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SAM - 03/11/13 01:39:41

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ある物事を肯定する立場、否定する立場、という2項対立はものごとを考えやすくするために便宜的に使わせていただきました。そのように、寛容な解釈をしていただけると助かります。言葉の表面上に対して批判されてしまっては、書き込みする勇気もなくなってしまいます・・・。今日の野田くんの「コンクリート永続性などを象徴しているのではないか」という意見は、自分もそのように考えていたので、あたかも自分が批判されているかのように感じてしまい、野田くんをフォローさせていただきました。それよりも、ヨシナリさんがおっしゃった「祖父(祖母でしたっけ)の遺体をさすることに抵抗感があった」という発言をきっかけに、養老孟司氏の話に発展していくという興味深い話の流れになったので、今日の授業は本当に刺激的でした!

吉成秀夫 - 03/11/12 04:56:23

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「撫でる」と「摩る」は身振りとしては似ているけれど、空間的な摩滅(ex.貨幣の図柄)、悠久の時間、消滅への陶酔、相互可塑性、見捨てられてしまうようなささいなものの残滓、他者との溶融、これらを含みこむような身振りをしめす言葉としては不十分かと思います。たとえばブラッケージの映像を見た眼は映像を撫でたというより、映像に摩られたといった方が近く、その映像を通過したあとの眼は磨かれ、「純度」の増したものとなった、といった刺激があったと思いますが、どうでしょう。講義が楽しみです。

吉成秀夫 - 03/11/12 04:07:57

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SAMさんへ。僕は小林よしのりをいちいち読んでいないので語る権利があるかどうかはわかりませんが、「戦争肯定派」ということばは気になりました。まだ全部を読んだわけではないのですが、スーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』という本があります。多木浩二先生のことは前にもふれましたが、その多木先生が札大にいらしたときに話題になった本です。これによると戦争には賛成や反対といったことを越えて駆動している事態があり、自分の態度として肯定、否定のいずれをとろうにも単純にはそのどちらかに安住できない複雑な言説がとりかこんでいるようです。小林よしのりの「そんな考え方」……、自らは「日本」に根ざし、外部に敵を作りあげてそれを排除することによって自分を強化しようという煽動は、反対する者は去れという小泉のようなものかと思われます。太田にはあったという批判の眼なしに小林よしのりの本をはじめ学校など、あらゆる言説をただ読み流すのはもったいないと思います。小林よしのりのファンである自分と、私は戦争肯定派ではないという自分、その二人の自分が共存していること、それがもしかしたら世界で戦争を動かしている機械のギヤの一部かもしれない、そんなことを考えさせてくれるのがソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』かもしれません。多木浩二先生著『戦争論』にくわえ、こちらも是非読んでみて欲しいです。僕も読みます。

SAM - 03/11/12 02:19:14

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最初、「摩る」を「さする」ではなく「こする」と読んでしまっていたとき、レコードとCDが頭に浮かんだ。 前者は、針が盤面の溝をこすって音を再生する。後者はルビーから発せられる650ナノメートル波長のレーザーを用いて非接触的に(こすらずに)音を再生する。昔はテープカートリッジやパンチ紙にデータを記録して、それを「こする」ことによってデータを読み出していた。現在の記録媒体のほとんど(CD、DVD、MO、HDD、FD、キャシュメモリーカード、USBストレージ・・・)は「こすらずに」データを取り出している。現代(もしくはディジタル社会)は、「さする」という行為だけでなく「こする」という現象も減少させているのかもしれない。 そして、先週、今福先生からいただいたプリントを一読して、思ったこと。「摩る」と「撫でる」はどう違うんだろう?先生は「モノ」ではなく、人が人を擦ることが「摩る」とおっしゃっていたと記憶しています。人が人を撫でることは、「摩る」とは異なるのだろうか。もし異なるならば、私は「摩る」という行為を自分以外の存在にしたことがないのではないだろうか。「撫でる」という行為は、愛してやまない愛猫に対しておこなっているのですが。 明日(今日)の授業では、「摩る」というテーマの中に、「撫でる」との差異、あるいは同じ要素を見出したいなと思います。

