『ソウル7日間徒然日記』 1999年7月8日(木)記


 
第7号


2日目の1――貧乏人は今回の旅行でも歩いてます/
                 歩け、歩け! ソウル!! の巻

1999年9月10日(金)発行

 

■ 朝

 

 7時50分起床。眠い。明け方は肌寒く、クローゼットから毛布を一枚ひきずりだしてきたほどだった。

 いつもなら海外で朝起きると、NHKBSでニュースを見るのだが、このホテルでは衛星放送は入らない。韓国と日本では時差もないので、本当だったらリアルタイムで見られるのに。残念。

 あきらめて英語放送もあるのでそれを見る。CNNか何かだろうか、と思っていたのだが、天気予報でどういうわけか、日本の天気も表示している。東京近辺の天気が出るのはよいとして、なんでわざわざ東北の三沢の天気が出るんだ? と思ったら、これは在韓米軍放送(AFKN)なのだった。
 そっか。韓国にもアメリカ軍って駐留しているんだよな。天気予報では、お隣の日本にある基地の天気も伝えているわけか。

 よく、日本でも一部のアメリカ兵の暴走(?)行為が問題になるけど、やはり韓国でも同じような事件が起こるというニュースを見たことがある。
 似たような問題を、日本も韓国も抱えているんだのう、と思いつつ天気予報を見ていたけど、晴れだのくもりだのはともかく、気温が70とか80とか、とんでもない数値で表示されている(数字は適当。覚えてない)。
 ああ、気温を摂氏ではなく華氏で表示しているのか。何がなにやらさっぱりわからん。

 がちゃがちゃとダイヤル式のチャンネルを回すと、韓国語放送の方は、日本の「お母さんと一緒」みたいな番組を流している。ふーん。セサミストリートなんかはめちゃめちゃアメリカくさい感じがするけど、こちらは同じ東洋人が出演しているせいか、あまり違和感がない。なんか不思議。着ぐるみが似ているせいかな?

 


  

 

■ チョンノ[鍾路:Chongno]から
             セジョンノ[世宗路:Sejongno]へ

 

 9時ちょっと前、ホテルを出る。すでに日差しが強く、暑い。ちょうど通勤時間にあたるのか、歩道にはビジネスマンが多い。
 昨日、この通りの雰囲気を、わたしは道幅の広い渋谷センター街などと評したが、道ばたにはゲロった跡などもあり(下品ですみません)、いっそうセンター街らしき雰囲気をかもしだしている。繁華街なんだなあ、としみじみ思う。

 さて、今日の予定はクンニプ・チュンアン・パンムルグァン[国立中央博物館]とキョンボックン[景福宮:Kyongbokkung]、あと時間があれば、同じキョンボックンの敷地内にあるクンニプ・ミンソク・パンムルグァン[国立民族博物館]の見学である。
※Attention! 長すぎるので一部アルファベット表記略)

 ホテルからの行き方としては、ホテル前のチョンノを西へ向かってセジョンノにぶつかるまで歩き、右に曲がって北上する、というルートである。
 距離にすると1.5km弱くらいかな? わたしの感覚では余裕で歩いていける範囲内だ。

 チョンノをしばらく歩くと、通りの向こう側に、反り屋根&壁に丹青(たんせい)を施された2階建てくらいの建物が見えてくる。どうやらあれがポシンガ(ク)[普信閣:Posingak]らしい。
 なんだ、あんなに近いならわざわざ行くまでもないな。
 でも、この時ポシンガは工事中で、中には入れないようだった。

 大きな通りにぶつかる。ウジョングンノ[郵政局路:Ujonggukno]だそうな。通りのこちら側には大きなビルが建っていて、まだ工事中のようだった。
 このビル、半円みたいな形をしているだけでなく、最上階付近で建物がいったん途切れ、ウェディング・ケーキみたいに柱だけの構造になっている部分があり、非常に目立つ。実際ソウル滞在中、この界隈で方向を見失った時は、いつもこの建物を目印にして歩いていた。
 でも何のビルだったんだろう? サムソン生命かな?

