそれに対して「いや別姓にするだけで家族崩壊にはつながらない」と答える賛成派の意見も含めて、夫婦別姓法案についての論議は、私にとってなんとも陳腐なものに見えます。
勇崎絵馬 - 02/10/11 17:52:04
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こんばんは。初めての書き込みになります。
今回の授業で取り上げられた「名」に関しては、いろ
いろ思うことがあったので、いつもより発言したなと
思います。
また、インターネットでは変名や匿名が頻繁に使われ
ますし、
まれにペソアのように多数の変名を「使わざるをえな
い」心境にある人に遭遇する機会もあったので、そう
いうことが
より「名」に対する関心を深めているのだと思いま
す。
Hanchun Lim - 02/09/19 20:28:16
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昨日の『The Fourth Dimension』は、わたしにとって初のトリン・ミンハでした(映像として)。その感想をいう前に前置き(?)みたいなものを話したいとおもいます。
わたしは、いま、「都市」というテーマに取り組んでおり、とくに20世紀初頭のベルリンについて書物を読むなり、建築・絵画・映画をみています。三日前からは、多木浩二さんが翻訳した『ベルリン1910〜1933』(岩波書店,1995)などの本を読んでいますが、そのなかで都市を主題とした、ゲオルゲ・グロスの『大都市Metropolis』と『オスカー・パニッツァに捧ぐ』という絵を発見したとき、一種のおどろきを感じました。
作品解説を引用しますと、「画面は大都市のビルの谷間の通りの雑踏とどよめきを描いており、押し合いへし合い、わめき合っている群衆のグロテスクにデフォルメされた顔が映し出している。人物もさることながら、画面全体の空間は恣意的というより支離滅裂な(むろん意識的な)遠近法によっており、そのためビルも道路も傾き、ぐらつき、いまにも倒壊せんばかりである。」
この作品には、都市の景観と人間内部の欲望とが同じひとつの姿をしているのをさまざまと見せてくれます。ぎらぎらと眼を光らせて杖を振り回す男。毒々しい化粧をした毒々しい服装の女が頭を振り上げてこちらへと向かってくる。貧しい身なりの男と毛を逆立てた犬が並んで歩いてくる。よく見ると、どの人物も、その瞳は黒々と塗り込められている。(あるいは、マネキン人形のような顔[個性]のない人間。)顔があって、眼があっても、それが映し出している内面がない。都市の人は、内面をもたないのです。表に出ている「顔つき」だけで充分だとでもいうかのように。
そうした人物を取り囲んで、巨大なビルがそびえている。建物はどれも攻撃的で険しい形をしている。人びとの険しい顔つきとまったく同じパターンである。通りは盛り上がり、人びとと歩調を一緒にしていまにもこちらに向かって動いてきそうである。外の建物が、人間の内部に合わせて叫び、吠え、うなり、激しく運動している。
外部と内部との境がなくなって、人間の内面が外観となってしまった状態。グロスの作品を初めてみたとき、わたしは目くるめく都市の空間が自分の内部に食い込んでくるような感じがしました。グロスが描き出した内部と外部との恐ろしいまでの相即性は、都市という生活空間(外部)をみることが、そのまま現代人の精神生活(内部)をみることとなるのを意味するとおもわれます。
それでは、その都市に住むわたしたちの日常とはいかなるものでしょうか。電車に乗っていて、窓の移り変わる景色をせわしなく眼で追いながら、みているのは景色に重ねられた自分自身の姿だけ。満員電車で、見ず知らずの人間とぴったり身体と身体をつきあわせて立っていながら、接触していない部分を必死で感じている。あるいは、喫茶店の喧騒のなかで、シミジミと人生を語り合う。
百年も前に、ジンメルは著書『大都市の心的生活』で、そんな現代人の生活を予言しています。外部の世界と内部の感覚のバランスを超越してしまった故、上記のように都市の人間は身体の感覚を無視し、頭、すなわち知性による感覚の異常な操作ないし訓練でそれを処理しようとする。知性にもとづいて、外部の世界を感覚するとき、外部の世界とは、内部の強制によって、「そう感じとられるべき」世界にすぎない、と述べているのです。
外部が外部でありえず、また内部が内部として存在しえないが故に、「内」と「外」との緩やかで穏やかな交流は考えることすらできません。都市の人びとの取り澄ました無関心は、ちょっとしたきっかけで、憎しみや争いにたちまち転換される攻撃性を秘めているのもそのためではないでしょうか。
グロスの作品は、その背景として戦争に、戦争の惨禍に由来するのは事実としても、戦争のみにその責を負わせることはできないとおもいます。それは人間精神の醜さ、貧しさは、その美しさ、豊かさと同様に時と所を問わずに現れるのだからです。
グロスのけっして動いていない絵が描かれているもの、あの視覚的な刺激による都市のもつテンポ、つまりテンポの「速さ」にたいして、トリン・ミンハは作品を通じて「〈遅さ〉の意味に注目」しているようです。これから彼女の文書を読み、またどういったものが発見できるか、いまはわかりません。しかし今回の作品をみて、そこらへんの「30分あるいは1時間以内の長さ」のテレビ番組より、この「86分40秒の」作品の方が〈速く〉時間が流れたな、とおもっています。