SAM - 03/11/12 02:02:42

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亀レスですいません。 ヨシナリ先輩サマ、 アジア人とはどんな生き物? 日本人ってどんな生き物? とのことでしたが、どうやら私は愚考に基づいた書き込みをしていたようです。 アジア、ユーロ、ユーラシア(ユーロ+アジア)、あるいは欧米。 地球の地域によってその性質・性格を枠にハメてモノを見ている自分に気づきました。 オリエントに住む人間も自国や周辺国の人へのオリエンタリズムを持っている(もしくは無意識のうちに持たされているのかも・・・)のでしょうか。「国民性」や「県民性」などという言葉がそのことを如実にあらわしていると思われます。 小林よしのり氏についてですが、誤解をおそれずに書くとファンです。 しかし、戦争肯定派であるということではありません。 「戦争論」をどのようにクリティカルに読んでいるか、との質問にはおこたえすることができません。 なぜなら、「そんな考え方もあるんだねぇ」と軽く読んでいたからです。スイマセン。 「戦争論」は、ものごとを批判するには、その対象をよく読む必要がある、という基本的なことを教えてくれました。 爆笑問題の太田光(背が高い方)も深夜ラジオの中で 「オレは学校が大嫌いだった。でも、皆勤だった。 なぜなら、学校を批判するためには、学校をよく知らないとダメだと思ったんだ。 登校拒否とかして、家でのうのうとしてるクセに学校を批判するのは負け犬の遠吠えでしかない。 そんなヤツらは批判をする権利がない!」と言っていました。 (私は影響されやすい人間なんです。)

吉成秀夫 - 03/11/07 07:38:38
電子メールアドレス:cdx24630@par.odn.ne.jp

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僕は人に触れたり触れられたりすることがこわいです。これはなぜかわかりませんが、とても臆病な気持ちに襲われて触れ合うことを避ける自分が、なにか軽薄な気がしてイヤです。『摩滅の賦』のコピーを読んでいて、すこし理由がわかったような気になりました。摩り/摩られしているときのあの優しい心地よさが意地っ張りの僕に照れくすぐったいのですね。まず、最近僕が摩ったものってなんだったろうかと思い返してみると、本でした。すごく思いを込めて摩ったのが『山口昌男山脈3』です。摩ってる時間の方が長いんじゃないかという勢いでした。大切な本を僕は摩ります。『山脈』の前はイシカリフリーペーパーだったと記憶してます。また、ガジュマルの木の肌など、奄美ではよくいろんなものを摩っていました。摩ると手が傷つくのですが、それが心地よく、また信頼に値すると思って。バト君が講義の終わった後すぐに、「サブライムだ!」って言ってましたが、僕もそう思います。「アルカイックだ!」と言って呼応しても良かったでしょう。今、古本屋さんで仕事をしていることもあり、汚れたり、撚れたりして朽ちる途上にあるものに囲まれて生活してます。あんまり老朽化のすすんだ本は商品価値が無いとして捨てられるのですが、僕は自分の手でそうした本を捨てることを未だにできないでいます。いつかできるようになるんだろうか、と思うと寂しい気持ちになります。自分の持ってる本は人にあげることはしても、捨てるなんてことは想像できません。「読みつぶす」という表現がありますが、そうしてボロボロにしてしまった本はなにか生々しくて少し怖いのでしょう。モノは古くなると物の怪になるという想像力、「生きられた家」はやがておばけ屋敷に変じていきます。廃墟のアウラ。手持ちのいくつかの本も自分の分身のような大切なものがあります。山口昌男著『道化の民俗学』はヤバイです。古本屋さんでもよくこれは!という本は摩ってたりしています。買う買わないの前に摩る。ヤな客ですね。そういえば自分が本を読み終わった直後も感慨に浸りながらよく摩ったりしています。コピーを読み終わってから、もう一度イシカリフリーペーパーを摩ってみました。手が覚えてる記憶が蘇ったのを感じました。一瞬昇竜荘が手のなかで蘇ったのです。でも少しわざとらしい気もしてしまい、照れ恥じらいも感じました。バイクで走るのも、今福先生は「身体に刻み込む」という言い方をしますが、身体を倒してカーブをまがり、直線でアクセルをあけるリズムのなかで刻み込まれるものがあると感じていたりもしました。祈りと摩り、これはすごく原初的な身振りで、無意識の豊かさがあり、僕はそれをそのまま無意識の行為としてとっておきたいように思います。だから、この『摩滅の賦』もすりきれるくらい読み、そして忘れてしまいたい、記憶から遠ざけてまた無意識に沈殿させたいと思いました。それが「摩滅」にふさわしい読み方とも思うのですが、どうなのでしょうか。こういう本は怖いですね。人間が一番怖いですけど。「人気のない海岸に」、記憶を失って放置された流木を組替えて遊んでまた放置する痕跡(イシカリ)、風と摩られ風葬されゆく人骨の島、風に摩られる(摩る?)僕(アマミ)、放擲してなお遍在する気配(全て)を、また摩り合い直すはかない時が到来するのを待つ。解きほぐされ紡がれる記憶、そしてまた塵芥のようなことば。荒野??。

