*第11章 ガンガーの景色 *


久美子ハウスに泊まっている旅行者10人程でボートを貸し切って、 夜明け前のガンガーに漕ぎ出してみた。
私達の他にも大小様々なボートが観光客を乗せて河に出ている。 バラナシの象徴的な景色であるガンガーの沐浴の風景を見るためだ。

静かな川面。
ぴちょんぴちょんとオールが水を掻く音だけが聞こえている。
朝の風が気持ちいい。
ゆっくりゆっくり、ボートは進む。
ゆっくりゆっくり、景色が流れる。

まだ薄暗い夜明け前から、ガートには多くの人達が溢れている。
だんだんと明るくなるにつれ、彼らの姿が色をまとう。
サリーを身にまとったまま静かに体を水に浸す女性達。
水をすくった両手を頭より上に上げ、朝日に拝む姿が美しい。
長い長い年月、毎日毎日繰り返されてきたであろうその風景。

茶色い河で、ゴシゴシ洗濯をする人。
泡をたてながら自分の体や頭を洗う人。
歯磨きまでする人。
いったいそれは綺麗になっているんやろか?

何やら大きな塊が浮かんでいる。
よくよく見てみると、死んだ牛のようだ。
あばら骨らしき形が残っている。
カラスが数羽、その肉をついばんでいる。

そう言えば、宿で会った旅行者が 「ガンガーで泳いでたら水中で何かにぶつかって、 よく見たらそれは人の死体やってん。ビックリして溺れそうになったで!」 とも言ってたっけ。

墓を持たないヒンドゥー教徒は、死後、ここ聖地バラナシで焼かれ、 その遺灰をガンガーに流される事によって解脱できると信じている。
だからこの街には、ここで荼毘に付される事を願う信者が多く集ってくる。
天寿を全うして死を迎えた者は、火葬してもらえるけど 不慮の事故などで無くなった子供や自殺者などは 遺体のまま布につつまれ河に流されるらしい。
そんな遺体が、一度水中に沈んだ後、腐乱して浮き上がってきてるのだ。
この街では、いやがうえにも、“死”というものを身近に感じずにはいられない。

そんな事を思いながら30分もすると、火葬場が見えてきた。

井桁に組まれた真っ黒く焦げた薪の山がいくつかならんでいる。
そのうちの一つがメラメラと燃えている。
天寿を全うした抜け殻としての誰かの肉体が、今まさに焼かれている。
その近くでは、お腹をすかせた野良犬がおこぼれを狙っている。

そこへ、真っ白い布に包まれた新しい遺体が、竹で編まれた担架で運ばれてきた。
赤・オレンジ・黄色・ピンク…明るい色の花々がたむけられている。
手際よくお祈りなどの段取りが進み、火がつけられた。

なんだろう?この気持ち。
同じボートのみんなも黙ってその様子にじっと目を凝らしている。
“怖い”という感じではない。むしろ、美しい静かな景色。
牛やカラスや犬や人間や、土や火や風や花や水や 生とか死とかの垣根がここでは低く感じるからかな?

「今燃えてるあの人は、どんな人生だったんだろう?
今、魂は肉体から離れて、この様子を見てるんやろうか?
周りで見守る家族の気持ちはどうなんだろう?」
意識を重ね合わせてみようとするけど、よく分からない。
ただただ心の中でそっと手を合わせた。

と、人が神妙な気分になっているのに今度はなんだかとっても騒がしい団体が。
数人の男の子達が、水中ではしゃぎまくって遊んでる。
水の掛け合いをしたり、泳ぐ競争をしたり。
私達のボートに気付くと、何やら一生懸命呼びかけてきた。
「お〜い、カモン!写真撮ってくれ〜!」
その無邪気な楽しそうなグループに近付いてよくよく見ると 結構いい年したおっさんじゃん!ぷぷぷ、まったく。

こんなに元気いっぱいの“生”も、その先にある“死”も 別々に切り離された真逆のものではなく、 一つのサイクルとしてぐるぐると繋がっているもの。
時代も国境も超越した、その大きな輪の中に、私もまた存在しているのか?

そんな事をぐるぐる考えながら、心はほのかな安堵感に包まれる。
何もかも飲み込んでたぷたぷと流れるガンガーの景色は
旅人達のそんな勝手な思いも飲み込みながら、 今日も明日もこれからも、滾々と流れ続けるんだろうな。


やけに楽しげな人達

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