吉成秀夫 - 02/09/16 14:23:08
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トリン・ミンハはボクもメチャメチャ見たいのでぜひ参加させてください。ところで↓の福島さんがとりあげた京都芸術センター発行の雑誌「Diatxt.」ですが、たまたまボクも今日、オーロラタウン紀伊国屋で購入しました。まだ売ってます!お急ぎを!今日はその他にNTT出版「Inter Communication」(沖縄での今福先生と港千尋の対話があり、先日の集中講義と横断させながら読むと大変刺激的。Dia〜の木戸先生の論とも錯綜させることもできるのでぜひ併せ読みを。他に姜信子やCDガイドもいい感じ)、有吉佐和子『出雲の阿国』中公文庫(1974年以来の改版発行!)、諸星大二郎『完全版マッドメン』ちくま文庫(パプワニューギニアの未開と文明のボーダーを描くマンガ!)を購入し、昨日はブックオフでレメディオス・バロ『夢魔のレシピ』工作舎(元・バンジャマン・ペレの嫁さん、メキシコに移り住むシュールレアリスト、山口昌男「ものみなメキシコへ向かう」参照)を買っていて、相変わらずの節操のなさです。
福島朋子 - 02/09/16 11:10:53
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18日の上映会、とても楽しみです。雑誌ダイアテキスト07にトリン・T・ミンハの新作についてのインタヴューが掲載されています。カラーでトリン自身の映像がヴィジュアルに使われていますので、興味があれば読んでみてください。先日、今福先生の集中講義で“群島”という視点から“日本”を考えましたが、トリン・T・ミンハが捉えた“日本”もかなり面白いものなのではないかと思います。一部、雑誌のなかから引用します。「もしも新しいものを創り出し、母語の内部で多言語的になろうとするなら、自分自身の言語から亡命すべきであること、自分自身の領土の内部において客の役割を受け入れるべきなのだ、ということなのです。」やはり、トリン・T・ミンハの考えることはスルドイですね。他にも、この雑誌には木戸先生や管啓次郎先生の文章が載っています。
mochizuki satomi - 02/09/14 18:11:12
電子メールアドレス:HZS07107@nifty.ne.jp
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今福先生、ありがとうございます。18日楽しみにしています。 ところで、前回に先生がおっしゃっていらした、ちえりあでの札幌市民カレッジの案内が「広報さっぽろ」に載っていました。皆さんご存知かもしれませんが抜粋しておきます。「諸外国の生活と文化、ブラジル」(11月29日〜12月20日の金曜午前10時〜正午、全4回、定員40名、費用3600円)。申し込みは葉書で9月25日必着。行事名(日時・曜日・コースなども)、〒・住所、氏名(ふりがな)、年齢、性別、電話番号を記入し、〒063−0051 西区宮の沢1−1 生涯学習センターちえりあ事業課宛、応募者多数時は抽選だそうです。
今福龍太 - 02/09/13 12:04:30
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後期の授業は9月18日(水)午後6時より、いつものと
おり研究室にてはじめます。初回は、トリン・ミンハ
の新作「THE FOURTH DIMENSION」のヴィデオが彼女自
身から届いたので、その上映・解説の予定。
Mochizuki Satomi - 02/09/10 18:43:12
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後期の授業は、18日から始まるのでしょうか。すいませんがどなたか教えて下さい。
ハヤシ - 02/08/08 11:32:23
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――――――バフチンは、「〈鏡〉の中の〈自他〉の関係」において、真に不可欠なのは、モノとしての鏡ではなく、鏡としての他者であるという。――――――いきなりですが、「ルシーニョはパラノイア患者である」といっても異議を唱える人はまずないでしょう。これから、ラカンの学位論文「人格への関係からみたパラノイア性精神病」におけるエメとラカンが名づけた症例に依拠しながら、オルフェとルシーニョの関係を明らかにしていきたいとおもいます(無理を承知し、また軽いノリで書いていますので、くれぐれもあまり深読みしないで下さい)。とりわけ重要なのは、ルシーニョのさまざまな症状を羅列(人に火をつけ崖から落としたり、銃を乱射したり、麻薬に手をそめたり、人の女に手を出したり等など)することではない。その無意識的な動機である。ルシーニョにとって、自己を自己として認知させ、かれに統一的なまとまりのイメージを投げ返してくれる鏡のなかの像のような人物は誰なのか。