『ソウル7日間徒然日記』 1999年7月8日(木)記


 
第11号


2日目の5――そこにはいまでも花が手向けられていた/キョンボックンの巻

1999年9月25日(土)発行

 

■ キョンボックン[景福宮:Kyongbokkung]

 
 工事現場を囲った壁をつたってコンチュンムン[建春門:Konch'unmun]の方へ歩いて行くと、何々はあちら、みたいな案内板があり、キョンボックンは左になっていた。ふむふむとうなずきつつ、左に曲がってしばらく行くと、大きなバスがたくさんとまっている駐車場が右側に見えてくる。おお、やっと観光客に会えた、と妙に安心する(^ ^;)。

 どんどん先へ歩いて行くと右側に、店先で軽食や飲み物を売っている、いかにも「売店」といった感じのお土産屋さん兼食堂がある。
 その向かいにキョンボックンのチケット売場があった。大人ひとりW700(約75円)。

 チケットをもぎってもらって中に入るが、がらーんとして何もないイメージ。はて、建物は? と思って見回すと、入って左手にキョンボックンの案内板がある。近付いて行ってみると、ちょうど日本人観光客が韓国人ガイドから説明を受けているところだった。特に話を聞くつもりはなかったのだが、後ろに立って地図と見ていると、「キョンボックン内の建物のほとんどは、豊臣秀吉によって一度焼かれてしまいました」という説明の声が聞こえてくる。日本人観光客たちは、ちょっとフリーズ(freeze)していた。まあ、気持ちはわかるようなわからんような。

 最初はクンチョンジョン[勤政殿:Kunchongjon]から見るのが順序のようだ。地図ににしたがってクンチョンジョンを取り囲む回廊に設けられた入り口をくぐると・・・おお、紅色に塗られた柱が林立する美しい眺めが左右に伸びている。やあ、これは見事だ。
  

 

 そして正面には、屋根の四隅が風に吹かれてふわりと持ち上げられたような、大きく色鮮やかな建物。これがクンチョンジョンか。
 うわ、大きいなー、と思っていたら、どこからか日本語で「これは韓国で最大の木造建築です」と説明しているのが聞こえた。ほっほー、最大。どうりでねえ。
 さすがに古い建物だから、右から左に漢字で「勤政殿」と書いてある。わかりやすい。
  


クンチョンジョン[勤政殿:Kunchongjon]

 

 ちなみにこのクンチョンジョンは、入り口で説明されていたとおり、秀吉に一回焼かれて、その約280年後の1867年になって再建されたそうな。

 もっと近くで見るか、と白い石畳の上を歩いて行く。意外とこの石畳が、足の裏にごつごつと感じる。
 なぜそんなことが気になるかというと、中国の故宮のの前庭の石畳(レンガ畳?)はつるつるしていたような気がしたからで・・・まあ、あそこはしょっちゅう工事しているからな。
※Attention! あくまでもわたしのイメージです。写真で確認したら、ごつごつしてそうなところもありました)

 

 建物の中をのぞける扉の周囲には、けっこう人がたかっているので、先に建物の周りをぐるりとめぐって眺めてみた。

 屋根を内側から見上げると、その裏側にはすべて丹青(たんせい)がほどこされ、その下にのびる太く円い柱は紅色に塗られている。柱と柱の間にはほとんど壁はなく、灰緑色の大きな格子窓が、その間をつないでいた。ただしここの格子窓は縦横の線だけではなく、縦横斜めの線でつくられた雪の結晶のような6角形が連なっている。ちょっと違うんだな。

 ふっと建物を囲む丈の低い、石でできた欄干を見ると、おお、欄干のヘッド(頭)のオブジェ(物)が干支の動物になっているではないか。
 東洋人、当然自分の干支を探しに行き、カメラに収める。
 しかしこのオブジェ、中には干支でないのもあったような。数えていくと、どうしても12種類以上になるのだ。やたら目付きの険しい鳥(酉)とかもいて、もしかしたら鳳凰とかの神獣が混じってたのかな?
  


