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          ここではKazUSAが感じていること、体験したことなどを
        書きつづっていきます。
          沖縄に関すること、友達のこと、内容はさまざまです。

         日記の長編と考えていただければ、分かり易いかもしれません。
         例にもれず、独断と偏見が多く含まれておりますので、
        御意見がおありの方はみあれノートにでもお書きください。









sub将来のこと。 subはじめての沖縄。 sub二度目の沖縄。
sub三度目の沖縄(工事中)。 subのどが痛い。
( 注!! )以下は一部、センセーショナルな表現が含まれております。        14歳以下の方はご遠慮ください。        また、繊細な方にも、お勧めできません。
sub<ボデ( 仮名 )のこと。 subユカリ( 仮名 )のこと。
sub逆逆セクハラ。








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将来のこと。
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 この日本で、就職する意味ってなんだろう。意義ってなんだろう。

 「就職活動」をする意義って?
 みんなと同じことを、なぜしなきゃいけないんだろう。
 
 私は本当に就職したいのか?

 この日本に就職することは、自分にとってデメリットのほうが
多いのではないだろうか。
 私は一度のりかけた波に、幾分遅れて、また乗りはじめたのに、
半年ともたずに飛び降りてしまった。

 「俺も、深く考えちゃって、就職浪人しちゃったんだよね(笑)。」
 三度目の沖縄で会ったナガト( 仮名 )さんは言った。
あれは、深く考えちゃ駄目だよ(笑)って。

 でも、私は「前に習え」で進むのは嫌で、自分が納得できるような答えを、
自分で見つけ出さないと
進みたくないタチだった。
 そのことに、その時はじめて気づいた私は、
自分の事をなんて知らないんだろうと思った。

 そして、四回生になった今、しかもこの時期、
「就職は?」としきりに聞かれる。
 「決まったんですよ〜!」
 なんて、たまには、だましてみようかと思うくらい、
同じことを何度も言い返した。

 「就職することに、意義が見いだせなくて。」
 本当にそうだ。

 就職することに何の意味があるんだろう。
 今の私は、少なくともその自説でいる。

 私の周りにも、こういう「ご時世」だからか、意外に多くて、
半分は就職しようとしていないように思う。
 「しようとしていない」なんて言ったら、
本人に失礼かもしれないけど、少なくとも、
 今は卒論のことしか考えられないでいたり、
何かに目覚めたように公務員めざして予備校に通ったり、

 私はといえば、院に行こうかななんて、生半可なことを考えている。

 22にもなって、自分の将来も決められないのかと、
身近な人にこのまえ怒られた(半ば、あきれられた)ばかりだけど、
逆に、自分の周りで就職している人に聞いて回りたいくらいだ。

 「今の、この日本で、働くことのメリットって何?」
 ほぼ一ヶ月前、兄に「なんで就職しようと思ったの?」とメールしたけど、

返事が返ってこない(笑)。
 
 おかしいなぁ(笑)。


 「それはね・・・。」とご自分のお答えをお書きくださる方、ぜひぜひみあれノートまで。






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はじめての沖縄。
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 私はずっと、沖縄にあこがれていた。
 
 沖縄でなくても、そのときは南の島なら、どこだってよかったのかもしれない。
 その地をはじめて踏んだのは、2001年4月下旬、
27日ごろだったように思う。

 安い航空券を手にして、私は単身、沖縄におりたった。
沖縄まで、関空から2時間あまりだった。
 22時ごろ、空港に着いた。私は迷わず、安いホテルに電話をかけた。
出入り口に立つなり、銃を肩から下げた米兵に出くわし、
「頼むから、関わらないでくれ」と願った。
 ホテルのある場所はよく分からなかったが、タクシーで向かった。

 この時、沖縄のタクシーというものに驚いた。
制限速度50キロのところを100キロ出して通っていく。
しかも、カーブでもスピードが落ちない。
 私はその安さに感謝しつつ、あまり好んで乗りたくはないなと感じていた。
 
