

吉成秀夫 - 03/08/06 00:31:40
電子メールアドレス:cdx24630@par.odn.ne.jp
コメント:
多木先生の惜しげもない学生への言葉に感動しています。
吉成秀夫 - 03/08/06 00:30:25
コメント:
吉成秀夫 - 03/07/09 22:58:12
電子メールアドレス:cdx24630@par.odn.ne.jp
コメント:
リムくんがBBSにのせてというので、恥ずかしながらぼくらのバンドのホームページアドレスをのせます。デザインしてくれているのは今日の講義にも出席していた後藤キョータダ君です。http://ogrosso.tripod.co.jp
吉成秀夫 - 03/07/08 21:54:29
電子メールアドレス:cdx24630@par.odn.ne.jp
コメント:
リムさま、反応ありがとう!リムさまが現代のベンヤミンと韓国に行ったときの報告以来ずっとコレスポンダンス(交感)の地平で自分自身を揺らしながら思考を練っている様子をこちらのBBSで目撃するたびに、たいへんなことをしているなーと尊敬しています。多木さんの本はいまになって必死になって読んでいます。『写真論集成』も現在熟読中ですが本当におもしろいですね!これをすぎたら趣向を変えてキャプテン・クックについて多木さんが書いた本を読んでみたいと思っています。では明日。
Hanchun Lim - 03/07/05 14:14:01
電子メールアドレス:nitobe1@yahoo.co.jp
コメント:
ヨシナリさまも言っていますが、多木さんの本はわたしもおすすめです(もちろん2冊共)。札幌にいらっしゃることをすごく楽しみにしています。
吉成秀夫 - 03/07/04 17:19:16
電子メールアドレス:cdx24630@par.odn.ne.jp
コメント:
ごめんなさい。質問が不十分でした。それ以前に日本人ってどんな生き物でしょうか?最近年金や健康保険で頭を悩ませられてて、留学生の友だちにそのことを話したところ留学生の方がもっと理不尽な取られ方をしているようで、日本国家ってシステムはなんて不寛容なんだ!って思ったばかりでした。ウチナーンチュやアイヌの人たちや在日の人たち、けっしてそれらの人たちもひとくくりにはできないんですが、たとえばそんな人たちに想像力をもたない人が日本人代表みたいな顔してタイタンよろしく威張ってるのをみるとすごい不快感を覚えますね。「日本文化」として括られているひとつの趣味のありかたは個人的には好きなんですけど。また、アジアという地勢をどのようにとらえているのかというのも興味深いです。自分はエドゥアール・グリッサンという人の著作から「カリブ」という地勢に一種の憧れをいだく者ですので。ところで小林よしのりをSAMさんはどんなふうにクリティカルに読んでいますか?ぼくも小林よしのりには批判的なので。。。それと同じ本の題名でも今度札大にいらっしゃる多木浩二さんの『戦争論』(岩波新書・赤1999)はすっごく面白いです。これははちゃめちゃ面白い!ぜひ読んでみてください!そして語りましょう!ところで先日の講義のなかで僕はいちじるしく議論を混乱させてしまったのですが、あとから考えてみると僕は暴力と去勢を履き違えていたのかなと思い至りました。ここで言う去勢は人をある枠のなかに押し込めて思考を限定してしまう力学といったような意味です。ラカンを真剣に学ばれている方がたには紛らわしい言葉を使うな!って怒られそうですが、他の言葉が出てこなかったので。。。一方、暴力はその枠組み自体を破壊するようなもので、東松照明(本名?マン・レイよりすごいな)の写真を見てなにかが暴露されていると感じるとき、自分がそれまでの世界地図を捨て、新しい世界地図を持って航海に出帆するかのような(ロマンティックすぎ?)気になります。暴露、これはクリティカルでクリエイティヴな表象の一つだと思うのです。さて、もう一つ昨日議論を混乱させていた要素として「笑う」という行為を軽率に出してしまったことがあると思います。笑いって最近グロテスクだなって思うのですが、ほんとこれだけ多義的な記号もないですよね。ペシミスティックな笑いも破壊的な笑いもダイナミックな笑いも全部笑いですものね。笑うの好きですけど。ダイアナ妃の件ですが、僕が前にパリに行ったとき、そのトンネルを通ってきました。もちろん僕がパパラッチャーに追われていなかったのは言うまでもありません。シティーオブゴッドでも文字の読めないキッズたちが新聞の報道写真に強い力を感じとってから、争いがメディア的なものに少し移行します。多木さんが『写真論集成』のまえがきの中で写真という表象について「それはたんなる表現という以上に、社会を変え、われわれの知覚や認識を変えるものであった。生産され流通する写真の全体が、人間の社会にとっていかなる作用をもつかが問題であり続けた。」といい、スーザン・ソンタグが『写真論』で「一枚の写真はたんに写真家がひとつの事件に遭遇した結果なのではない。写真を撮ること自体がひとつの事件であり、しかもつねに起こっていることに干渉したり、侵したり、無視したりする絶対的権利をもったものなのである。」(p.18)というとき、写真をもはやなにか客観的な証拠品として愛でているわけにはいかなくなります。写真は生きている。生きられた写真。まずそう言ってみてから、これから表象を考えていくことにしてみたいと思います。東松照明の長崎病院内での写真が頭から離れません。あのジオラマ地図のような写真を撮ったこと、壜のミニマムな群れと拮抗する英字新聞、それを僕らが見ること、こちらもあがりのないスゴロクのつもりでダイスに揺られながらながい時間のかたわらを遊歩しようと思っています。それにしても来週までの課題、始まりの音とか映像、これはむずかしいですね!