Ryuta Imafuku - 03/10/17 18:08:40

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リムくん、よく書いてくれましたね。私も、9月以降の札幌大学における留学生の不条理な管理体制の強化に憤慨しています。自ら警察化し、強圧的な管理によって学生を縛ることでマスメディアや社会に対する自己弁明を取り繕う姿は、恥ずかしく惨めです。文化学部内で、私は大学当局からの指示にたいする意志的な態度表明として、ボイコットや抵抗の可能性を模索しつつ、それによって留学生が現実的な不利益を被らないような戦術を考えています。今回の当局の一連の過剰反応を見ていると、とりわけ、留学生という立場が、あらゆる政治的・社会的脆弱性をかかえたポジションであることへの基本的理解が大学に全くないことが、致命的といわざるをえません(これは日本だけの問題ではなく、複数の国家・法体系にまたがって移動し、学び、仕事するあらゆる状況に当てはまります)。文化学の基盤とは、リムくんも暗示しているように、たとえば留学生が皮膚感覚として感じている日常の政治学的な権力作用にどれだけ敏感であるか、ということでもあります。すべての留学生を潜在的なトラブルメーカーとしてとらえて過度に管理するのではなく、まったく逆に、留学生にこそ通常より大きな期待をかけ、責任を与えて、学内でのパートタイム的就業機会を増やすとか、いくらでもやれることはあるはずなのです。留学生が活性化できる教育的な側面についても、大学はあまりに過少評価しています。ですが、抵抗は、組織的「運動」であるよりは、むしろ一人ひとりの日常の偶景への機敏で独創的な対応として起こるべきことも付け加えておきましょう。組織に組織で対抗することは、相手の土俵を貫く原理に自らも染まらざるを得ない、という欠陥をつねにかかえているからです。フーコーのいう「governmentalite」(統治性)、そして彼の「自己のテクノロジー」「個人にかんする政治テクノロジー」をぜひ読み込んでください。