 私が泊まったのはカプセルホテルで、テレビで見た関東のより、
普通の部屋っぽかった。
 ただ、狭くてベッドが小さいのが気になった。
でも、私は小柄なこともあって、苦ではなかった。

 次の日、朝食のパンを食べるため、最上階のラウンジに向かう。
そこで、1ヶ月以上も住んで那覇付近で職探しをしているおじさんに出会った。
おじさんとダイビングの話になって、おじさんの知り合いのショップに、
連れられて行った。

 私はその後もそのおじさんに付きまとわれることになり、
友達に苦情メールを送っていた。
 そして、ダイビングショップに通うようになって、
おじさんから逃げられたかと思うと、
ダイビングショップで知り合った、ナカエ( 仮名 )さんに
付きまとわれることになる。
 
 私は沖縄で、オープン・ダイバーの免許を取り、多くの人と出会った。
インストラクターのナカムラさんや、私と一緒に勉強をし試験に見事合格したタカヤマさんたち。
そして、教習中、私のパディとして仲良くしてくださったワナタさん・・・。
 
 一人で旅することは、こんなにも多くの人と出会えることなんだと知った時だった。

 そして、合格した夜、ナカムラさんや他のダイバーの方々と一緒に、
20人くらいで居酒屋に行って沖縄料理を食べた。
実は、ほとんどのメンバーが手話を使って会話をする人で、
私だけが、その中で手話「初心者」だったのだ。
 こんなことなら、挫折しないで独学を続けておくんだったと後悔した。

 今のところ、手話を深く勉強しておかなかったことで後悔したのは、
このときが一番強かった。
 
 次の日、みんなは揃いも揃って自分の住んでいる土地に戻ると言っていた。
 私とナカエさんだけは偶然にもその次の日の便で帰ることにしており、
二人で観光しようかという話にもなっていた。
 私は沖縄に来た、最大の目的でもある「マングローブ」について語った。
ナカエさんは「キジムナー」( 沖縄古木の穴に棲む妖怪で
「座敷わらし」のようなもの )に
会いたいとか言っていた。

 その夜、23時ごろだっただろうか。
フロントの人が部屋のドアをノックして、
「ナカエさんという人が見えているのですが」と言った。
私ははっきり言って、
ナカエさんが誰なのかピンとこなかった。
ロビーに向かううち、薄々と気づき始めた。
 正直言って、私は今夜限りで、
もうナカエさんと会うことはないだろうと思っていた。
それと共に、タカヤマさんから「彼は危ないから
関わらないほうがいい」という忠告を受けていたことを
すっかり忘れ去っていた。
 難聴の彼と、手話がさほど上手でもない私は、
大きな声と筆談で、3時を回るまでロビーで話し続けた。
いつのまにか、彼の借りたレンタカーで、
明日マングローブを見に行こうか、ということになっていた。

 私はその時まだ、自分のカメラを持っておらず、
父から譲り受けたコンパクトカメラで写真を撮ろうと思っていた。
その頃の私は、自分が写真を撮っている姿を人に見られることに
慣れておらず、ナカエさんに見られたことによって
ひどく滅入ったことを覚えている。
 スコールの中、ずぶ濡れになりながら、
ナカエさんの差し出してくれる傘の中に入っていた。
その時撮った写真が、皮肉にも、
今までで一番印象に残った写真となっている。
その後、自分の一眼レフを購入したのだが、
あれ以上の写真は撮れたことがない。

 おそるべし!コンパクトカメラ。
 
 その帰り、ナカエさんは眠いからと、
高速道路で運転を代わってくれと言い出した。

ペーパードライバーだと口を酸っぱくして言っていたのに、
結局代わらされた。
 ナビがついていないので、出口を聞こうと思って助手席を見ると、
ナカエさんはシートを倒して、すでに寝ていた。
 こんな人に、私の一番みられたくない姿を見られたなんて…、
と怒りが増した。