吉成秀夫 - 03/07/04 14:57:52
電子メールアドレス:cdx24630@par.odn.ne.jp
コメント:
SAMさんに質問です。アジア人ってどんな生き物ですか?
SAM - 03/07/04 11:19:30
電子メールアドレス:035806B@edu.sapporo-u.ac.jp
コメント:
空カキコしてしまいました。申し訳ありません。
LOGをROMさせていただきました。
概して、「日本人」は自分のことを「アジア人」だとは認識していないし、戦前の出来事はどこかの他人が行った行為であるかのように認識しているようです。
韓国のごく一部の方々が、未だに日本人にたいして友好的でない姿勢をとりたがる理由を知りもせず、「日韓(いや、韓・日の表記のほうが正確だ!)ワールドカップ、バンザイ!」と手放しで喜んでいる「日本人」は「日本人」ではないと思う。(バンザイ! の意味を学べ!)
一方で、今、メイド・イン・タイワンの製品が多い理由を知らない「日本人」も同様だ。
先日の授業の中でも少し、触れましたが、小林よしのり氏の「戦争論」と「戦争論2」は、屈折した表現が顕著に見られますが、文脈に対してクリティカルに読めば参考になることが多いと思います。
右翼も左翼もどうでもいいです。でも、有事法制に対するマスコミと社民党の(視聴者への)洗脳的反応はどうかと思います。
最後に、(単純な文字列の意味としてではなく、)
「私は戦争には反対です。」と言いたいです。
SAM - 03/07/04 11:03:44
電子メールアドレス:035806B@edu.sapporo-u.ac.jp
コメント:
吉成秀夫 - 03/07/02 11:56:30
電子メールアドレス:cdx24630@par.odn.ne.jp
コメント:
今日のクラスはまた別のテーマがでてくると思うので僕もいまのうちに感想を。上映の前の週に今福先生が「ブラジルは映画が上手になってしまった。暴力的な映像をとるのはうまくなったけど、そのぶん映像の暴力性が失われた」と言っていたことがずっと気になって一週間がすぎ、かくしてシティー・オブ・ゴッドを見たわけですが、今福先生の言ったことに深く納得するある意味で残念な印象です。話のスジはよくわかるんだけど、暴力が平板というか。既に知ってる暴力というか。映像がそのまま自分に襲いかかってくるような暴力的なショックを味わうことがありませんでした。ブニュエルの例えば「忘れられた人々」を見ると犬に襲いかかられ、頭をがつんと殴られるような気になるのですが。。。自分をとりまいてる日常のほうがよっぽど暴力的です(辛口評)。
maeno - 03/07/02 10:10:21
電子メールアドレス:aska224notatall@hotmail.com
コメント:
最初の始まってから、音楽が特徴的でブラジルの音楽(陽気な音楽)という感じがし
た。場面が現在の日常のところからはじまり、最後になりやっと納得できた。ずっと
気になって見ていたので、現在から過去そして現在に戻る方法を用いていると思い、
「黄泉がえり」の映画と始まり方が似ていると感じた。場面の展開が早く、今まで見
たものの中でテンポがよかったと思い。日常生活にある、暴力と支配者とドラックの
中から、カメラマンになる夢をずっと追い求めていたブスカペは偶然から夢を叶え
る。神の街で子供だったリトル・ゼは一番になりたいと人を平気で殺していくシーン
があり、最後には子供達が大人になったリトル・ゼを殺すのは衝撃的で、これが続い
ていくのが現実と思わされた。暴力と力の世界だったが、一時リトル・ゼがドッラク
を売り安定した神の街を作り、国、政府がどうにかしようともできない、もしくは、
しようともしないのだろうと思う。ドッラクで安定したものはいいとはいえないが、