 通りを渡った所に、チョンガ(ク)[鍾閣:Chonggak]の地下鉄出口のひとつがあるのだけれど、少し広いスペースに街路樹がたくさん植えられ、さらに銀色に光る金属でできた箱のような椅子がたくさん置いてあって、けっこうな数のいろいろな人が座っており、憩いの広場のようになっていた。

 かなり距離を歩いたのだが、なかなかセジョンノにたどりつかない。間違ってないよな、とチョンノの青い車用道路標識を見上げ、セジョンノというハングルがまだ道の先にあることを確認する。しばらく歩くと交差点の角に古い韓国風の建物(碑閣)があり、その向こうにこれまた大きな通りがある。どうやらこれがセジョンノらしい。道の真ん中の草木が植えられた中央分離帯の所には、大きなブロンズ像が建っている。
 おお、これがイ・スンシン(李舜臣)将軍の像か。
 ひー、でっけー。この距離から見てこれだけ大きく見えるのだから、すんごく大きな像なんだろうな。

 実は、キョンボックンに行くのにわざわざチョンノ→セジョンノルートを選んだのは、この像を見たかったからなのだ。

 このイ・スンシン将軍とは、中国において「岳飛を知らぬ中国人はいない」のと同様、「イ・スンシンを知らぬ韓国人はいない」――と言っていいほど韓国国内では有名な武将なのではなかろうか?

 せっかくだから写真を撮ろうかな、と思ったのだけど、人通りが多くて恥ずかしいのであきらめる。別の日に朝早く来て撮ろう。

 


  

 

■ セジョンノからキョンボックンへ

 

 さて、キョンボックンに向かって、セジョンノの東側の歩道を歩き続ける。するとなぜがこの歩道沿いには、たくさんのガードマンらしき男性が立っていた。

 なぜ「ガードマンらしき」なのかというと、服装が上は青のギンガムチェックの半袖シャツに、下は生成のチノパンという、一見非常にさわやかな印象を与える格好だったからだ。
 しかし、腰にはがっちり警棒が吊るされていて、これはソウルの警官の夏服なのか、それとも民間のガードマンの制服なのかがよくわからない。
 その後地図で見たら、このあたりはアメリカ大使館などの建物があるところだった。ということは、まあ何にせよ警備の人だったんだろうな。

 左手にセジョン・ムンファ・フェグワン[世宗文化会館]などを眺めつつ北へ向かって進むと、やがてセジョンノは栗谷路にぶつかってT字路となる。その道が交わるちょうど正面に、クァンファムン[光化門:Kuanghwamun]があった。ああ、ここがキョンボックンなんだ。
 この道を渡ればキョンボックンに行けるんだな、ということは見ればわかるのだが・・・はて困った。わたしの位置からでは、このT字路には横断歩道も歩道橋もないぞ。

 そういえばいつだったか見たTV番組で、ソウルの街であまり自転車を見かけないのは、横断歩道が少なくて、階段で昇り降りする地下道が多いからだ、というような話をしていたことがあったような気がする。ということは、近くに地下道があるはずだ。

 というわけであたりを見回して地下道を探すと・・・あったあった。後ろに地下道の入り口がある。
 だが、この地下道はセジョンノを東から西へ横断することしかできず、北にあるキョンボックンには直接つながっていないのだった。あきらめてとりあえず地下道を渡る。
 地上に出ると、すぐ目の前に警察学校のような建物があった。この建物の周辺にも、上は白と紺のチェックのシャツ、下が濃紺のズボンというお揃いの服を着たガードマンらしき男性たちが立っていた。

 さて、どうやってキョンボックン側に渡ろうか、とあたりを見回すと、もう少し先に行ったところに横断歩道があった。ほっ。やっと向こう側に行ける。

 横断歩道を渡る。しかし、ソウルの横断歩道はどういう決まりがあるのかよくわからないが、歩行者が見る信号の緑(横断OK)の時間が非常に短い。緑になった、と思ったら、もうすぐに点滅が始まっている。でもそのかわり(?)なのか、緑の点滅時間がやたらと長い。

 日本じゃ基本的に緑の点滅は「そろそろ赤になるから渡るのはやめなさい」という意味だけど(まあ、たいていの人が「ダッシュで渡れ!」と解釈してるが)、どうもこちらでは緑の点滅も横断OKの意味になるらしい。でもこれじゃ、いつ赤に変わるかわからない。

 というわけで、これは点滅が始まったばかりなのだろうか、それとも点滅が始まってだいぶたっていて、もうすぐ赤に変わるのだろうか、という判断がつかない場合には、わたしは横断歩道を渡らなかった(地元の人が渡っている時には、その後にくっついていった)。