Hanchun Lim - 03/10/17 14:34:11
電子メールアドレス:nitobe1@yahoo.co.jp

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今週の授業は、文化研究における政治学について非常に刺激的な何かを感じる時間でありました。その何かに対して最近わたしの周りで進行しつつある、或るできごとを例に少し語りたいとおもいます。「9.11は世界を変えたか」、「アメリカによる報復戦争は正当なものか」などの問いに対して、ネオリベラルやネオコンといった立場の《知識人》も、ラディカルな左翼の《知識人》も「勢いよく」自分たちの論調をメディアに発信してきました。そのなか、そういった《知識人》たちが取り上げるに値しないほどの或る《小さな事件》がわたしの平凡な日常生活に起きました。9月1日、札幌大学の中国人留学生が入管難民法違反(資格外活動)の容疑で逮捕されたのです。その留学生は大学から退学の処分を受け、本国に強制送還されました。しかし、このできごとはこれだけで済まずに、北海道警察による構内立ち入り強制捜査(容疑者の学籍状況などを押収するため)を受けることになった大学側はとうとう「パニック」に陥るのです。つまり強制捜査があった当日、NHKや民放各社から取材カメラが殺到し、その一部始終が道内のニュースにながれ、今回の事件は大袈裟にも「大学創設以来の不祥事」となってしまったのです。札幌大学は何十年の歴史を持ち、これまで在学生あるいは卒業生による犯罪がなかったはずがありません。パニック状態の大学側が真っ先にとった行動はそのマスメディアを逆に利用するプロパガンダでした。いちばん名誉に傷つけられた被害者であるはずの留学生たちに「訓告」なるものが送られ、全員集合が命じられました。(予定では大学側が自ら警察を構内に出迎え、その警察によって全留学生は訓辞を受けざるをえなかったが、さすがそれだけはキャンセルになりました。)その場にはいうまでもなく?大学側のプロパガンダとしての?NHKのカメラが入ってきていたのです。一瞬にして「不良国家」ならぬ「不良外人」になった留学生たちは、大学側に貯金通帳を提出するように要求され、これから大学の管理に協力しないと入学する時に約束されていた「食事券」を支給しないと脅迫まがいなことを言われました。危機というのは9.11や戦争のような《大きな事件や歴史的なできごと》においてのみあらわれるのではないでしょう。つねにわたしたちの日常のどこかにひそんでいるのです(ロラン・バルトのいう「偶景」(incident)にあたるであろう)。また、その危機を打破するカギというのも歴史的な事件より、普段のわたしたちの日常生活の現場で見つかったりする可能性があるとおもいます。しかし北朝鮮との軋轢が生じる度に、チマチョゴリに対するテロ行為があるにもかかわらず、日本の《知識人》はアメリカによるアラブ系人に対する弾圧だけを目立って取り上げているのが現状です。また、「福岡一家惨殺事件」以降さらに頻繁に放送される『犯罪捜査24時間?追跡!外国人窃盗団』のような番組のために全国の留学生・就学生が肩身の狭い思いをしていても、留学生のための発言はあまり見当たらないです。つねにマイノリティの側に立っていたエドワード・サイードは、知識人とは「アウトサイダーであり、『アマチュア』であり、現状の攪乱者である」べきだと述べています。それは《大きな事件や歴史的なできごと》、すなわち9.11や戦争のような非日常の状態を、自らの日常として捉えなおす作業を行わなければならないと訴えているのでしょう。今回の札幌大学における「偶景」を通じて、今の日本の全体像が見えてくるような気がしますが、わたしたちは《アマチュア知識人》として日常における危機の突破口を探していかなければならないとおもいます。

