『ソウル7日間徒然日記』 1999年7月8日(木)記


 
第10号


2日目の4――いろいろ気付かぬにぶい自分を反省/クァンファムン前にて、の巻

1999年9月20日(月)発行

 

■ クァンファムン[光化門:Kwanghwamun]

 
 クンニプ・チュンアン・パンムルグァン[国立中央博物館]を出て、クァンファムンの方へ歩いて行く。キョンボックン[景福宮:Kyongbok‐kung]の見学のための入り口がどこかよくわからないので、とりあえずクァンファムン前を通ってむこうの方まで歩いてみるか、という算段なのだ。

 ま、どうせふらふら行くんなら、先ほどセジョンノ[世宗路:Sejong‐no]から歩いてきた時はクァンファムンを遠くからしか眺められなかったので、せっかくだから近くから見ようと行ってみる。

  

  

 クァンファムンは、門の内側から見ると、白い石垣の上に、屋根の先がぐっと沿った二階建て(単に屋根だけが2層なのかも)の建物がのった大きな楼門である。石垣部分には、上部がアーチ状のトンネルのような門が3つあいている。
 ちなみにあとで調べたら、石垣と思っていたのはどうもコンクリートだったようだ。パク・チョンヒ[朴正煕]大統領が1968年に再建させたものっていうから、まだ比較的新しい。

 さて、建物を見ながら思ったのだが、屋根の先が沿っていることも、色が鮮やかなことも、よく考えてみれば中国の建造物と同じなのだが、やはり実際に韓国の建物を見ると、その印象は全然違う。

 何だろう? 何が違うんだろう? と思い、試しに帰国後、中国の故宮(紫禁城:現、故宮博物院)や天壇の写真と見くらべてみたら、中国の建造物は赤(紅、丹)が非常に目立つのに比べ、韓国の建造物は圧倒的に灰緑色(微妙にくすんだ緑色)が強いのであった。なるほど。
 また、窓にはめられた格子も、中国は独特の複雑な文様を描くのに対し、韓国はすっきりとした目の細かい縦横の線を強調した造りとなっている。
 屋根の反りも、中国のは極端なのにくらべ、韓国のは自然な曲線だし。
 ふうん、おもしろいなあ。

 クァンファムンを眺めているうちに、ふっと右側のベンチとかが置いてある所を見たら、ピンク色のチマ・チョゴリを着た女性を写真撮影をしている一群がいた。おお、なんだろう、雑誌か何かの撮影かな?

 なんとなく得した気分になりつつ、クァンファムン前を通り過ぎていくと、左手の大規模な工事現場の向こうに、まだ建設途中の、削ったばかりの白い木目も鮮やかな、これまた大きな門が見えてきた。とっさに、「赤く塗る前の羅生門?」なんて思ったが、もちろんそんなはずがない。
  

 

 ヒョンデ[現代:Hyundai]が工事を請け負っているらしいけど、何の工事だろう? 工事名を記したらしい看板の、紫の地に書かれた白いハングルを、気合いを込めてふんっ、と読んだが、キョンボックンのフンリェムン[Hungryemun]がどうたらこうたら、としかわからない。
  

 

 フンリェムンか・・・ムンっていうんだから何とか門ってことだよなあ、と考えをめぐらせて、あっ! と気付いた。

 ここ、昔、日本が建てた朝鮮総督府があったところだっ!