それは、がきの時代から〈兄弟〉のような関係であったオルフェであるにちがいない。(親父は死んで、名付け親は自分を狙っている状況では、やはりオルフェしかない)。ルシーニョの不安定な存在を未来にまでひろげて基礎づけてくれるまとまりと永続性のイメージをあたえてくれたオルフェという鏡像的な他者に同一化することで、かれはオルフェのイメージのなかで自分自身を経験し、オルフェの幻想に映し出される人生を歩んでいくことになる。あるシーンで、ルシーニョは“(オルフェのように)俺にラップrapができてたら…”とつぶやくが、その瞬間、かれから喪失や解体の恐怖を取り除き、その肯定的感情と統一性を与えてくれたオルフェへの同一化が、今度は逆に、かれが自らの主人たろうとするその権利を不当に奪うこととなり、激しく銃を撃ち込む。自己の主人性を他者(オルフェ)と争うとき、かれにできることは銃を撃つことしかない(または、コカインをするか)。さて、ルシーニョはオルフェの暗殺を企むが、テレビの画面(鏡の代わり)にうつったオルフェの像をみるや否や暗殺を中止させる。何故?ラカンはパラノイア性精神病のなかでも、とくに、復讐revendicationと自己処罰autopunitionとの関係に注目する。このことを用いてみると、ルシーニョはオルフェにあこがれるが、パラノイアが発病する所以は、かれとの同一化に失敗したからであろう。ここで問題なのは、ルシーニョのようなパラノイア患者の場合、復讐と自己処罰とが複雑に絡み合っていることである。つまり、暗殺という復讐では、自己の惨めな現実に直面し目を覚ますことができないのだ。それでオルフェの彼女に手を出し、殺し(復讐)、殺される(自己処罰)。ラカンのいう復讐と自己処罰のメカニズムは非常に難解であるが、簡単に紹介すると、「性的マゾヒズムerogene Masochismus(ルシーニョのもつ原初的マゾヒズム)」と「兄弟コンプレックスGeschwisterkomplex(オルフェに対する敵対視)」とが結合することで、あらわれるらしい。ところで、人が己自身のまとまりを持った全体像を外部の心像に求め、この像を自分と取り違えて狂おしくその主人性を競うというのは、人間誰しもの本性に宿る、人にとっては逃れえぬ根源的な事態ともいえるものである。わたしは、決してラカン主義者ではないので、最後はくり返し、バフチンを引用したいとおもいます。「モノとしての鏡ではなく、他者としての鏡である。」
Hanchun Lim - 02/08/08 11:22:19
電子メールアドレス:nitobe1@yahoo.co.jp
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わたしの短い履歴ですが、7年前、東京日本語学校に入り、布施さんのような先生に平仮名や片仮名を教われ、今日にいたっているわけです。日本語教育の実践現場に立っている先生たちが布施さんみたいな考え(懐疑)をお持ちなら、マジ(生きたことば?)こころ強い。ひとつだけつけ加えていただきますと、敗戦により、朝鮮・台湾・沖縄・東南アジアなどにおける「皇民化政策」が〈他律的〉に断絶させられて一応植民地下の日本語教育は終わりを告げる(むろん沖縄は除いて)。が、そこを自己反省的にとることもなく、国際交流だの、異文化交流だのといった形で新たなパラダイムに乗っかっているのではないでしょうか。国際交流や異文化交流ということばが持つ、ある種すべてを隠蔽してしまうような部分をこれから考えていかない限り、いつまで経ても、あるいは布施さんのように現場で一生懸命教える人がたくさん居ても、日本語というのは英語・フランス語・ドイツ語に比べてアンビヴァレントな価値しか与えられない情況は変わらないとおもいます。ピュアなものとしての共同体や単一体としての日本語をずらして行っているのが、リービ秀雄とか梁石日とか金石範とかで、最近流行のことばでいいますと、「自分のなかの他者性に目覚め」ろ!と語りかけているようなものかな。むりやりつなげるようですが、「オルフェ」におけるあのミエミエの鏡の使い方も、けっきょくそうゆうことではないでしょうか。
對馬千恵 - 02/08/07 20:10:41
電子メールアドレス:015807B@edu.sapporo-u.ac.jp
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カルロス・ヂエギス監督の「オルフェ」の上映を終えて。
原作の戯曲により忠実なこの映画は様々な要素が盛りだくさんに盛り込まれていて、さぞ作り手は大変だったとおもわれます。オルフェとギャングのボス・ルシーニョの争い、息子を奪う女・ユリディスを罵るオルフェの母。印象的だったのは、崖の使い方でした。「黒い・・」のほうは崖の下はあまり描かれませんでしたが、こちらのほうは、実際に崖が彼らにとってどんな存在か現実的かつ象徴的に描かれていたと思います。そして、鏡の存在。「あなたが好きなのはあなた自身よ」と語られる終幕の意味とは?ジャン・コクトーの「オルフェ」(1950年)にも鏡は重要なアイテムとして登場します。
よりブラジル的なものを求めた映画に、よりキリスト教的なものを見てしまったと思うのは何故なのだろうか?
