「滅亡の命日に起こる不吉な現象」
寿永四年(1185)三月二十四日。平家一門は、源氏の軍勢により、壇の浦で滅びた。
それから800年近く経った現在まで、この付近では数多くの不思議な怪現象が起きていたという。
甲羅に苦悶の表情を浮かべた「平家ガニ」。金色のウロコに白色の斑点がある体長10cmほどの鯛の一種「小平家(こべけ)」は、入水した平家の女官たちの化身だと伝えられている。

壇の浦(2000.05.01)
壇の浦北方の火の山公園や亀山の上空では、奇怪な火の玉が飛んでいるのを目撃されている。
浜辺に住む老人によると、平家が滅んだ命日3月24日には、
「八百年ぶりに発見された神器」
赤間神宮は、明治8年(1875)に阿弥陀寺を廃して新たに建てられたもので、安徳天皇陵、平家七盛塚がある。

赤間神宮と安徳天皇御陵
江戸時代、関門海峡が荒れ狂い、船の遭難が多く水死者が絶えなかったという。
そこで、阿弥陀寺の壇円和尚が、紅石山一帯に無縁仏として葬られていた平家の墓石を集めて供養したところ、波は静まり人魂の群れも消えたという。
七盛塚は、そのとき集められた平家一門の墓石である。
平家一門の墓
【前列】
参議中納言・平教盛、大将中納言・平知盛、参議修理大夫・平経盛、副将能登守・平教経、右中将・平資盛、左中将・平清経、左少将・平有盛
【後列】
従二位尼・平時子、丹後守侍従・平忠房、越中次郎兵衛・盛継、飛騨四郎兵衛・景俊、飛騨三郎左衛門・景経、上総五郎兵衛・忠光、伊賀平内左衛門・家長
芳一堂
安徳帝の最期については謎の伝説が多く、安徳帝の墓は山口県内で三ヶ所、全国で17ヶ所もあるという。
皇室のシンボルである三種の神器、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)、八咫の鏡(やたのかがみ)。(そのうちの幾つかは模造されていた)
勾玉は源氏の武将が御座船から拾いあげ、剣は海底に沈み、鏡は安徳帝とともに海に沈み行方不明になっていた。
昭和30年(1955)、合戦最後のとき、平家の侍大将の一人が密かに鏡を運び、岡山県の若宮神社跡に埋めたという記録が古文書『作東誌』から見つかった。
そこを掘ってみると、白銅製の和鏡のかけらが見つかったのだ。
そして、その八咫の鏡が赤間神宮に奉納されたという。
山口県大津郡油谷町大字向津具下
「楊貴妃の墓は二位の尼の墓か?」
佐藤氏は、同じ山口県の向津具半島に、中国の楊貴妃の墓があるという伝説に惹かれて現地を訪れた。

楊貴妃の墓。中央の五輪塔がそれである。(2000.05.02)
唐の玄宗皇帝の寵愛を一身に受けた楊貴妃は、安禄山の乱にあって蜀へ逃げる途中、長安の郊外、馬嵬(ばかい)の仏堂で絞殺されたと史書には記されている。
しかし、巷では楊貴妃は実際には死んでいないという噂もあったという。
ここ久津地方では、昔から楊貴妃にまつわる伝説が語り継がれてきた。
二尊院に残されている江戸時代の文書には、言い伝えが記されている。
唐の天宝拾五年(756)七月、空ろ舟にのった楊貴妃は、唐渡口という所に漂着。
まもなく死去したので、里人が相寄り当寺院に埋葬したという。

氏は、現地の二尊院で、壇の浦で沈んだはずの二位の尼「平時子」が最後に死んだ場所が、この楊貴妃の墓がある所だという確信を抱いた。
二尊院の仏壇には皇室の菊の紋が刻まれ、住職の僧衣にも紋があるという。
同院に安置されている仏像二体には文永五年(1268)の銘があり、鎌倉時代に製作されていた。
楊貴妃の墓は、実は安徳天皇(菊の紋)を擁する平家の高貴な人物の墓ではないのか、と推理したのだ。
平家の関わりとして、
徳島県三好郡東祖谷山村字下瀬
「栗枝渡の御火葬場」
口伝によると、屋島の合戦に敗れた平国盛は、安徳帝を守護して讃岐の志度から白鳥・水主庄を経て大山を越え、吉野川を溯り、寒峰越えで祖谷山に入山された。
安徳帝は文治二年(1186)正月この地にて崩御、御火葬で清め、一社を建てこれを奉る。これが、栗枝渡八幡神社である。
一説には、安徳帝は剣山より装束石(久保)・鉾立石(落合)・皇上の手橋(落合)・動物岩(中上)より栗枝を踏み、川を渡ってこの地に入り給うたともある。
これにちなんで、栗須戸を栗枝渡と改名したと伝えられている。
御火葬場跡には、注連縄が張り巡らされていた。
御火葬場(2002.08.11)

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