目つきの険しい酉(鳥?)と、わたしの基準でかわいい申

 

 そんなこんなで干支に気を取られ、クンチョンジョンの建物内を見た記憶があまりない(T_T)。バカだのう、と自分にあきれる。

 順路に従って歩いていくと、つぎは修政殿というだいぶ古い(ちょっと傷んだ)建物があり、その背後には、周囲に柳やら松やらいろいろな木を植えた四角い大きな池がある。そしてその池のずーっとずーっと向こうには、山肌のうす茶色と木々の緑がまだらになった山々。

 おおー、山だ。
  


キョンフェル[慶会楼:Kyonghweru]前から見た山。

 

 わたしは関東平野は下総台地、天気がいい日にちょっと高いところに登れば、南西に富士山、北に筑波山を望むことができるくらい真っ平らな土地で育ち暮らしているので、日常的にこんな間近で山を見ることはほとんどない。だから山を見ると、「ああ、遠くに来たなあ」という実感がわいて、やたらとわくわくしてしまう習慣がある。よってこの時も、ひとりでやたらとわくわくしてしまっていた(笑)。
※Attention! 土地勘のない方のために説明すると、富士山は静岡県と山梨県にまたがる山、筑波山は茨城県の山です。いずれもわたしの出身地である千葉の県外の山であり、富士山は千葉からは東京湾をはさんで直線距離で約140km、筑波山は利根川を越えて約60kmほど離れています)

 池の東側には、池の上に張り出すような感じで大きな建物がある。残念ながらこの時は修復工事中で、四方を足場に囲まれて建物はほとんど見えなかった。
 案内板があるので見ると、キョンフェル[慶会楼:Kyonghweru]という建物だそうで、イシ・チョソン[李氏朝鮮]時代の迎賓館だそうな。
 ガイドブックを見ると、紅葉した木々に囲まれた美しい姿のキョンフェルの写真があった。春は池が蓮の花で埋め尽くされるそうだから、きっと四季を通じてきれいな建物なんだろうな。

 ちなみにここはちょうど説明スポットなのか、たくさんの小学生が地面に腰をおろし、先生の話に耳を傾けていた。
  


キョンフェル[慶会楼:Kyonghweru](工事中)前で、座って先生の話を聞くこどもたち。

 

 またしても順路に従い門をくぐると、今度は建物が3つ並んで建っていた。白人の女性観光客たちがきゃーきゃー言いながら記念写真を撮るのに夢中になっている。そのかたわらでは日本人とおぼしき50歳前後の男性が、三脚に乗せたカメラを構え、シャッターチャンスを(つまり建物前から人が消えるのを)待っていた。

 建物前にはどれにも韓国語、英語、日本語で書かれた説明があって、東から順にマンチュンジョン[万春殿:Manch'unjon]、サチョンジョン[思政殿:Sachongjon]、チョンチュジョン[千秋殿:Ch'onch'ujon]というそうな。
  


サチョンジョン[思政殿:Sachongjon]

  


チョンチュジョン[千秋殿:Ch'onch'njon]、マンチュンジョン[万春殿:Manch'unjon]
わたしにしてみれば、みんな似たような建物だ(情けない)

  

 かなり新しそうな建物だなあ、と思って説明書きを読んでみたら、秀吉に焼かれたあと、1860年代にテウォングン[大院君]が再建したんだけど、その後韓国戦争(説明にこう書いてあった。こうとも言うんだ)で消失してしまったそうで、1980年代に入って復元されたとこのと。ふむふむ、どうりで。

 チョンチュンジョン[秋千殿]は、建物前の説明書きには記されていなかったけれど、ガイドブックには、イシ・チョソンの第4代目であるセジョン[世宗]がここにこもってハングルを考案した、と書いてある。本当か?

 ところで、ハングル=韓国語、と思っている日本人はきっとまだまだ多いと思うけど、これはもう絶対NHKが悪いと思う。
 なぜなら韓国語は、NHKの語学口座で唯一言語名がタイトルになっていない番組なのだ。

 たいていの韓国のガイドブックや韓国語参考書に載っているけど、ハングルとは、「ハン(han)=偉大なる」、「グル(gul)」=「文字」の意味で、あくまでも文字のことなのである。

 つまり、NHKの「アンニョンハシムニッカ ハングル講座」を日本語に置き換えると、「こんにちは ひらがな(カタカナ・漢字)講座」ということになってしまうのだ。
 だから、「ハングルが読めない」はOKだけど、「ハングルを話せない」とか「ハングルが聞き取れない」というのは、「ひらがなが聞き取れない」、「漢字を話せない」みたいな意味になってしまうので、これはかなりおかしいことになる。

 じゃあなぜ「韓国語」講座にしないのか、ということに関してはいろいろ聞くけど(北朝鮮[韓国では北韓]に気を使っている、という説をよく聞く)、何にせよまぎらわしいことこの上ない。

 ちなみに「韓国語」という漢字を韓国語読みすると、「韓国」=「ハング(ク)[Han‐guk]」、「語」=「オ[o]」なので、合わせて&リエゾンさせて「ハングゴ」となるそうな。