 あとは、歩いて「国際通り(安里)から首里城」まで行って、
声をかけてきたタクシーの運転手のおじさんにビックリされたり、
首里城で写真を撮ったり、
散歩をしていて、おじいさんに「あんた、(道に)迷うとるじゃろ」
(こんな口調ではなかったような…(汗))と鋭い指摘をされて
ドキリとしたり、
インストラクターのナカムラさんに「カプセルホテルは味気ないよ」なんて言われたり…。

 書ききれないほど、いろんなことがあった。

 でも、日本らしくないところに好かれ、それまで以上に
魅せられてしまったのだ。
はじめての沖縄では、沖縄料理を食べに、一人で居酒屋に行ったり、
今までした一人旅の中で一番歩いたんじゃないかと思うほど、歩いた。
 人との出会いはスキューバ・ダイビングを通して、というのが多かった。
ダイビングの免許を取ったのも大きかった
(でも今はブランク・ダイバー(苦笑))。
 






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二度目の沖縄。
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 二度目の沖縄は、アサヒ( 仮名 )というバイトで一緒だった、
ひとつ下の女の子と行った。

 2001年9月上旬だった。
 
 彼女が、「沖縄といえば綺麗な海でしょう」と言うので、石川市に向かうことにした。
 その日は、那覇にある海で遊んで、宿に着いた。宿の人は親切で、小雨が降り出したとき、
傘を貸してくれた。
近くのスーパーで食糧を買い込んで、宿でくつろいでいると、アサヒが携帯を触っていた。
 ベッドに横になって、すっかり安らぎモードだった。子供みたいに、足をブラブラ
振っている。
お尻にかかとがくっつきそうになったり、布団に着きそうになったりする。
 
 「彼氏にメール?」と言うと、それはもう終わったと言う。聞くと、地域限定の
出会い系サイトに掲示を出したと言う。私は二人きりの旅のつもりでいたので、
少し戸惑った。でも、彼女がコンタクトを取って、いろんな情報を知らせてくれるので、
なんだか私まで楽しくなってきた。

 近くのガソ・スタ(ガソリン・スタンド)で彼らを待つ。そして、彼らの車に乗り込んで、
北谷(ちゃたん)付近で遊んだ。

 乗っていたのはリョウ( 仮名 )と、ボデ( 仮名 )だったと思う。
シゲ君( 仮名 )とヒデ( 仮名 )には、彼らを通して会った。

 堤防のそばにあった東屋で、テーブルを囲んで、私は勧められた泡盛を口にした。
 アサヒは飲みたがらなかった。

 連日、仕事を終えた彼らを足に使って、瀬底島(せそこじま)へ行ったり、毎晩のように遊びまわった。
リョウとヒデを宿に上げたこともあった。アサヒと四人で、酒を呑んだりして騒いだ。
 一緒に居酒屋に行って、いろんな沖縄料理を口にして、泡盛も飲んだこともあった。
その居酒屋に着く前、私はリョウのバイクの後ろに乗って、
夜闇に浮かんだ首里城を見せてもらった。
 
 最終日まで一緒だったのは、リョウだけだった。
アサヒも私も、リョウとだけ携帯の番号とメルアド(メール・アドレス)を交換していた。
 沖縄を離れてからも、リョウと私たちは細い糸で、つながっていた。

 沖縄でのバカンスを過ごしたアサヒは、今度はバリに行こうと言い出した。
予定では、9月末にしようかと言っていた。

 先日、バリでテロがあったのをニュースで見て、もし、行っていたら…、と
思わずアサヒにメールをした。バリに知り合いのいるアサヒからは、その後
何の連絡もない。

 私にとっては、珍しく、友達との旅行ということになった。それはそれで、
いい思い出になっている。






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三度目の沖縄。
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のどが痛い。
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今日、大学の、あまり使われていないコンピュータ室に入った。
防腐剤というか、新車のシートのような臭いがして、
急にムセた。