 ソウルの人はこれで不便じゃないのかなあ、と思っていたのだけれど、日本に帰国後、ソウルの小学生が「あとどれくらいで緑の点滅から赤に変わるのか、残存時間を表示する信号のアイデアを発表」みたいな記事を何かで読んだ。
 そっか、やっぱり不便と思うソウルの人もいるんだな。

 あと、こちらの車はみんな、かなりがんがんスピードを出してとばしているけど、歩行者保護義務はあるらしく、横断歩道を渡りながら生命の危機を感じることはなかった。
※Attention! 詳しくは『上海6日間★徒然日記』の1日目の4、5を読んでみてくださいm(_ _)m)

 でも、信号の手前の停止線を守る人も少なかった。それどころか、赤信号だけど、「よっしゃ、安全」と判断される場合には、そろそろ〜〜という速度で警戒しながら横断歩道を横切り、その後猛然としたスピードで走り去っていく車もけっこう見た(さすがに大きな通りではなかった)。

 いいのかなあ、あれ。まあ、わたしは絶対やらないけど。

 横断歩道を渡り、昔懐かしい、何でも売っていそうな雑貨屋風の店の前を通り、キョンボックンの敷地の南西の端に出る。さて、入り口はどこなんだろう?
 ガイドブックを見てもよくわからなかったが、キョンボックンの西側の孝子路に入り口らしき門を発見。行く。
※Attention! 後で気付きましたが、クァンファムンにも入り口はありました。門の建物がとても大きかったので、小さな入り口がわたしの目には入らなかったようです)

 キョンボックンを囲む背の高い外壁を右手に、強い日差しをやわらげてくれる木陰と、夏らしい鮮やかなみどりの街路樹が続く歩道を進むと、やはり遠くから見た門らしいところは、キョンボックンの入り口のひとつだった。
 入ってすぐ右側に小さなチケット売場のような建物がある。ここでお金を払うのかな? と思ったら、これは単なる警備員さんがいるブースで、素通りしてよいのだった。なるほど、キョンボックンには有料の区域と無料の区域があるのか。

 わたしが使ったこの入り口付近には、きれいに整備した庭園などもあり、ちょっとした散歩コースになっている。無料というのはありがたい。

 さあ、博物館見学から行くぞ。

おわり

 

 今回のMEMO  

イ・スンシン[李舜臣:諡号(おくり名)は忠武侯](1545−98)


 本文でも触れましたが、この人はきっと韓国で一番有名な武将でしょう。
 すっごく簡単に紹介すると、壬辰・丁酉倭乱(日本でいうところの、豊臣秀吉が起こした文禄・慶長の役、1592〜98年)で活躍した、イシ・チョソン時代の海の名将です。
(というわけで、今回はあえて朝鮮という呼称を使用しています)
 



 イ・スンシンは1545年3月5日、ハンソン[漢城:当時のソウル]のコンチョンドン[乾川洞]に、リャンバン[両班]であった李貞の三男として生まれました。

 1576年、32歳の時に科挙の武科試験に合格。その後12年間、陸上での北方守備の任にあたり、1589年からは全羅巡察使イ・グァン[李洸]の元で任務につきましたが、秀吉の朝鮮出兵の前年である1591年2月、抜擢されて全羅東道水軍節度使(司令官)となります。

 さて、ここで出てくるのが、秀吉の朝鮮出兵(日本ではこうとも言う)です。
 



 1590年、日本では長期間にわたる戦国時代の内乱状態に豊臣秀吉が終止符を打ち、日本統一が達成されました。
 そして1592年4月、秀吉は15万(一説では18万)の軍隊を動員して朝鮮への侵略を開始します。これを日本では文禄の役、韓国ではイムジン・ウェラン[壬申倭乱]といいます。

 秀吉の朝鮮出兵は、日本統一が達成される以前から準備されていました。
 また、出兵の理由に関しては、明(当時の中国)を服属させるために、明攻撃の道案内をイシ・チョソンにさせるためであったとか、ようやく統一した日本国内における自分の政権を安定させるために、不満をもつ勢力の関心を国外に向けさせるためとか、いくつか説があるようですが、つまりは秀吉のアジアでの覇権を握りたいという征服欲を満たさんがため、という所に帰結するようです。