今はすべて断片でしかないこの映画を、みなさんはどのように繋ぎ合わせたのでしょうか。来週会えることを楽しみにしています。
布施 倫英 - 02/08/07 18:47:50
電子メールアドレス:015810B@edu.sapporo-u.ac.jp
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林くんが、元ちとせの歌へのコメントの中で感じ取ったことを、私は日本語教育の中で考えてきました。日本語教育にたずさわる者として、「正しく美しい日本語」を伝えなければならないとしたら、それはいったい何なのか。そもそも「正しく美しい日本語」というものは存在するのかどうか。「正しく美しい日本語」が存在するという幻想は、日本語学習者が教科書の中の日本語をそのまま日常の生活において用いた時に、教科書の言葉と生きた言葉のずれからその幻想性を曝け出します。
また、林くんが指摘したように、かつて植民地時代に教育を受けた韓国人や台湾人が「美しい日本語を話す」ことに対して「日本人」が抱く驚きは、「日本語」は「日本人」として生まれた者たちの独占所有物であるという意識が見え隠れしています。
そんな中で、単一体としての日本語、日本近代の一世紀を支配していた「言語=人種=文化=国籍」という「単一」のイデオロギーを破ろうとする試み、「越境」の試みが、人種や国籍という条件を持っていない日本語の表現者、例えばリービ英雄たちによって実行されつつあるのではないでしょうか。
Hanchun Lim - 02/08/05 14:20:08
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2日の夜、《芸術に恋して》というTV番組で、「元ちとせ特集」をやっていましたが、皆さんは御覧になったかな?イマヒトツというか、全体的な感想をいうとしたらそんなところでしょう。でぇ、ゲストのひとりが気になる発言をしていました。「彼女のうたは昔ながらの懐かしいニッポンのうたを思い出させる」。わたしはこのいかにもありそうで、また何気ないコメントに次のようなことを想起せざるを得なかった。観光か何かで旧植民地(韓国や台湾など)を訪れた日本人が、植民地時代に教育をうけた韓国人や台湾人に出あう。そういう場合によく聞くのは、ほんとうに「きれい」あるいは「美しい」かつての日本語をよくしゃべりますね、というふうに驚いて、「いまの若い人は、全く日本語がなってない」ということであります。このように無自覚(日本語とアジアとの関わりを考えることもなく)に語る人たちのなかには、日本語は単一体としてしか存在せず、ナショナルなものとして一括りにされているらしい。ピュアなものとして想定された共同体を形成していくうえに、破れがあったり、差異があったりするものは「日本語ではない」「日本人ではない」「日本国民ではない(非国民)」というふうに否定されつづけてきたが、いま必要なのは、単一体としての日本語をなんとかずらしていくということではないでしょうか。番組では、奄美の島うたが本州や沖縄のそれといかに違うかを説明しながらも、結局、元ちとせのうたは美しきニッポンのうたとして賛美されてしまうんですね。
對馬千恵 - 02/08/03 20:58:19
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先日、わかりにくい文章を書いてしまったので、その補足です。
恐らく、「男と女」の物語ではなくて、「所有」について、私は言いたかったのだと思います。エウリディケは誰のものなのか?オルフェは・・また、愛とは所有するものなのか?少なくとも、「放擲」とは離れていく、「所有」の物語であったと、言いたかったのかもしれません。そして(くどいようですがBorderlandsホームページの)吉成君が提起した問題から、「沖縄は誰のものなのか?」と考えたのです。限りあるものを所有し始めた時、「終わり」が始まって・・だから地球のエネルギーが無くなってきたのかなと思ったのです。私たちに必要なのは「所有」の物語ではなく、「放擲」の物語のような気がします。
神話の「オルフェ」に鍵が隠されている、というのはそういうことなのです。
對馬千恵 - 02/08/01 20:25:54
電子メールアドレス:015807B@edu.sapporo-u.ac.jp
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7月30日、今福先生の研究室で上映したマルセル・カミュ監督「黒いオルフェ」の観賞を終えて・・・。 その後のディスカッションの時、気付いた点がありました。あまり誠実とは言えないオルフェの女性との交遊です。まるで、ゼウスの神話の誕生のような交遊。
オルフェの婚約者ミラの嫉妬に狂った行動は、けして在りえない行動ではないのではないでしょうか?彼女が禍禍しく描かれるとき、エウリディケが可憐に描かれるとき、私にはそこに、男性の作り手の目が見え隠れするのです。そしてそれは、神話との大きな隔たりを感じさせます。男と女という前に、オルフェウスの神話には「生と死」を追体験させる何かがある。別のホームページの話で申し訳ないのですが、沖縄・久高島での体験を書いてくれた中村さんの文章の中に「地球のエネルギーが弱くなってきている」ということが書かれています。確信ではないのですが、オルフェウスの神話の中に、何かその鍵があるのではないかと思いました。引き続きカルロス・ジエギス監督「オルフェ」の上映会も8月5日に行ないます。お楽しみに。
(別のHPとは!我々が発行しているBorderlands+のです。このMangroveclub2のトップページにリンクがあるので、中村さんの文章だけでも読んで頂きたいな。)
Ryuta Imafuku - 02/07/21 11:47:10