そういえば、最近はじめた服屋のバイトでも、のどの調子が
悪かったことに気づいた。

のどがイガイガして、吐きそうなくらい咳が出る。

ただの風邪じゃない気がする。
のど飴をなめても、気休めに過ぎない。

ハウスシックじゃないけど、それに似たものかな。
新しい服の臭いとか、新しいジュウタンの臭いがのどにくる。

嫌だな。なんか、すごいものを吸い込んでそうで。
目に見えないだけに、ダイオキシンとかサリンに匹敵するくらい
おそろしい。

耐え切れないようなら、服屋のバイトを
やめてしまうかもしれない。

時給はいいし、ほかの部分は目をつぶれるにしても・・・。

とにかく、のどのみぞ知る、って感じ。





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逆逆セクハラ。
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えーっと、これはですね…(苦笑)。

KazUSAがたまーに思うことなんですが、ずっと考えてたら
気が狂いそうなことです。
日常的に、考えないほうがいいことです。

・・・今日、大学に、試験対策のために、講師のお姉さんが来た。
高そうな服を着て、
茶色の髪はバレッタ(懐かしい!!)で止められていて・・・。

終わったあと、「早口だったね」なんて言ってた子もいたけど。

私が時々思うのは、声のこと。
私は女子大にいるので、とかく女の子の声を聞くことが多い。
聞かないほうがおかしい。

聞かなかったことはない。

それで、私はもともと理系の考え方をするので、
何かにつけて、分析モードに入ってしまう…。

何を分析するかというと、声なのだ。それも、
単に声じゃない。

普段の声から、「男と盛り上がっている」
(TVで誰かが仲間さんに言ってた)時の声を想像しようとするのだ。

どういう性嗜好があるのかなとか。

もちろん、しようとして、いつも変になりかけて辞めるんだけど、
男性は好きかもしれないね、こういうの。

でも、時々思う。
声って、ホントその人をあらわしてるなって。

そんなことを考えてたら、あまり喋りたくなくなるのは
私だけかな。

これも、別の意味で、女性にとっては
センセーショナルだと思う。

神経質にならないでくださいね。あくまで、
「私」が「ときどき」という話ですから。

大丈夫ですよ。声でセクハラされてるなんてこと、
めったにないでしょうから。



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ボデ( 仮名 )のこと。
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 ボデは沖縄の言葉( うちなーぐち )をよく使っていて、私やアサヒが話すときには
リョウの手助けを借りていた。ボデも逆に、私たちの言葉が分かりにくそうだった。

 ボデは、乱暴な運転が好きで、私たち数人を乗せて、無茶な運転をよく、した。
乗っているほうがハラハラしていた。カーブを確認もせずまわったり、
大回りしたり、乗り上げたりして、私たちは直線でもカーブでも、
「ちゃんと運転して」とか、「減速して」と叫ばなければならなかった。
それでも、ボデには反省の色が見えなかった。

 三度目に沖縄に行ったとき、リョウにメールをしたのち、ボデの話になった。
まだ、無茶してんだろうな、元気かな(笑)と思っていた。
その手前、私もボデのことが聞きたくてたまらなかった。

 「ボデっていたやろ、覚えてる?」
もちろん、覚えてるよ、と返す。あんな個性的な人、アサヒも私も忘れるわけがない。

 「死んだよ、ヒデの車で。」
えっ…、言葉が出なかった。
きっと、「そっか。」とか、なんとか、間抜けなことを言ったに違いない。

 「自殺したんだ。」

 私は、それはリョウの色眼鏡で見ているんじゃないかと思った。今も少し、
そう思っていなくはない。
 
 「事故じゃなくて?」
リョウは何も言わなかった。

 「今は遺影しかないよ。見に行く?」
私はとっさに及び腰になってしまった。そのことを、知るのが怖かったのかもしれない。

 本名知らないし、家族と面識ないし、なんて余計なことを考えてしまった。
今思えば、行った方が、家族にとっても良かったのかもしれない。ただ、夜分だったが。

 それを知って、私は即座にアサヒにメールをした。沖縄にいる私とアサヒの気持ちを、
そのメールはダイレクトにつないだ。

 「うそ?! ほんとに?」

 私だって、ボデが生きていると思ってたし、あれから一年もたっていないのに、
という思いを隠しきれなかった。

 だからこそ、リョウともう一度、夜の首里城を見たかった。
でも、次の日は大事な教員試験で、朝が早かった。

 そうでなかったら、無理にでもリョウに頼み込んでいたかもしれない。
あの風を感じることができたなら、少しでも、あのときに戻ったような錯覚に
囚われることができるのに、と。