悪いともいえないということができる。
Hanchun Lim - 03/06/26 17:55:34
電子メールアドレス:nitobe1@yahoo.co.jp
コメント:
『シティ・オブ・ゴッド』を日本で見るということ。つまり、地球の正反対にあるブラジルという他者に対してその他者を表象するもう一つのフレームを作ってしまう、いや、というよりすでに存在する(貧困やバイオレンスといった)フレームをこのフィルムを通して再確認し、それでまた「日本の平和や繁栄」に感謝し、安心するということではないでしょうか。(日本における『シティ』の宣伝広告をみると、やたらと《実話》に基づいていることを強調している。)さて、「リンチ」まがいのイラク戦争で、アルジャジーラの存在が衝撃的だったのはこの報道機関において他者はイラクではなく西欧諸国を他者として表象していたことでした。よく知られていることですが、西欧あるいはその他の諸国が日本を表象するときに用いられるのは、未だにチョンマゲや刀であります。たとえば、アフリカの某国のCMを見たことがあります。その広告で日本を表象するとき、画面には富士山と美しい女性が描かれていましたが、その女性が着ていたのは何と着物ではなくチマジョゴリでした。世界を単数形に還元することなく、その複数性を認知するために、まずメディアのアカウンタビリティ(説明責任)を考慮する必要があると思います。(またこのフィルムにおいてもメディアの問題がいろいろ提示されていると思います。)ところで、国家の住宅政策によって建設された振興住宅地の「神のまち」はその名からも分かるようにはじめに人びとはそこにある種の「ユートピア」=「ここにはない場所」を夢見ていたに違いありません。しかし、スラム化が進み、暴力性によっていずれかこのユートピアはまた新たなユートピアを求め再開発の運命に辿るでしょう。重要なのは、中央政府主導の住宅政策だの再開発だのというものによるジェントリフィケーションには常に暴力や新たな貧困が伴うということです。最近、六本木や汐留など東京再開発のことがしばしば話題になったりしますが、もしジャン・ヌーヴェルの設計した汐留の電通新社屋の地下街でホームレスをテレビ・カメラが映したとしましょう(これは私の《実話》です)。われわれにとってもう一つのこの「他者」たちはいかに表象されて、またいかなる眼差しで見られるでしょうか?
035806Bsamukawa - 03/06/18 15:45:43
電子メールアドレス:035806Bedu.sapporo-u.ac.jp
コメント:
力で制された「神の街」は、某合衆国が武力によって世界を掌握していることのメタファーとして感じられた。
この映画の世界観は、力による正義には否定的であるように思われた。
世間では、映画といえばフランスやハリウッドの映画のように思われがちだが、邦画好きな私にとっては、マトリックス・リローデッドよりも、「神の街」のほうが興味深かった。
バスのもぎりをしていた真面目な青年が、自分は悪者ではないと主張しながらも、結局はリトル・ゼとの抗争のなかで「悪者」になってしまっていたことは、自分に教訓じみたものを与えてくれた。
最初は「正義」でも、その「正義」を維持・持続するために「悪」をおこなうならば、それもまた「悪」なのである。と。
戦争や紛争において、サイドAとサイドB、それぞれが自分の「正義」を貫こうとしているのだから、「正義」も「悪」もない。
間違った考えだが、「正義」がない現状で、某合衆国がある意味「悪者」になって「正義」を貫いてくれているのは、同盟国日本の国民にとっては、本当の意味ではないにせよ、「正義」なのかもしれない。
中井 二六(なかい じろう) - 03/06/17 14:24:40