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光州の街を徘徊する針生一郎を、「パサージュ論」におけるベンヤミンの「遊歩」に見立てる林くんの想像力は刺激的。ですが、そこまでならまだ誰にでも可能です。しかし林くんが、「パサージュ論」の革命に関する一節の「パリ」を「光州」に書き換えようとするとき、固有の想像力の飛躍がなしとげられます。歴史に実現されなかった集団の夢を都市の風景に拾い集めるベンヤミンの予知能力が、韓国の現在にとって有効であることが、そのとき判明するのです。ベンヤミンの『パサージュ論』の刺激的な解読を含む本がちょうど刊行されました。多木浩二『もし世界の声が聴こえたら』(青土社)です。このなかの「都市の経験」という章に収められた4編の文章は、かぎりない示唆をもって私たちの「現在」に迫ります。後期のテクストにしてもいいような本。ぜひ夏休み中の読書リストの筆頭に。
Hanchun Lim - 02/07/19 11:54:01
電子メールアドレス:nitobe1@yahoo.co.jp
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影山君たちに、授業(?)の模様を録音したMDを貸してもらい、二回ほど繰り返して聴講しました。あとから、現場では先生のパフォーマンスという附録がついていたということをきいて、とても残念だとおもいましたが…。
映画「日本心中」において、針生一郎という遊歩者のプロムナードとなっていたのは光洲(クワンジュ)という新たなる「約束の地」でありました。針生さんがただただその約束の地を「歩く人」ではなく、「遊歩者」になれたのは、光州が「ただひたすら生活だけから構成されているような一つの風景」である所以だろう。また、その地が針生さんのこころをとらえた魅力とは、「広大な風景、もっと厳密にいえば、火山地帯の風景に特有であるような種類の美しさが働いて」おり、「いまにも噴き出しそうな危険な深成岩塊があ」り「活動しつづける革命の坩堝がある」からに相違ないとおもいます。
光州の町を徘徊する遊歩者にとって、夢のなかにその町がそっくり入り込んでくるのは、いくらみすぼらしい街路でも内に秘める「風景」を連想せしめるからかもしれない。きょうは、その秘めた「風景」なるものの一部をこの場を借りて、紹介したいとおもいます。
光州は、韓国全羅南道の都市。日本植民地時代には、植民地的な農業開発の拠点となる。近代的な労働者の育成が進められる一方、民族意識が芽生え、1929年11月には、全国的な反日運動の導火線となった光州学生運動が発生する。〈植民地奴隷教育制度撤廃〉を揚げた学生デモは各地に広がり、翌年3月までに194校、約6万人が参加するが、官憲は弾圧をつづける。
独立後、光州に対する産業開発上の冷遇は、市民の不満をかう。1980年5月18日、全斗煥らによる軍事クーデタをきっかけに、いわゆる光州事件が起こる。光州市民と戒厳軍との対峙は、5月27日鎮圧されるまでつづき、その間の死者の数については、2000名ともそれ以上ともいわれる。光州事件の結果、国民に銃を向けた国軍と、軍の移動に許可を与えた在韓米軍に対する国民の認識が変化した。⇒『光州5月民衆抗争の記録』参照。(ちなみに、わたしの嫁さんの生まれ育った故郷でもあります。)
「ヴェスヴィオ火山の山腹がこのうえなくすばらしい果樹園となりえたのはその山腹を
覆う溶岩のためであったのだが、それと同様に、光州でも、革命という溶岩の上に、その他のどこにも見られないような芸術と生活とモードが咲き誇っている。」[C1,6](パリという地名を新しき「約束の地」に書き換え)
久野 志乃 - 02/07/03 15:59:00
電子メールアドレス:sweets91@mac.com
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望月さんの書き込みを読んで、やはりカルト教団事件を扱った是枝裕和監督の「ディスタンス」を思い出しました。これはドキュメンタリーではなく、サリンとかオウム真理教といった固有名詞は全くでてこないのですが、事件の記憶が薄れてきた今、あの事件はなんだったのかをカルト教団の起こした事件の実行犯の家族達という視点からみつめたものでした。そこで語られる言葉は、やはり、社会的にいう善・悪では置き換えられない何かがあったと感じます。「日本心中」の監督である大浦信行氏の「遠近をこえて」という美術作品をめぐる問題は、善・悪、正しい・正しくない、快・不快、といったカテゴリーの区分線を権力が操ることの怖さを如実に暴いているように思います。(86年に富山県立美術館で発表されたこの作品は、天皇の肖像写真と女性のヌード、骸骨、入れ墨などが交錯した不快な作品であると県議会によって批判され、作品は非公開、図録の掲載ページも破棄された。反対運動などにより一時公開に踏み切るが、公開当日右翼によって破られ実質的には閲覧不可能のままである)
アートにおける検閲は、もちろん日本の天皇制に限らず各地で起こっていて、大浦氏の裁判と同じ時期にラテンアメリカ出身のアーティスト、アンドレス・セラーノの作品(作家自身の尿にキリスト像が浸っている写真)もキリスト教に対する冒涜だとされ、検閲のターゲットとなったことはよく取り上げられる事件です。キリスト教が支配的な宗教の位置にあるアメリカ社会の価値観のなかで、カソリシズムと貧困との間になんらか闘争があると直感したセラーノのテーマ性は、文化や背景は違っても大浦氏の作品と通じるものを感じます。こういった事実に対し、無関心でいることもできると思いますが、そうはありたくない。針生一郎氏のように丸ごと抱え込んでしまうことはできなくても、今の自分にも何か方法があるはずだと考えます。なんだかまとまらなくてすみません・・・。また書き込みます!