 試しに辞書で確かめたら、「韓国語」という意味の韓国語として「ハングンマル」という単語も載っていた。
 これは、「ハング(ク):韓国」+「マル[mal]:言葉」で「韓国の言葉」の意味になり、転じて「韓国語」を表す。
※Attention! パッチムの[k]の後に[n、r、m]がくると、パッチム自身は[ng]の発音になるので「ハングンマル」)

 もうひとつ、「ウリマル」という単語も載っていた。「ウリ[u‐ri]」=「我、我々」、「マル」=「言葉」を意味するので、合わせて「わたしたちの言葉」になるから、これも韓国人にとっては「韓国語」となるようだ。ふむ。

 写真を撮って説明書きを読んで。
 存分に建物の見学を楽しんだ後、次の場所にに移動しようと建物の裏にまわると、建物のすぐ後ろに、レンガでできた軒先ほどの高さの、けっこう太さのある四角い煙突が2本建っていた。一番上は口が開きっぱなしにはなってなくて、きちんと瓦屋根がふかれている。そのさらに上に金属でできた、小さな家みたいなかたちの排気口がある。
  

 

 はて、なぜ煙突? と一瞬疑問に思ったが、さすがにすぐにわかった。これはもう間違いなく、オンドル用の煙突だろう。
 なるほど、窯でたかれた暖かい煙は、床下を通りつつその上の部屋をあたためた後、ちゃんとこうした煙突から排気されるわけか。うまくできてる。

 このあと、交泰殿、峨嵋山、慈慶殿などを見て回ったのだが・・・うーん、要するに、赤い壁と、灰緑色の格子窓と、先が沿った屋根と、その屋根を支える丹青をほどこされた柱と・・・似たような建物ばかりで印象が薄れる。

 しかし、1395年くらいに完成した当時のキョンボックン内には、200以上の建物があったという。
 とてもじゃないけど、わたしにゃ見学しきれないな。その頃の人たちも、よくまあ迷子にならなかったもんだ。

 キョンボックンのさらに奥へ行くと、またまた池が見えてきた。この池はヒャンウォンジ[香遠池]というそうで、池の真ん中には小さな島が作られ、その上にヒャンウォンジョン[香遠亭]と名付けられた6角形のあずま屋が建っている。
背の低い木に囲まれたヒャンウォンジョンと岸の間には、赤い欄干の橋[チヒャンギョ:酔香橋]がかかっているけど、現在は自由に渡れないようだった。
  


ヒャンウォンジョン。この左手奥で、結婚の記念写真を撮っていた

 

 このあたりは周囲を多くの樹々に囲まれ、まさに風光明媚といった眺めのためだろうか、池のまわりには絵を描いている人がたくさんいる。
 お、ウェディングドレスと燕尾服の男性発見。結婚の記念写真を撮影しているらしい。
 へー、上海や香港でもこの手の写真を撮るのって流行っているけど、中国はスタジオ撮影が多かったと思う。韓国は野外なんだ。開放的だなあ。

 ヒャンウォンジョンを左手に見ながら池を周囲をぐるりとまわりこむと、その先に小さな建物が見えた。建物と言っても四方のうちの一方の壁がなく、中がよく見えるようになっている。

 なんじゃろ? と思って中をのぞきこんだら絵がかかっていた。明るいところから急に薄暗い屋内に目を向けたので、最初は何が描かれているのかよくわからなかった。目が暗さに慣れてピントが合って――ぎょっとした。

 袴をつけて和服の袖をまくり、さらにたすき掛けとはちまきをした、どうみても日本の侍姿の男が、いまにも振り下ろさんばかりの勢いで刀を頭上に構えている。
 その前に白い服を着た女性が座っていて、男を射抜くような厳しい目で見返している。

 あ、これ、ミョンソン[明成]皇后の暗殺場面を描いているんだ。

 その絵の左側には、ミョンソン皇后の遺体を焼いている場面の絵がかけられていた。

 儒教は基本的に、親からもらった身体を傷つけることを嫌うという。だからいまでも韓国は、火葬ではなく土葬が一般的だ。
 その儒教の国で、暗殺した遺体を焼いたということが、どんなに残虐なことを意味するのかを想像するのは、このわたしでも難しくない。

 しばらくぼーっと絵を眺める。
 もちろんこれは想像で描かれたものだろうけど、ものすごく生々しい感じがした。

 説明書きがある。見てみたけど、韓国語と英語だけだった。
 ガイドブックも見てみたが、驚くことに、この碑の存在すら記されていなかった。意外。

 この他にもミョンソン皇后関連の物は、この絵がかかっている建物の右側に「明成皇后殉国崇墓碑」が、左側奥に「明成皇后遭難の地」と書かれた日本のお墓のような形の碑があった。