 2002年7月19日。海の日の前日。
私はまた、友の死を知らされた。


 ボデ、ありがとう。そして、さようなら。





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ユカリ( 仮名 )のこと。
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 ユカリのことが、そうやって、残っていけばいいと思った。


 後輩が、教職のゼミで、スピーチをしなきゃいけないと言っていた。
私たちの年は、ちょうどユカリが亡くなったあとで、
みんな、示し合わせたように、自然とその話になった。

 「しんみりしてしまった」と、担当教員も言っていたらしい。

 私がユカリの死を知ったのは、2001年9月11日。
世間では、あの「テロ」の日だ。
私はその日、夏休みの一ヶ月間、滞在したオーストラリアから、香港経由で帰ってきた。
めったに連絡してこない父親が、慌てて電話してきたのを覚えている。

「生きてるか!!?」

「テロがあって…、飛行機もハイジャックされてて…。」
私はまだ、あのテロをおぼろげにしか理解できていない。

「テロ」という響きは、私にとって軽すぎ、そして思うより遠いものだった。

 
 携帯を充電しながら、今度はメールチェックを始めた。ほとんどは、ジャンク(いらない)メールで、
途中で面倒くさくなった私は、件名だけ見て消していた。

 そして「___ユカリさんのこと。」という件名だけが私には別物に見えた。
フルネームで入っているそれに、なんだか、書いた人の、ユカリに対する距離を感じた。

 ユカリを、私は呼び捨てにしたことはなかったけど、同じサークルにいたものとして、
一緒に帰ったこともあるし、世間話もしていた。どんなバイトをしているかも知っていた。

 彼氏ともまだ、付き合っていたんだろうか。

 「___ユカリさんが、心臓の血管破裂のため、亡くなりました。葬式も通夜もあったのですが、
あなたには連絡が取れなかったので…。」

 ユカリがサークルを辞めて以来、キャンパスでユカリに会ったのは、その半年以上、前だった気がする。

 その間に、ユカリに何があったのか、私には知らされていないし、一年たっても、
ユカリが死んだなんて、信じられなかった。

 エイプリル・フールには、柱の陰から「わ〜い、みんなだまされてるぅ〜!」なんて、
ユカリがケラケラ笑って、出てきそうな気がしていた。

 そして、一年がたった。その間、私は教育実習に行き、その先の中学校で、
同じ「教職」を目指していたユカリのことを話した。

 話すつもりなどなかったのに、言わずには、いられなかった。

 私の「生徒」たちは、合唱祭で、私とユカリに歌ってくれた。ある子は、
私のもとに駆け寄ってきて、「友達(=ユカリ)に届いたかな?」と言ってくれた。

 届いたに決まってる。

 ユカリは、あの鼻にかかった高い声で、白い肌で、長い髪で、「ありがとう」と言ってくれたに違いない。


 私と同じ年の子が、20歳という若さで死んだこと、
20歳という若さで友達を失ったことを、私は決して忘れない。

 一年もせずに、ボデのことがあったけど、私は彼らが、
誰かの話の中とか、私の心の中とか、誰かの写真の中とか、そういうところで
生きていってくれればいいと、静かに思えるようになって来た。


 こんなことを言うと、縁起でもないと言われそうだけど、
私は自分が短命な気がしてならない。ずっと、一種の焦燥感にとらわれて生きている。

 かつて出会った人にこう言われたことがある。
「なんで、自分が薄命だって分かった?」

 その人にも、私の命が長くないことが分かったらしい。
 
 私は今でも、自分には残された時間が、あと少ししかないと思ってしまうくせがある。
それは、ユカリやボデのことによって、再確信されたように思う。













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