電子メールアドレス:naka-ii@ymail.plala.or.jp
コメント:
” 神の街”の朝はなんとなく始まっていた。いつも
の様に、いつものとおりに。鶏をバラシしてオカズに
しようとするが、活きの良さから人間のエサになるま
いとして逃げ回る。その逃げた先が、20年前の同じ”
神の街”ーしかし、皆が若返って子供時代に戻っただ
けで、20年後の今と何も変わらない、澱んだ街なの
だ。住民は貧しさから抜け出すこともままならず、マ
リファナ・コカイン・ドラッグ・縄張り争い・警察と
のせめぎ合いのなかで何とか這い上がろうともがくの
だが、まともな職にも在り付けずこの街から逃げ出す
ことも出来ない。水道も電気もガスも供給されて居な
い、どん底の人間が巣くう街なのだ。10年経過してず
る賢さを体得し、街を裏から牛耳る才覚を身に着けて
も、取り巻く環境は相変わらず何一つ変わらない。
ブスカベは多感な年頃となり、恋にセックスにマリ
ファナに魅力を感じながら、カメラマンになる夢を追
う。リオ一番のギャングを目指すリトル・ゼとその相
棒で良き理解者でもあったべネは、愛を知り”神の
街”から足を洗い、田舎で彼女と平和に暮らす計画を
実行しようとする。正業を見つける努力を続けていた
が、リトル・ゼ一味に彼女をレイプされた挙句住まい
も飛び道具で蜂の巣にされ、復讐のためドラッグ・
ディラーのセヌーラと共闘するマネ。こうした若者の
周りでは、警官さえも私服を肥やす中血生臭い縄張り
争いの頻発で、混乱を極める異常な日常が繰り返され
て行く。20年後の今ー縄張り争いの末に一人生き残っ
たリトル・ゼだったが、彼が20年前にやった様に子供
ギャング達によって殺されてしまう。偶然からこの異
常な日常を一部始終カメラに収めることが出来たブス
カベは、新聞社の見習いカメラマンから正カメラマン
に採用され、一人”神の街”から抜け出せそうだ。貧
困・ドラッグ・縄張り争い、登場人物の違いこそあ
れ、同じ事が繰り返されるのだろう。
私個人としてホラーやバイオレンス物は見る気がしな
い。この映画は、ノンフィクションとは言え飛び散る
血がこれでもか出で来るバイオレンス物に違いない。
しかし、なぜか不思議に嫌悪を感じさせない。これ
は、どうしてだろう。ラテンの明るさとBGMのリズムが
忘れさせて呉れるのだろうか。刻むリズムも殺伐とし
た音はない。悲惨で残酷な内容のはずなのだが、なに
やら清涼感さえ憶えてしまった。
こんなバイオレンスは、30年近く前に見た邦画の”仁
義なき戦い”の鑑賞感と相通じる体験である。”仁義
なき戦い”が展開された街は、私の故郷でもある。幼
馴染の一人は銃撃戦の被害者にもなった。ブラジルの
リオと日本の広島という異次元が底辺で繋がっていた
のだろうか。
吉成秀夫 - 03/06/07 01:49:45
電子メールアドレス:cdx24630@par.odn.ne.jp
コメント:
先日の大学院の講義にはぶっとびました。世界の到来を待つあいだ、静かに漂う音の気配。この気配が房を揺らしているんだと思いました。そしてこの静かな時間こそ、残響の気配こそ、読書の時間にかすかに響いているあの風であることを思い出しました。ずーっとせわしなく本を読んでいて、世界に還元していなかったなと反省しました。武満徹のように地下鉄のなかで耳を澄ませよう。ボルヘスのように地下鉄で読書してみよう。流れる風景をただながめよう。。にごった澱、water gazing(Merci fukushima!)。沈思。共振。石田尚史。今日の昼間すれちがった、一寸法師?小学生くらいのかわいい女の子が日除けに頭にのせていた大きなふきの葉のような。極少の通路のさきにひろがる宇宙は純粋で抽象的で幾何学的な構成物では決してなく、なんかもっとこう・・・、ね?