望月里美 - 02/06/26 03:42:49
電子メールアドレス:HZS07107@nifty.ne.jp
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日・月とシアターキノで、森達也監督の『A』と『A2』を見て来ました。ご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんが、両作ともサリン事件後のオウム真理教(現アレフ)の内部にカメラを持ち込んだドキュメンタリーです。『A』では破防法棄却の頃までを主に荒木広報副部長に焦点を当て撮影しています。サリン事件後も松本被告に帰依するという信者や、嘘をついて無理に撮影しようとしたり、他局間でいがみ合うマスコミ、(信者を)自分で押し倒したのにも関わらず倒されたと称し足を怪我した真似までして、信者を公務執行妨害で不当逮捕する警察などが映しだされています。『A2』は『A』から3年ほど経て再び撮影されたものです。信者達、マスコミ、警察、右翼、反オウムの住民達など、多数の人物が登場しますが、その中で最も印象に残ったのは、反オウムの住民運動が激化する一方で、信者達と不思議な交流をする住民達の存在です。彼らは当初信者達を怖れ憎み監視していた筈が、個人としての信者達に触れることで憎しみを持続できなくなります。彼らの中でオウムをいわゆる「悪」とみなす構図が揺らいだのでしょう。和やかに談笑する住民達と信者達。その様子を撮影しても決して報道することのないメディア。この映画は監督自身が「コメディ」と言うように、コミカルな場面が多々ありますが、やはり観る者に課題を突きつけます。「今サリンを撒けと言われたら撒きますよ」と答える信者、自分の目で見た事実より自社の方針という大きな流れに飲み込まれざるを得ないマスコミ、「正義」の名のもとに不正な行為をする警察。ここで映し出される大きな流れや組織に組み込まれた人間の怖さは、5月に観た『日本鬼子リーベンクイズ』で感じた怖さを彷彿とさせます。『リーベンクイズ』は松井稔監督によるドキュメンタリーで、98年から2000年にかけて撮影されたものです。14人の元日本軍の兵士が、満州事変から敗戦までの日中15年戦争における中国での自らの加害行為を語っています。穏やかそうな老人達が詳細に語る殺戮、拷問、虐殺、生体解剖、強姦、人肉食などの話は壮絶です。監督自身この映画について「この映画を見て、『これでもか、これでもかの残虐な話に不快になった。今更自分の国の恥部を暴いて何になるんだ』と言う人がいた。しかし、この映画は歴史の、人間の真実である。私達は未来のために、戦争の実態、組織の歯車となった人間の狂気と弱さ(これは平和な現在にも存在する)を知らなければならない。残虐な加害者達は、戦争に行く前はごく普通の平凡な人達であった。彼らは私であり、貴方でもある」とコメントしているように、大きな流れや組織に組み込まれ流されていく人間の怖さを感じました。彼らは敗戦後シベリアに抑留され5年間強制労働に科せられた後、中国の戦犯管理所に引き渡されます。厳罰を覚悟していたものの、周恩来の「戦犯とても人間である。その人格を尊重せよ」という主導により、戦犯管理所で人道的な処遇のもと6年過ごし、自分達の罪を自覚し、中国に謝罪して帰国した彼らを待っていたのは、「もはや戦後ではない」とうたった日本でした。「中共帰りの洗脳組」というレッテルを貼られ、公安、警察から監視され、就職などでも差別されながらも自らの加害行為を語りつづける、という彼らの人生を思うと言葉を失います(映画では出てきませんが、彼らが語る加害行為は自虐的歴史観を導くとして非難し、彼らは中国で洗脳されたとみなし、彼らが語るような加害行為はなかったという人もいます)。『リーベンクイズ』でみられる大きな流れや組織に組み込まれた人間の怖さ(とりわけそこに真があると思っている人たちにより強く感じる怖さ)は、『A・A2』のオウム信者や、反オウムの住民運動家達、マスコミ、警察に感じる怖さとリンクします。それはまた、昨年のテロ事件や、その報復に自らに正義があるとしてアフガンに空爆を続けるアメリカの怖さとも同質のもののように思えます。しかし、見たものを・事実を伝える報道関係者、誠実に職務を果たす警察、アフガンの空爆に反意を示すアメリカ人がいることもまた事実でしょう。事実は断片的で幾重にも層を成しているのなら、社会はいわゆる「善」・「悪」の二元論に還元できず、それを還元しようとするところに「怖さ」が生じるのかもしれません。だからこそ、サッカーの書き込みにあったように「日本はロシアをやぶった」というような表現に敏感でありたいと思いました。長々とすみません。(『A2』はシアターキノで29日から7月5日にも上映予定だそうです)
kageyama makoto - 02/06/21 18:13:40
電子メールアドレス:bocoche@hotmail.com
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「日本はロシアをやぶった」は、よく考えたらおかしな表現ですね。でも2002ワールドカップの年に札幌で生活をしていると、何となくその意味は分かります。それに、