 ああ、ここがそうなのか。知識としては頭の中にあったし、本で読んだり写真で見たこともあったけど、そうか、これがその跡なのか。
 さっきからずーっとそのそばにいたのに、全然気がつかなかった。

 情けない話なのだが、実はわたしは、キョンボックンの敷地内に当時の大日本帝国が朝鮮総督府を建てた、という話を聞いても、どうもいまひとつピンとこなかった。そうなんだ、と事実を認識することくらいしかできなかった。
 ところが、いつだったか下記のような話を聞いて、ひえー、そういうことだったのか、と思ったことがある。

 こういう例えは、ちょっと(いや、かなりかも)適切ではないかもしれないけれど、その話とは、大日本帝国がキョンボックン内に朝鮮総督府を建てたことを指して、「終戦直後の日本において、皇居内にGHQが司令部を作ったようなもので、国民感情を逆なでることはなはだしい暴挙である」というようなことだ。

 もちろん、わたしは思想が右利きというわけではないけれど(左でもないッス)、この話を聞いて、朝鮮総督府がキョンボックンの中にあったということがいかに非常識であるかをようやく理解した。
 また同じことを指して、「中世以前ならともかく、近代では稀な(時代遅れの)発想」とまで言われたひにゃ、「ひー」と頭をかかえて自分の不明を恥じるしかない。

 いずれにせよ、キョンボックンの敷地内に、しかも一部の建物を壊してまで朝鮮総督府を建てたことは、韓国の人々にとって憤懣やるかたない出来事であったはずだ。

 いま、わたしの後にあるクァンファムンも、いまでこそ「ここ」にあるが、1922年には、朝鮮総督府の庁舎を建てるために、一度取り壊しの計画を発表されたそうだ。さいわい、キョンボックンの南東の角近くにある、建春門の横に移築され、どうにか保存されたけど。
※Attention! しかしさらにその後、日本で言うところの朝鮮戦争(韓国ではユギオドンナン[六・二五動乱])で破壊されてしまったそうです)

 すると、かつてはセジョンノ[世宗路:Sejongno]の突き当たり正面には、韓国らしい建物はまったくなく、朝鮮総督府がそびえたっていたのだなあ。
 このあと、キョンボックンのクンチョンジョン[勤政殿:Kunchong‐jon]前からセジョンノ方面に視線を向ける機会があったけれど、キョンボックンの建物以外には空と、遠くにいくつかのビルが見えるだけで、比較的すっきりした印象だった。でも、かつてはここからもすぐ間近に朝鮮総督府が見えたのであろう。

 それじゃあ、さぞかし邪魔だったろうな。取り壊されても仕方ないわな、これは。

 ちなみに後で調べたところ、わたしが見た工事名を記した看板には、景福宮の弘礼門を復元整備する工事というような意味が書いてあったようだ。

 完成はいつだったかな? 工事予定表みたいなものを見た記憶はあるが、よく覚えてない。えー、そんな先なのっ!? と驚いた気がするから、きっと確実に21世紀になると思う。

 完成した暁には、また見に来たいな、と思った。

おわり

 

 

 今回のMEMO  

柳宗悦(やなぎむねよし:1889〜1961)

 
 いきなりこんな名前が出てきて、誰じゃい、それは、「リュウ・ソウエツ」で中国人か? と思われる方も多いのではないでしょうか?(いないか?)。

 えー、この人は日本人ですね。そしてクァンファムンの取り壊しに反対した人々のひとりです。


 柳宗悦はもともと工芸家ですが、知り合いから送られた李朝の壷の美しさに魅せられたことをきっかけに、韓国の陶磁器に関心をよせ、やがては韓国文化への理解を深め、陶芸家の浜田庄司らと一緒にと「民芸運動」を起こしています(どんな運動かは資料がないので不明。たぶん韓国の陶器などの民芸の保存運動だと思う)。

 1919年にサミルンドン[三・一運動]が起こった際には、その直後に読売新聞(1919年5月20〜24日)に発表した「朝鮮人を思ふ」と題する論文の中で、韓国人の独立運動を「暴動」と蔑み罵る日本人を非難し、韓国人を迫害する日本政府に対して憤りを示し、破壊され、失われゆく韓国の伝統芸術を保存すべきであると主張しました。

