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第7号 | |
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2日目の1――貧乏人は今回の旅行でも歩いてます/ 歩け、歩け! ソウル!! の巻 | |
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■ 朝 | |
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7時50分起床。眠い。明け方は肌寒く、クローゼットから毛布を一枚ひきずりだしてきたほどだった。 いつもなら海外で朝起きると、NHKBSでニュースを見るのだが、このホテルでは衛星放送は入らない。韓国と日本では時差もないので、本当だったらリアルタイムで見られるのに。残念。 あきらめて英語放送もあるのでそれを見る。CNNか何かだろうか、と思っていたのだが、天気予報でどういうわけか、日本の天気も表示している。東京近辺の天気が出るのはよいとして、なんでわざわざ東北の三沢の天気が出るんだ? と思ったら、これは在韓米軍放送(AFKN)なのだった。 よく、日本でも一部のアメリカ兵の暴走(?)行為が問題になるけど、やはり韓国でも同じような事件が起こるというニュースを見たことがある。 がちゃがちゃとダイヤル式のチャンネルを回すと、韓国語放送の方は、日本の「お母さんと一緒」みたいな番組を流している。ふーん。セサミストリートなんかはめちゃめちゃアメリカくさい感じがするけど、こちらは同じ東洋人が出演しているせいか、あまり違和感がない。なんか不思議。着ぐるみが似ているせいかな?
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■ チョンノ[鍾路:Chongno]から | |
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9時ちょっと前、ホテルを出る。すでに日差しが強く、暑い。ちょうど通勤時間にあたるのか、歩道にはビジネスマンが多い。 さて、今日の予定はクンニプ・チュンアン・パンムルグァン[国立中央博物館]とキョンボックン[景福宮:Kyongbokkung]、あと時間があれば、同じキョンボックンの敷地内にあるクンニプ・ミンソク・パンムルグァン[国立民族博物館]の見学である。 ホテルからの行き方としては、ホテル前のチョンノを西へ向かってセジョンノにぶつかるまで歩き、右に曲がって北上する、というルートである。 チョンノをしばらく歩くと、通りの向こう側に、反り屋根&壁に丹青(たんせい)を施された2階建てくらいの建物が見えてくる。どうやらあれがポシンガ(ク)[普信閣:Posingak]らしい。 大きな通りにぶつかる。ウジョングンノ[郵政局路:Ujonggukno]だそうな。通りのこちら側には大きなビルが建っていて、まだ工事中のようだった。 通りを渡った所に、チョンガ(ク)[鍾閣:Chonggak]の地下鉄出口のひとつがあるのだけれど、少し広いスペースに街路樹がたくさん植えられ、さらに銀色に光る金属でできた箱のような椅子がたくさん置いてあって、けっこうな数のいろいろな人が座っており、憩いの広場のようになっていた。 かなり距離を歩いたのだが、なかなかセジョンノにたどりつかない。間違ってないよな、とチョンノの青い車用道路標識を見上げ、セジョンノというハングルがまだ道の先にあることを確認する。しばらく歩くと交差点の角に古い韓国風の建物(碑閣)があり、その向こうにこれまた大きな通りがある。どうやらこれがセジョンノらしい。道の真ん中の草木が植えられた中央分離帯の所には、大きなブロンズ像が建っている。 実は、キョンボックンに行くのにわざわざチョンノ→セジョンノルートを選んだのは、この像を見たかったからなのだ。 このイ・スンシン将軍とは、中国において「岳飛を知らぬ中国人はいない」のと同様、「イ・スンシンを知らぬ韓国人はいない」――と言っていいほど韓国国内では有名な武将なのではなかろうか? せっかくだから写真を撮ろうかな、と思ったのだけど、人通りが多くて恥ずかしいのであきらめる。別の日に朝早く来て撮ろう。
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■ セジョンノからキョンボックンへ | |