言われなければ何の疑問も持たなかったかもしれません。しかしこういったマスコミ等の表現に慣れきってるぼくですが、時々海外とかのプレスの見出しに同様なことが書かれているのを見ると、やはり少しどきっとします。何か危うさのようなものを感じます。国家間で何かやばいことでもあったの??っていうのが誰にでも共有できる解釈ですもんね。しかし「日本はロシアを敗った(日本はロシアを〜じゃなくても、例えば先日のドイツはパラグアイを〜でもいいのですが)」という言葉のメッセージだけではなく、それ以前に試合内容自体から出ているメッセージはどうでしょう?それにFIFA WORLDCUP KOREA/JAPANから出ているメッセージとは?それを考えると、この「日本はロシアを〜」は結構的確なんじゃないかな、とも思えてきます。言葉同様、スポーツの力も良くも悪くも恐るべき威力がありますね。
Fuse Rie - 02/06/20 14:09:05
電子メールアドレス:015810B@edu.sapporo-u.ac.jp
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表象文化論の授業に参加していないのですが、影山くんに勧められてこのホームページに辿り着きました。林くんがワールドカップのことについて取り上げていたので、引き続き・・・・・。先日ある授業で、サッカー日本対ロシア戦の翌日の新聞記事内容に取り上げられました。(何人かの方は、授業に出席していたので知っていますね?)「日本はロシアをやぶった」。事実を正しく表現すれば、「日本代表サッカーチームはロシア代表サッカーチームをやぶった」ということになるはずです。「日本代表チーム」が「日本」と表現されることに、みなさんはどういう意見を持ちますか?言葉の力とは、良くも悪くも恐るべき威力を持っていると思います。
今福龍太 - 02/06/18 11:51:05
電子メールアドレス:volcano@ta2.so-net.ne.jp
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ブラジルのサッカーがなぜ面白いか。それは、簡潔に言ってしまえばカーニバル的だからである。勝敗原理や効率性、努力や因果といった日常の現実に対し、別種の現実を生きる可能性を示しているからである。ところが「華はあるが、不安だらけ」。これがブラジルチームへの一般の評価である。メディアもコメンテーターも守備の不安を言い立て、組織の欠落を問題視する。だが「勝つ」ことへの抑圧さえとりはらってしまえば、そのような「不安」を感じる強迫観念は不要となる。サッカーの陶酔的な遊戯性だけが輝かしく浮上する。ヨーロッパ的組織サッカーに対して、これほどカーニバル的なサッカーのヴィジョンを突きつけたことは、近年のワールドカップ史上なかったのではないか。林くんが見て取ったとおり、あまりにも結果優先型の戦術サッカーが大手を振ってまかりとおることに幻滅しつつ、だからこそ、ブラジル的なサッカーを断固として支持するためにテンションを上げざるを得ないのです。(詳しくは、『サッカー批評』誌に連載してきた私の一連の論考のなかの、「カーニバル、賭博、あるいはブラジルのホモ・ルーデンス」(2001年
11号)などを参照してください)
Hanchun Lim - 02/06/17 15:42:14
電子メールアドレス:nitobe1@yahoo.co.jp
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初書き込みです。前回の授業はサッカーの話で、さすが今福先生のテンションは高いとも低いとも何とも表現できないものでありましたけども、(個人的には、ひじょうにおもしろかったですが…)。サッカーW杯は、サッカーの祭典ともいわれていますが、それ故に文字通り「カーニバル」として皆に体験されるべきでしょう。最近読んでいる本のなかで、バフチンのラブレー論には、そのカーニバルについてこう記しています。少々長文になりますが、省略せずに紹介しますと「カーニバルは演技者と観客の間の区別を知らない。フットライトというものを知らない。フットライトをあてれば、カーニバルを破壊してしまうだろう。(これとは反対にフットライトがなければ、演劇・見世物はめちゃめちゃになってしまうだろう、カーニバルはただじっと観ているものではない。―その中で生活をするのである。すべての人が生活するのである。なぜならそのイデーにおいてカーニバルは全民衆的なものだからである。カーニバルが行なわれている時には、カーニバルの法律、つまりカーニバル的自由の法によってのみ生活できるのである。カーニバルは、全世界的性格を有する。全世界の特殊な状態、世界の復活と更新であって、すべての人がそれに加わるのである。このようなものがカーニバルのイデーであり、本質であって、それに加わる者すべてにこのことが生き生きと感じられていたのである。」
Tomoko Fukushima - 02/06/02 00:40:29