 さらに1921年6月には雑誌『改造』に「朝鮮の友に贈る書」を発表し、社会的な発言を強めていきます。

 そして1922年にクァンファムンの取り壊しが決まると、今度は「失はれんとする一朝鮮建築の為に」を執筆し、

「光化門よ、光化門よ、お前の命がもう旦夕(たんせき)に迫ろうとしている。お前がかつてこの世にいたという記憶が、冷たい忘却の中に葬り去られようとしている。どうしたらいいのであるか。私は思い惑っている。酷(むご)い鑿(のみ)や無常の槌がお前の体を少しずつ破壊し始める日はもう遠くないのだ」

とクァンファムンの取り壊しを訴える文章を発表しました。

 この文章は韓国語、英語に翻訳されて配信され、世界中の世論を喚起し、ついにはクァンファムンの取り壊しは中止され、キョンボックンの東に移築されたのでした。


 以上のように書くと、柳宗悦の尽力によってのみクァンファムンが残ったような印象を与えてしまいますが、日本の中学校教員でもある勝山元照さんは、クァンファムンが保存されたその理由を、柳宗悦のこの行動のためだけでなく、「三・一独立運動を闘った朝鮮民衆の運動の成果であったと私は思う。朝鮮総督府はなにより門の保存を求める朝鮮民衆の世論や動向に譲歩を余儀なくされたのだと思う」としています。

 まあ何にせよ、あの時代にこういった発言を堂々とできた柳宗悦は、やはり高く評価されてもよいのではないでしょうかね。

 しかし韓国に関する書籍を多数手掛けている高崎宗司さんは、「彼が愛したのは、朝鮮の芸術と、その芸術を生み出した朝鮮人であり、独立を求めて闘う朝鮮人ではなかったのである」という辛口(?)の評価をしています。
 ううん、色々な意味で難しいですね(っちゅーか、耳が痛いっていうか)。

 ちなみに、柳宗悦が韓国の芸術に目覚めるきっかけとなった李朝の壷を贈ったのは、浅川伯教(あさかわのりたか)という教員&李朝の陶磁器研究者で、弟の浅川巧(あさかわたくみ)と共に「民芸運動」にも参加しています。

 

注)文中の地域・民俗等の呼称に関しましては、ちはるの言葉ではない部分については、すべて原文通りとしました。

 

参考文献:(参考にした文章が多い順)
・『知っておきたい韓国朝鮮』 歴史教育者協議会=編集  青木書店
・『観光コースでない韓国』  小林慶二=著  高文研

 

※このコーナーは不定期です

 

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 編集後記 

 
 クァンファムン・リポートでした。ちょっと短めでしたね。キョンボックンまでまとめて書こうかと思ったのですが、長すぎるのでクァンファムンだけ独立させてみました。

 朝鮮総督府の建物に関しては、実際に見たことのある日本人と、写真でしか見たことのないわたしの間では、かなり感想が違うのではないでしょうかね。ま、別にそれはそれでいいでしょう。

 いま再建しているフンリェムンと、その向こうに現存しているクンチョンジョンの間には、朝鮮総督府が建てられる前には錦川という渓流が流れていたそうです。昔はもっともっと優雅なたたずまいを見せていたのでしょうね。

 それではまた次号でお会いしましょう。

 


2日目の1――貧乏人は今回の旅行でも歩いてます/
                    歩け、歩け! ソウル!! の巻

2日目の2――見どころ満載/国立中央博物館・前編の巻

2日目の3――キムパで休憩/国立中央博物館・後編の巻

2日目の4――いろいろ気付かぬにぶい自分を反省/クァンファムン前にて、の巻

2日目の5――そこにはいまでも花が手向けられていた/キョンボックンの巻

2日目の6――チャジャンミョンとはなんぞや?/ソウル、そぞろ歩きの巻

2日目の7――本屋はパラダイス! Part2/本屋さんめぐりの巻

2日目の8――韓国料理が目白押し/白花酒幕の巻

2日目の9――白花酒幕で夜は更けて/日韓話題あれこれの巻

2日目の10――オープン・カフェでパッビンスの巻

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