吉成秀夫 - 03/03/24 18:18:57
電子メールアドレス:cdx24630@par.odn.ne.jp
コメント:
みなさんこんにちは。このたびBorderlandeのBBSにかなり長い文章を久しぶりに書いてみましたので、お暇なときに読んでいただけるとうれしいです。ひさしぶりにいい経験をしたもので。。。
吉成秀夫 - 03/03/20 17:06:58
電子メールアドレス:cdx24630@par.odn.ne.jp
コメント:
今日は札幌大学の卒業式でした。卒業される皆様にはこころよりご祝福いたします。そしていよいよ戦争もはじまりました。テレビを見るたびにつらくなりますよね。
cdx24630@par.odn.ne.jp - 03/03/20 17:03:26
コメント:
吉成秀夫 - 03/01/27 17:10:26
電子メールアドレス:cdx24630@par.odn.ne.jp
コメント:
ついについに!岩波文庫版はとうの昔に絶版となり、紀伊国屋出版かどこかで編訳がでていたがいつしか書棚から消えて久しかったJ・G・フレイザー『金枝篇』の初版完訳がちくま学芸文庫から刊行され始めましたね!本屋で見たときの歓びといったらなかったです。もともときまぐれにブラジルの作家パウロ・コエーリョの角川文庫を買いに行っただけだったのですが、恋焦がれ、待ちに待った時の到来が不意にやってきたみたいでした。アームズチェアーに腰掛けて、歴史に思いを馳せながら、世界旅行を楽しもう!
Hanchun Lim - 03/01/23 17:24:42
電子メールアドレス:nitobe1@yahoo.co.jp
コメント:
S・ジジェクは「無から何かが現れてくる瞬間」こそが「サブライム」であると定義づけているが、その意味で「屑拾いの思想家」ヴァルター・ベンヤミンは、わたしにとっては永遠に「崇高」な存在でありつづけるだろう。
昨年の11月、わたしとヨンジュ(また、もうひとりムンさんの存在を忘れることはできまい)は今福先生と〈未知の都市ソウル〉(わたしにとっても)を徘徊していた。バスに乗り、地下鉄に乗り、「雑神(ハングル)」の看板を通り抜け、歩く、という儀式を反復するなか、先生はひじょうに「不気味な存在」であった。わたしがソウルのまちからはなれ、はやくも8年、ソウルはまさに「私には見えなかった風景が立ち上がり、知らなかった[人]たちが深淵を超えてやってくる」ところであって、皆の先導者であるはずのわたしは地下鉄の乗降毎に観光マップをひろげるしかなかった。ところが先生は何故か、どこで降り,何を目印にまちを歩けば良いのか、わかっているような気がした。いや、わかっていた。たとえ初訪韓ではないにしろ、じつに「不気味なもの」を感じた。
その「不気味さ」とは、いったいどこからくるものか。「『月の近い町』にて」において、先生は韓国語版「模倣の能力について」を開き、その「雑神」のなかで、まるで〈屑〉のように隅っこにおかれている「交感(コレスポンデンツ)」という唯一の漢字を拾いあげ、人間の存在を考察しているが、先生の不気味さとはその「交感」の能力ではないだろうか。子どもたちが人間だけではなく、「風車や汽車の真似」をすることによって、物や自然と「魔術的な交感や類推」ができるという通察に感嘆しながらも、同時に、そういったものを喪失していくわたし自身やビデオゲームにばかり明け暮れるいまの子どもたちのことが想起される。先生が中央市場で、例のエイのスープを平気な顔で飲み続けながら、いまここではない「ダルドンネ(月に近い町)」、「吉増剛造」、「多木浩二」たちと「魔術的な交感や類推」ができたのは、何を意味するだろう。
最近、『韓国日報』のバックナンバーのなかで、「今福竜太」という唯一の漢字を目にした。また「雑神」によって排除された漢字が、いわゆるグローバル化、つまり「ここではない場所のたえざる侵入を受け」、復活気味であるという別の記事も目にはいった。これから「今福竜太」はいかに東北アジアに侵入し、「東北アジア」はいかに今福先生に侵入していくのか。たとえば、わたしという主体に侵入してくる「今福竜太」(の文書や映像)は、つねにこちらからの「コレスポンデンツ」を要求する、それで主体と客体という境目はなくなっていくような気がする。『韓国日報』における「今福竜太」は、こういったことが韓国という主体にも起こりはじまったということではないだろうか。
吉成秀夫 - 02/11/25 15:13:28
電子メールアドレス:cdx24630@par.odn.ne.jp
コメント:
先日は学外クラスに出席させていただき、楽しい時間を過ごすことができました。ありがとうございます。さて、↓の『ユリイカ』が今日発売のはずと町じゅうの本屋に足を運びましたが、あえなくまだ売ってませんでした。北海道は発売が一日かそれ以上遅いのです!そのかわり、ユルスナール賞オメデトー!マリーズ・コンデ『心は泣いたり笑ったり』(青土社)を丸善で購入!しました!!今ははやる気持ちを抑えて、目下僕の心を占領しているエドゥワール・グリッサンの翻訳に集中しますが、あぁ、はやく読みたい!この気持ちをテンションに、12/4のプレゼンテーションに向けて、勉強がんばります!みなさん、読む前から薦めるのも妙な話ですが、この本、きっと面白いはずですよ!この冬は『ユリイカ』と『心は泣いたり笑ったり』で過ごされてはいかがでしょうか?(それとグリッサンとね♪)
今福龍太 - 02/11/14 18:07:32
電子メールアドレス:volcano@ta2.so-net.ne.jp
コメント:
昨日の大学院ゼミは、途中で退席したまま放置してし
まい、申し訳ない。大学の将来をめぐる、ちょっとデ
リケートな話の席に呼ばれてしまい、中座できません
でした。リムくんの話が、皆に強い印象を残したこ
と、とてもよかった。私ももっと聴きたかった。昨夜
半から、「ユリイカ」のために未明まで原稿を書き続
け、今日の昼に脱稿しました。「繭のなかのベンヤミ
ン」という副題を持った、今回の私の韓国への思いを
すべてぶつけた、テンションの高い文章となりまし
た。いまは精根尽き果てましたが、これだけ集中した
のも久しぶり。25日刊行の「ユリイカ:ベンヤミン特
集号」を期待していてください。ところで来週のゼミ
は、外に出て、美味いものを食べながら談笑しません
か? だれかプランをたててください。予算は少しあ
ります。
對馬 千恵 - 02/11/13 23:25:33
電子メールアドレス:015807B@edu.sapporo-u.ac.jp
コメント:
今日のリム君の韓国からの報告は、とてもおもしろ
かったです。自分の故郷に「帰る」のではなく「訪れ
る」というのはどんな体験なのでしょうか。今日話を聞
いた限りでは、まるで新しい土地に行った報告のようで
した。そうであるにも関わらず、韓国と言う所が非常に
近い場所に思えました。そしてベンヤミンのパサージュ
論を考えながら歩く。最後に行き着いた家具屋さんでの
人々との出合いの話は、私も道を歩いたようにどきどき
しました。札幌ではなかなかあり得なさそうですが、薄
く積もる雪を見ながら、明るい日にゆっくり歩いてみた
くなりました。予想していたようにはならないことも
あった様ですが、それを含めて語るリム君の姿を見て、
語り終えてはじめてイベントや旅が完結するのだなと思
いました。ほんとうに、お疲れ様でした。おみやげありがとう!
吉成秀夫 - 02/11/12 20:00:42
電子メールアドレス:cdx24630@par.odn.ne.jp
コメント:
みなさんこんにちは。僕は最近、東京・神奈川方面を彷徨っていたのですが、おかげで岡本太郎美術館で行われた「熱いまなざし 岡本太郎とメキシコ」展の図録をGETすることができました。そこにはだれが行ったか覚えてませんが2001.9.10(あの日の前日ですね!)に青山で行われた今福先生の講演の再録があり、マヌエル・アルバレス・ブラボーのこともたくさん語られています。もしご希望の方がいらっしゃるならコピーをさしあげます。またブラボーの写真集も僕持ってますので、それもよかったら見ますか?ご希望の方はメールか、口頭にて申しつけてください。
Hanchun Lim - 02/10/24 17:04:41
電子メールアドレス:nitobe1@yahoo.co.jp
コメント:
一本の「ハシーシュ」が、今福先生を酔わせて、またそれを記述したきのうの映像によって、わたしも酔わせられてしまった、という感じでしょうか。ベンヤミンはマルセイユにおいて、躊躇った後にハシーシュを飲み、それが利きはじめてきたという徴候としてジョエル、フレンケルの次のような文を引用しています。「……なにか見知らぬもの、逃れがたいものが近づいてくる[わたしにとって、奄美やブラジルの映像は、何回みても、つねに見知らぬものであり、〈不気味なものunheimlich〉として近づいてくる]。……ずっと以前に沈み去ったさまざまな記憶がいろりろのイメージやイメージの列となって蘇り、光景や状況が全体として現前し[わたしは奄美という光景と今福という状況、あるいは今福という光景と奄美という状況が合している幾枚の写真に驚かされる]、……大気の感覚が生じる。