吉成秀夫 - 03/10/10 02:02:03
電子メールアドレス:cdx24630@par.odn.ne.jp

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美の誘惑とその危険さについてと、レニから見えてくるものについて書きたいと思います。昨日の講義では美が持っている危険性をより整理して考えることができたと思いました。僕にとっての収穫はファシズムはナチズムとイコールではないということと、レニの美がナチスとの関係のなかにすべて終着しないという、両者ともごく当然のことに気付かされたことでした。美しいものとは全体主義的なものを生み出す要因であるだけではない、というあたりまえのことです(カルチャラル・スタディーズの極解が原因でしょうか?)。流行や、美しすぎるもの、崇高なものはすぐさま政治的に危険であるという行き過ぎた盲信が解けたので、今後は美的なものについて考えたり、美的なものに自分が開かれていくことを、もっと積極的にやっていけそうです。文化を勉強していると、どうしても言葉や概念はその文化を説明しきろうと一貫性を主張しはじめ、記号体系のとても調和的な美しい固有の世界として描かれようとするのですが、それはナチスドイツとて同じこと。ナチスは芸術がうけもっていた世界のヴィジョンの描き方を政治の領域に吸収したというような話もありましたが、そうした政治と芸術と生活が緊密な関係において構築される全体主義的な世界像の描かれ方は民族誌にもみられることのように思われます。ナチスドイツはゲルマン民族を中心とした美しい野蛮民族国家であったといったら言いすぎでしょうか?かつて帝国主義国家であった日本においても、いまだに「日本的なるもの」に自己のアイデンティティーの所在を求め続ける人もいるように、ドイツにおいてレニの映像に自己を投影する人もい続けているのではないかと想像します。そうでなくても憧れ夢見る人はいるでしょう。またはそれに苦しんでいる人も。そういった日本的、ドイツ的といったもの(それはときに美しい)に人をアイデンティファイさせようとする政治学と、それぞれがもっている美しさとを、ときに結び付け、ときに分断して考えるという運動ができるかどうか。またそこからどれだけ想像力を飛翔させて人間の文化の微細な襞に入っていくことができるか。これはこれからの課題だとしても、少なくとも現時点では、美しいもの(ボクには美しく見えるもの)や過剰なもの・人(ボクには過剰にうつるもの・人)が文化の深いところを苛烈に表象する秘密を蔵しており、もの書きがそれを暴き出すことがある、ということをまざまざと見せつけられ、美的なものにたいする心構えができたように思います。とは言いつつも、美しいものというのはどうしても通常の理性や冷静な分析判断力のすべて吹き飛ばして恍惚とさせてしまう魅惑をもっていて、そこで何がおこっているかを見失わせることがあり、やっぱり危険なんですよね。。(アントナン・アルトーはメキシコにおいてその魅惑的で危険な美の純真な姿にとり憑かれるが、すでにそれは現代において消え去った夢であり、行き場のなくなった夢と現実のはざまで気が狂うも、その狂気からまた美的な文学作品を現代に生みだす??これについてはもっと時間をかけて考えていこうと思っている)。気をつけるべきは政治学の全体化への不穏な動き、ファナティックなフリーク共同体ということでしょうか?(デリダ『友愛のポリティクス』でも読んでみようかしら?)……堂々巡りをしてますが、そのなかでも、ひとつこれだけは言えそうだということがあります。たとえばレニ美学礼賛にまわるにしても、レニ−ナチスと断罪するにしても、またはその美学と政治学はお互い重なりあいながらも異質のものとしての歩みがあると言ったとしても、その後の歴史はレニ−ナチスという批判言説を強化していき、レニ自身もその言説にまとわりつかれながらそれを回避していくように自らの美の対象を選び取っていったという見方ができます(これに対しては、レニは純粋に美を追求しただけで、それは結果論にすぎないという反論もありえますが)。ここには言説が美へもたらす歴史の相互作用があるように思われるのです。つまり一人の人間にとって美の創造は時代とその言説に無関係ではないということです。レニもナチスとの関係を言い訳しているうちはまだかわいいんですが、ナチス時代の事実を隠蔽しようとするのは(それがもっとナイーヴな感情からだとしても)ソンタグじゃなくても怒るでしょう。「過去は追いかけてくる」とはボクの友人が言った言葉ですが、レニも、ソンタグが大江に書いたという「たとえ過去との一貫性はなくても、その時々の今という真実を求めているのだ」くらいのことを言って過去を振り切り駆け抜けてしまえばいいのかもしれません。それは責任回避ではなく、歴史の一断面を真摯に生きたある人間のモデルとして、自己をつきはなして考えるということですが、それじゃ世間が許さないというのも、これまた一つの文化の姿。ナチス時代の美のミューズが、ところ変わると犯罪者。排斥・虐殺されていたユダヤからはつねに恨むべき権力者。映像作家からは美のパイオニア。流行をおう人たちからは美の求道者としてのその時代の代表的偶像アイドル。レニを紹介するのに、バレエ時代・山岳映画時代・プロパガンダ映画時代・ヌバ族時代・海中時代とレニの人生を5つの時代区分として表わした『Five lives』という本がありますが、ミューズ・犯罪者・権力者・パイオニア・偶像アイドルの5つの眼差しをあびた人間としての『Five lives』というのがあってもいいのではないかと思いました。そこから20世紀のある姿が浮かび上がるかもしれないと思うのです。

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