 出兵した日本軍のうち、小西行長・加藤清正らの先方隊は、プサン[釜山]に上陸してから20日ほどでソウルを占領し、日本軍はプサン上陸から3か月あまりで朝鮮全土を占領しました。

 このように、当初戦局を有利に進めていた日本軍ですが、1592年5月、イ・スンシンの水軍が初めて出動し、オクポ[玉浦]、サチョン[四川]で次々と日本水軍の船を撃沈。そして7月には、ハンサンド[閑山島]の海戦で日本水軍を破って朝鮮南岸の制海権を握り、朝鮮半島奥深くまでのびた日本軍の輸送・補給線に大打撃を与えます。

 イ・スンシンはこれらの海戦の功により、1595年には全羅左水使を兼ねて、三道(忠清・全羅・慶尚)水軍統制使となりました。

 海で官軍が勝利し始めたのと同じ頃、陸では全国各地の民衆が自発的に義兵を組織し、地理にかなった武器と戦術で日本軍を苦しめました。
 さらにこの頃、明の支援軍が到着し、李氏朝鮮側に加勢します。

 劣勢となった日本軍は、態勢を立て直すために休戦を提案しましたが、折り合いがつかず、交渉は決裂。そして1597年、ふたたび秀吉は14万の軍隊を送って侵略を始めました(これが慶長の役。韓国ではチョンユ・ウェラン[丁酉倭乱])。

 この頃、イ・スンシンは一時的に水軍の指揮官の立場を罷免されていました。どうやらその功績をねたまれて、日本軍と内通している、と同僚に讒言(ざんげん)されたのが原因のようです。
 おかげで危うく死刑になるところでしたが、大臣のチョン・タク[鄭啄]に助けられて減刑され、一兵卒として従軍(白衣従軍。この場合、懲罰的な意味がある)を続けました。

 こうした指揮系統の混乱に乗じて、日本軍は水陸両面から総攻撃をかけ、一時期的に南海岸地域を占領したのですが、ふたたび指揮官に返り咲いたイ・スンシンによって撃破されます。
 さらにこの頃から、明と李氏朝鮮の連合軍による本格的な反撃を受け、日本軍は敗走を始めます。

 そして1598年8月、秀吉が病死したのをきっかけに、日本軍は朝鮮から本格的な撤退を開始しました。
 逃げる日本軍に、朝鮮水軍はノリャン[露梁]沖で最後の一撃を加えましたが、イ・スンシンこの海戦で銃弾を受け、壮烈な戦死を遂げます。
 そしてその年の12月、日本軍はほぼ撤兵を完了し、6年以上に渡る戦争はようやく終決したのでした。



 しかし、この戦争がイシ・チョソンに与えた被害はきわめて大きなものでした。
 無差別殺戮による人口の激減、寺院や王宮などの建造物の焼失、文化財や書籍の破壊・略奪、耕地面積の大幅減少のほか、5〜6万人の農民や技術者たちが捕虜として日本に連行され(7500人ほどがどうにか帰国)、いちじるしく国力が衰えてしまいました。
 



 イ・スンシンの紹介よりも、壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)の方に力が入っちゃいましたね。わたしの手持ちの資料には、あまり情報が載っていなかったもので、こうなってしまいました。
 日本での知名度はいまいちなんで仕方ないのかな? ソウルの本屋さんでは、子供向けの絵本にも載ってましたけど。

 また、どの本にも載っていなかったのですが、この秀吉の起こした戦争に関連しては、日本人の間では「耳塚」と呼ばれているものが有名でしょう。
 1597年の丁酉(慶長)の戦争では、秀吉は兵士たちに「鼻斬令」なるものを出して、イシ・チョソン側の兵士だけでなく、一般市民たちをも殺し、その鼻を切り取って、その数の多さで戦功を競ったそうなんですね。数が多ければ多いほど、当然もらえる報酬も多いので、小さな赤ん坊までその殺戮の対象になったそうです。
 切り取られた鼻は塩漬けにして日本に送られた後埋められ、「鼻塚」が築かれました。現在も確か、「耳塚」という名前で京都にあるはずです。

 どこでどうして「鼻塚」が「耳塚」になってしまったのかはわからないですが、この名前の違いは、それだけこの事実に対する日本人の認識が浅い(あるいはない)ことの表れではないか、と考えられます。