つまり空気の蒸気。……完全に異なったふたつの意識の世界のあいだを、たえず投げられては往復し、……一跳びでひとつの世界から別の世界へ沈んだり浮かびあがったりすることがある[敢えて奄美やブラジルだけに限定せずに、『ここではない場所』をひもといてみる。そこには〈一つの都市のイメージが、別の都市のイメージを「心像」として呼び出すそのとき、その像の連鎖がつくりだす都市的な経験と感受を通じて、私は私の(非定住的な)存在という社会的現実をもっとも強く、深く実感する〉とある]」(「マルセイユのハシーシュ1932」)。映像が上映される直前、先生からソウルに行かれることを告げられたわたしは、先生がソウルを訪ね、そこで何を感受し、何を実感し、直感するだろう、別の表現をすれば、先生の「脳髄のなかのプロムナード」で、ソウルと隣り合わせになる都市やひとは何処で誰なんだろう、とおもいました。ところが、間接ながらこの「ハシーシュ」を吸ってから、逆に、札幌から訪れた日本人が奄美のことをポルトガル語で語りはじめたとき、ソウルのど真ん中の新村(シンチョン)の人びとは、何を感じ取ることができるだろうか、つまり何か「直感」することができるだろうかというおもいが強くなりました。この映像の複雑なからくりと力に感嘆しながらも、その奥に潜む、「大気の感覚が生じる。つまり空気」のようなものがあったからこそわたしのような者も何か感じ取ることができたかもしれません。「大気の感覚が生じる。つまり空気」のようなこの映像が、二回目の海外上映で人びとにどれほど訴えかけることができるか、大いに期待します。
今福龍太 - 02/10/22 12:56:37
電子メールアドレス:volcano@ta2.so-net.ne.jp
コメント:
Web上でブラジルの新聞をチェックしていたら、メキシコの写真界の巨匠マヌエル・アルバレス=ブラーボの死を知りました。先週の土曜日(10月19日)メキシコシティにて100歳で逝去。20世紀をまるごと生き抜いた稀有なアーティストです。アルバレス=ブラーボについては、これまでも熱を込めて書いたり語ったりしてきましたが、80年の長きにわたってひたすらメキシコの写真を撮りつづけてきたにもかかわらず、いかなる時代の写真も、透徹した新しさとアクチュアリティがあって瞠目させられます。「眼が考えている・・・」とは、詩人オクタビオ・パスによるブラーボ評ですが、たしかに20世紀のもっとも聡明で謙虚な「世界の眼」の一人が、ついに去りました。
写真家としてのブラーボは、決して撮り急がなかったことで知られています。撮影行でも誰よりもゆっくりとかまえ、一つの被写体を4コマ以上撮ることはけっしてなかったといいます。シャッターチャンスを求めて忙しく動き回ることもありませんでした。そのようにしてゆったりと像を生み出していった映像作家が、百年という人生の時を持ちうるとは、なんと見事な神の配慮でしょう! いくつかの写真集をあらためて眺めなおしながら、追悼の気分とともに、清冽なメキシコの高原の空気をこの場に甦らせています。そういえば、今年4月にはメキシコ写真界の重鎮の女性マリアーナ・ヤンポルスキーも亡くなっていて、メキシコは自分の像を生み出す大切な親を半年のあいだに二人失ったことになります。ともあれ、アルバレス=ブラーボの死去を伝えるいくつかの新聞記事をあげておきます。
1. La Jornada(メキシコ)
2. O Estado de S.Paulo(ブラジル)
3. New York Times (USA)
今福龍太 - 02/10/22 12:20:29
電子メールアドレス:volcano@ta2.so-net.ne.jp
コメント:
掲示板の書き込みが満杯になったので、ARCHIVEとして過去のlogを別ページに移しておきました。
一昨日、10月20日に、サンパウロの「パティオ・ド・コレジオ」という古い植民地時代の建築物で、ブラジル文化・メデイア記号学会主宰のイベント「O ESPIRITO DO NOSSO TEMPO われらの時代の精神」(ここに詳細)が開催され、私の20分のヴィデオ作品が上映されました。この会議のために作った作品です。私の現在の心の師を二人とりあげ、彼らへの私淑の感情をたどりながら奄美とブラジルを映像的に結びあわせ、時代精神のあり方を問いかける野心作。会場では、上映後拍手が鳴ったとの報告も。ポルトガル語版しかまだありませ
んが、これを明日、見せたいと思います。