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さて、キョンボックンに向かって、セジョンノの東側の歩道を歩き続ける。するとなぜがこの歩道沿いには、たくさんのガードマンらしき男性が立っていた。 なぜ「ガードマンらしき」なのかというと、服装が上は青のギンガムチェックの半袖シャツに、下は生成のチノパンという、一見非常にさわやかな印象を与える格好だったからだ。 左手にセジョン・ムンファ・フェグワン[世宗文化会館]などを眺めつつ北へ向かって進むと、やがてセジョンノは栗谷路にぶつかってT字路となる。その道が交わるちょうど正面に、クァンファムン[光化門:Kuanghwamun]があった。ああ、ここがキョンボックンなんだ。 そういえばいつだったか見たTV番組で、ソウルの街であまり自転車を見かけないのは、横断歩道が少なくて、階段で昇り降りする地下道が多いからだ、というような話をしていたことがあったような気がする。ということは、近くに地下道があるはずだ。 というわけであたりを見回して地下道を探すと・・・あったあった。後ろに地下道の入り口がある。 さて、どうやってキョンボックン側に渡ろうか、とあたりを見回すと、もう少し先に行ったところに横断歩道があった。ほっ。やっと向こう側に行ける。 横断歩道を渡る。しかし、ソウルの横断歩道はどういう決まりがあるのかよくわからないが、歩行者が見る信号の緑(横断OK)の時間が非常に短い。緑になった、と思ったら、もうすぐに点滅が始まっている。でもそのかわり(?)なのか、緑の点滅時間がやたらと長い。 日本じゃ基本的に緑の点滅は「そろそろ赤になるから渡るのはやめなさい」という意味だけど(まあ、たいていの人が「ダッシュで渡れ!」と解釈してるが)、どうもこちらでは緑の点滅も横断OKの意味になるらしい。でもこれじゃ、いつ赤に変わるかわからない。 というわけで、これは点滅が始まったばかりなのだろうか、それとも点滅が始まってだいぶたっていて、もうすぐ赤に変わるのだろうか、という判断がつかない場合には、わたしは横断歩道を渡らなかった(地元の人が渡っている時には、その後にくっついていった)。 ソウルの人はこれで不便じゃないのかなあ、と思っていたのだけれど、日本に帰国後、ソウルの小学生が「あとどれくらいで緑の点滅から赤に変わるのか、残存時間を表示する信号のアイデアを発表」みたいな記事を何かで読んだ。 あと、こちらの車はみんな、かなりがんがんスピードを出してとばしているけど、歩行者保護義務はあるらしく、横断歩道を渡りながら生命の危機を感じることはなかった。 でも、信号の手前の停止線を守る人も少なかった。それどころか、赤信号だけど、「よっしゃ、安全」と判断される場合には、そろそろ〜〜という速度で警戒しながら横断歩道を横切り、その後猛然としたスピードで走り去っていく車もけっこう見た(さすがに大きな通りではなかった)。 いいのかなあ、あれ。まあ、わたしは絶対やらないけど。 横断歩道を渡り、昔懐かしい、何でも売っていそうな雑貨屋風の店の前を通り、キョンボックンの敷地の南西の端に出る。さて、入り口はどこなんだろう? キョンボックンを囲む背の高い外壁を右手に、強い日差しをやわらげてくれる木陰と、夏らしい鮮やかなみどりの街路樹が続く歩道を進むと、やはり遠くから見た門らしいところは、キョンボックンの入り口のひとつだった。 わたしが使ったこの入り口付近には、きれいに整備した庭園などもあり、ちょっとした散歩コースになっている。無料というのはありがたい。 さあ、博物館見学から行くぞ。 おわり
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■ 今回のMEMO ■ | |
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◆イ・スンシン[李舜臣:諡号(おくり名)は忠武侯](1545−98) | |
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1576年、32歳の時に科挙の武科試験に合格。その後12年間、陸上での北方守備の任にあたり、1589年からは全羅巡察使イ・グァン[李洸]の元で任務につきましたが、秀吉の朝鮮出兵の前年である1591年2月、抜擢されて全羅東道水軍節度使(司令官)となります。 さて、ここで出てくるのが、秀吉の朝鮮出兵(日本ではこうとも言う)です。
秀吉の朝鮮出兵は、日本統一が達成される以前から準備されていました。 出兵した日本軍のうち、小西行長・加藤清正らの先方隊は、プサン[釜山]に上陸してから20日ほどでソウルを占領し、日本軍はプサン上陸から3か月あまりで朝鮮全土を占領しました。 このように、当初戦局を有利に進めていた日本軍ですが、1592年5月、イ・スンシンの水軍が初めて出動し、オクポ[玉浦]、サチョン[四川]で次々と日本水軍の船を撃沈。そして7月には、ハンサンド[閑山島]の海戦で日本水軍を破って朝鮮南岸の制海権を握り、朝鮮半島奥深くまでのびた日本軍の輸送・補給線に大打撃を与えます。 イ・スンシンはこれらの海戦の功により、1595年には全羅左水使を兼ねて、三道(忠清・全羅・慶尚)水軍統制使となりました。 海で官軍が勝利し始めたのと同じ頃、陸では全国各地の民衆が自発的に義兵を組織し、地理にかなった武器と戦術で日本軍を苦しめました。 劣勢となった日本軍は、態勢を立て直すために休戦を提案しましたが、折り合いがつかず、交渉は決裂。そして1597年、ふたたび秀吉は14万の軍隊を送って侵略を始めました(これが慶長の役。韓国ではチョンユ・ウェラン[丁酉倭乱])。 この頃、イ・スンシンは一時的に水軍の指揮官の立場を罷免されていました。どうやらその功績をねたまれて、日本軍と内通している、と同僚に讒言(ざんげん)されたのが原因のようです。 こうした指揮系統の混乱に乗じて、日本軍は水陸両面から総攻撃をかけ、一時期的に南海岸地域を占領したのですが、ふたたび指揮官に返り咲いたイ・スンシンによって撃破されます。 そして1598年8月、秀吉が病死したのをきっかけに、日本軍は朝鮮から本格的な撤退を開始しました。