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やっとページにたどりつきました。書き込みしますといっておきながら、アドレスを教えてもらうのを忘れていて、見つけだすのにとっても時間がかかってしまいました。沖縄・奄美では皆々様にたいへんお世話になり、本当にありがとうございました。徐々に気力・体力・食欲ともに回復しつつあります。今日は、妹に連れられて米子市にある面白い本屋さんに行ってまいりました。かなりマニアックな本屋で、山口先生の本が文化人類学の棚に一冊もなく、別の棚に中沢新一さんと今福先生の本とまとめて置いてありました。しかし、返品不可能そうな本がたくさんあって、この本屋の経営のことが少し心配になりました(余計なお世話ですが)。今度は、財布をあたたかくしてじっくり見に行こうと思っています。以上、米子からでした。
對馬千恵 - 02/05/27 20:48:20
電子メールアドレス:015807B@edu.sapporo-u.ac.jp
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ただいま、と最初に誰に言ったかもう覚えていない。24日に奄美から帰国(!)した對馬です。
那覇で、奄美名産?黒糖焼酎を買おうとしたら、「置いてません」と言われました。あれは、奄美(鹿児島県)のお酒ですから・・・。 知識が体験となった一瞬でした。(物知らずなだけ?)奄美自由大学って終始こんな感じです。
帰ってきて嬉しかったこと。一緒に参加した人に、再び札幌で会うと、お互い、思わず笑みがこぼれること。何故なんでしょうね?行って帰ってきた人の楽しみです。仲間は多いほどいい!離れているほど面白い!
吉成秀夫 - 02/05/22 16:01:49
電子メールアドレス:cdx24630@par.odn.ne.jp
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悔やまれながらもあとにした南島から札幌に帰ってくると、なんとシアターキノが名作『苺とチョコレート』の監督作品『バスを待ちながら』を24日まで上映していました。明日にでも見に行こうと思っています。奄美、沖縄から北海道へ、そして明日キューバへと接続されるぼくの経験はいまだ旅の途上にいるような感覚です。昨日(21日)は岡本太郎「透明な目/青空」という文章に深く共感しました。本を読むのもまた旅か。
管啓次郎 - 02/05/21 00:07:28
電子メールアドレス:coyote@cafecreole.net
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ほんの55時間ばかりの時間、あれだけ濃密な刻を生きたことは珍しかった、ぼくの人生では! 濃密、でもあわただしくもなく、空白と無音にみちて、ゆるやかに、ゆるやかに。Borderlandsのすばらしい出来映えに感動し、そこにいたみんなのシュワシュワとした雰囲気に、こっちも明るい気持ちになった。でいごの花に救われ、黒い雲をまとった月に救われ、夜の海峡に救われ、奇跡的に現れてまとわりつく子犬に救われた。みんなのヴィジョンが、それぞれの葉や花のかたちをして、いっしょになり、したたるような緑の島影を作っていた。また会おう、どこかで! こんどはみんなで、舟から飛び込も
う! ありがとう。
吉成秀夫 - 02/05/20 21:55:07
電子メールアドレス:cdx24630@par.odn.ne.jp
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こんにちは。一足早く札幌入りしたよしなりです。ぼくは11日に沖縄へ行き、16日から18日までを奄美ですごし、沖縄経由で今日の20日に戻りました。夢のような日々でした。奄美でははしゃぎすぎて多くの人に迷惑をおかけしました。沖縄のノリをひきずってのことですが、奄美を感じ始めたころに帰らなくてはならなくなり、航海もとい後悔しています。奄美には沖縄とは別のなにか独特の「綾」があると感じはじめたところだったのですが。。。次回への課題です。最高の旅でした。いろいろな人と出会い、別れたそれぞれが、最高でした。
Ryuta Imafuku - 02/05/11 14:49:47
電子メールアドレス:volcano@ta2.so-net.ne.jp
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「Mangroveclub 2」と名づけて、大学院文化学研究科「表象文化論」のメンバー用のウェブサイトおよび掲示板をここに開設しました。なぜマングローヴ・クラブなのかは、おいおい了解されるだろうと思います。なにより、このバーチャル・ゼミの場が、現実のゼミ以上に活発で熱いディスカッションの場となるよう、期待します。ここでは主に、演習で扱ったさまざまなテーマや話題を違う角度から検討し、議論をさらに深めていくことを主眼に置きたいと思います。もちろん、日常の社会や世界情勢を受けてのコメントも歓迎します。eDebate と名乗っている通り、たんなる連絡や無内容のチャッティングの場ではないことを忘れないでください。私は14日より25日まで、奄美・沖縄方面に出かけますが、可能なかぎり現地から「自由大学」の様子など報告します。ゼミのメンバー諸君も、いつ、どこにいても、ここには自由に書き込めます。場所に縛られない緩やかで接続的なコミュニケーションの共同体・共鳴体として 「Mangroveclub 2」を活用してください。