 秀吉は日本では、一雑兵の身から出発して、天下統一を成し遂げるまでに成長した「立身出世」の人として人気がありますが(もちろんそれも事実なんだけど)、こういうこともしたんだよ、ということを日本人として知っておくべきだよなあ、とわたしは思います。
※Attention! 参考資料が見あたらなかったので、聞きかじったことをそのまま書いています。間違っているかも知れません。ご容赦。補足求む)

 話をイ・スンシンに戻して。
 この他にもイ・スンシンは、コブクソン[亀甲船]を実戦に使ったことでもが有名です。
 コブクソンとは、世界最初の鉄甲船で、絵で見ると、本当に船の上が亀の甲羅のような模様がついた鉄板で覆われています。
 船首につけられた、竜の頭をデザインした煙突からは毒気のある煙が吐き出されて敵の接近をふせぎ、煙幕の役割もはたします(火も出たらしい)。一隻の船につき72の銃筒口が装備され、さらに船上には全面に刀の刃を上に向けて林立させてあったそうです。

 コブクソンは国立中央博物館か、国立民族博物館のどちらかに展示されていたはずです。わたしは見逃しました(T_T)。
 興味のある方はどうぞお見逃しなく(^ ^)。

 

参考文献:
・『知っておきたい韓国朝鮮』 歴史教育者協議会=編集 青木書店
・『朝鮮の歴史』 朝鮮史研究会=編 三省堂
・『韓国の歴史』(国定韓国高等学校歴史教科書)
  チョ・チャンスン(チョ昌淳)、ソン・ヨノク(宋連玉)=訳 明石書店
・『韓国の歴史』
  キム・ヤンキ(金両基)=監修 カン・ドクサン(姜徳相)、チョン・ソンミョ(鄭早苗)、中山清隆=編  河出書房出版

※このコーナーは不定期です。

 

 今回のおこづかい帳  


今回はなし

今回の小計:W0
支払い総計:W11,400(約1,226円)+34,591円

(※レートは1999年7月当時、¥100=W930で計算しています)

 

 編集後記 


 ソウル・ストリート・リポート(?)でした。いかがでしたでしょうか?

 今回、イ・スンシンと比較するのにわざわざ中国の岳飛を出してきたのは、日本で「○○を知らぬ日本人はいない」というような引き合いに出される武将って誰だろう? と考えて、ついに思いつかなかったからなんですね(^ ^;)。
 友人たちに聞いても、それぞれの出身地に応じてご贔屓の武将がいますので、あまり役に立ちませんでした。

 ちなみに岳飛[がくひ:中国語でYue Fei](1103年〜1141年)は、中国の時代区分が北宋から南宋へ変わる時代に活躍した武将です。イ・スンシンよりも450年くらい前の人になりますね。

 この時代、中国は北方に興った金という国から攻撃を受けていたわけなんですけど、岳飛はこの戦いにおいて数々の武功をあげていて、「抗金名将(こうきんのめいしょう)」のひとりに数えられています。
 異民族の侵攻に対して功績があったということで、とくに人気があるようです(イ・スンシンと似てるな・・・)。

 しかし、徹底抗戦を主張する岳飛は、金との和睦を望む秦桧(しんかい)に陥れられて捕らえられ、ついには拷問の末、獄死してしまうのです。
 無実の罪を晴らされ、その名誉がようやく回復されたのは、秦桧の死後のことでした。

 それでは、また次号でお会いしましょう。

 


2日目の1――貧乏人は今回の旅行でも歩いてます/
                    歩け、歩け! ソウル!! の巻

2日目の2――見どころ満載/国立中央博物館・前編の巻

2日目の3――キムパで休憩/国立中央博物館・後編の巻

2日目の4――いろいろ気付かぬにぶい自分を反省/クァンファムン前にて、の巻

2日目の5――そこにはいまでも花が手向けられていた/キョンボックンの巻

2日目の6――チャジャンミョンとはなんぞや?/ソウル、そぞろ歩きの巻

2日目の7――本屋はパラダイス! Part2/本屋さんめぐりの巻

2日目の8――韓国料理が目白押し/白花酒幕の巻

2日目の9――白花酒幕で夜は更けて/日韓話題あれこれの巻

2日目の10――オープン・カフェでパッビンスの巻

1日目

3日目

4日目

5日目

6日目

7日目

TOPへ


『ソウル7日間徒然日記』

E-mail to : chihalu@geocities.co.jp

Copyright(C) 1999 Office EST3