また、どの本にも載っていなかったのですが、この秀吉の起こした戦争に関連しては、日本人の間では「耳塚」と呼ばれているものが有名でしょう。 どこでどうして「鼻塚」が「耳塚」になってしまったのかはわからないですが、この名前の違いは、それだけこの事実に対する日本人の認識が浅い(あるいはない)ことの表れではないか、と考えられます。 秀吉は日本では、一雑兵の身から出発して、天下統一を成し遂げるまでに成長した「立身出世」の人として人気がありますが(もちろんそれも事実なんだけど)、こういうこともしたんだよ、ということを日本人として知っておくべきだよなあ、とわたしは思います。 話をイ・スンシンに戻して。 コブクソンは国立中央博物館か、国立民族博物館のどちらかに展示されていたはずです。わたしは見逃しました(T_T)。
参考文献: ※このコーナーは不定期です。
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■ 今回のおこづかい帳 ■ | |
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●今回の小計:W0 (※レートは1999年7月当時、¥100=W930で計算しています)
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■ 編集後記 ■ | |
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今回、イ・スンシンと比較するのにわざわざ中国の岳飛を出してきたのは、日本で「○○を知らぬ日本人はいない」というような引き合いに出される武将って誰だろう? と考えて、ついに思いつかなかったからなんですね(^
^;)。 ちなみに岳飛[がくひ:中国語でYue Fei](1103年〜1141年)は、中国の時代区分が北宋から南宋へ変わる時代に活躍した武将です。イ・スンシンよりも450年くらい前の人になりますね。 この時代、中国は北方に興った金という国から攻撃を受けていたわけなんですけど、岳飛はこの戦いにおいて数々の武功をあげていて、「抗金名将(こうきんのめいしょう)」のひとりに数えられています。 しかし、徹底抗戦を主張する岳飛は、金との和睦を望む秦桧(しんかい)に陥れられて捕らえられ、ついには拷問の末、獄死してしまうのです。 それでは、また次号でお会いしましょう。
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2日目の1――貧乏人は今回の旅行でも歩いてます/ | ||||||
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2日目の2――見どころ満載/国立中央博物館・前編の巻 | ||||||
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2日目の3――キムパで休憩/国立中央博物館・後編の巻 | ||||||
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2日目の4――いろいろ気付かぬにぶい自分を反省/クァンファムン前にて、の巻 | ||||||
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2日目の5――そこにはいまでも花が手向けられていた/キョンボックンの巻 | ||||||
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2日目の6――チャジャンミョンとはなんぞや?/ソウル、そぞろ歩きの巻 | ||||||
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2日目の7――本屋はパラダイス! Part2/本屋さんめぐりの巻 | ||||||
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2日目の8――韓国料理が目白押し/白花酒幕の巻 | ||||||
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2日目の9――白花酒幕で夜は更けて/日韓話題あれこれの巻 | ||||||
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2日目の10――オープン・カフェでパッビンスの巻 | ||||||
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