 ヒャンウォンジョンの真後ろを眺める位置のベンチに腰を下ろし、しばし休憩。
 何やらきゃあきゃあとはしゃぎつつ、向こうの方から日本人女性がふたりやってきた。
 そして、絵がかかっている建物を指さしながら、大きな声で「何、あれー」、「えー、知らなーい」とひと騒ぎした後あの絵の前に立ち、そして静かになった。

 知っててここに来たんだろうか? それともここに来て初めて知ったのだろうか?

 日本人観光客の中には、この絵を見ながらガイドに説明を受けると、「そんな馬鹿な話があるか!」と怒りだす人もいるらしい。まあ、いろいろなガイドがいるし、日本人もいるだろうから、一概にはなんとも言えないけど。

 池のそばでは、婚礼衣裳に身を包んだふたりの撮影会が、相も変らず続いている。
 ベンチに腰かけた人々は、のんびりとヒャンウォンジョンを眺めたり、おしゃべりを楽しんでいる。

 偶然なのか、いつもそうなのか、「明成皇后殉国崇墓碑」の前にはまだ新しい花束が置かれていた。
 いまでも花を手向ける人がいるんだな、とそれを見て思った。
  


左側が「明成皇后遭難の地」の碑、一番右側が「明成皇后殉国崇墓碑」
真ん中が絵がかけられている建物

おわり

 

 

 今回のMEMO  

ミョンソン・ファンフ
       [明成皇后:Myongsong‐Hwanghu]

 
 ミョンソン皇后。もちろんご存じの方も多いことでしょう。

 ミョンソン皇后というのは諡号(しごう:死後におくられる名前)・追贈(ついぞう:死後に官位をおくること)された名前ですので、生前は閔妃[ミンビ]と呼ばれていました。
 というわけなので、生前・死後で名前を書き分けたほうがいいのかな? とも思いましたが、ここではあえてミョンソン皇后で名前を統一しておきます。時代区分は1897年以前の話をするので、イシ・チョソン[李氏朝鮮]とします。

 ミョンソン皇后は1895年10月8日未明、当時の駐韓日本公使・三浦梧楼の暗殺計画により、キョンボックン内に侵入した40数名の日本守備隊、公使館員、領事警察、在留邦人たちによって殺害されました。


 ミョンソン皇后は『大韓季年史』の記述によれば、1851年9月25日、京畿道驪州郡根東面[キョンギド・ヨジュグン・クンドンミョン](当時)にミン・チロク[閔致禄]の娘として生まれました。

 そして1866年、テウォングン[大院君]の次男であり、当時王位についていたコジョン[高宗]の王妃となります。

 この頃のイシ・チョソンでは、勢道[セド]政治という、王妃の一族などによる、特定の家門によって国政・権力が独占されることがありました。
 大変な苦労に苦労を重ねて、ようやく自分の息子を王位に付け、そして幼い王の摂政として現在権力の頂点にいるテウォングンとしては、自分の立場をおびやかすような人物を王妃にすることは絶対できません。

 そのため、名門の娘ではあるが親兄弟がなく、また一族中に権力者も財力のある者もいなかったミョンソン皇后がコジョンの王妃に選ばれたといわれています。

 しかし、ミョンソン皇后がコジョンの妃となってからは、テウォングンと彼女の間で、凄まじい権力闘争がくりひろげられます。

 中国には「騎虎難下」(チーフーナンシア)という言葉がありまして、これはほぼ読んで字のごとくなんですけど、ただし「虎」は「権力」と置き換えたりすることができます。
 ですからこの言葉はつまり、「権力」という名の虎の背に一度乗ったら、そこから下りるのは難しい、ということを表しています。下りた瞬間に、虎(権力)の牙におのれの喉を食い千切られて、殺されてしまいますから。

 ミョンソン皇后とテウォングンの争いも、まさに「騎虎難下」でした。虎の背上のたったひとつしかない権力の座をめぐって、お互いに相手を蹴落とし合い、落ちたところで止めをさそうとこころみるのです。

 その最大の争いとして、1882年7月23日に発生した「イムオ[壬午]軍乱」があります。

 イムオ軍乱とは、もともとは、ミン[閔]氏政権(ミョンソン皇后の一族)が日本人教官を配して訓練させた新式軍隊の別技軍を優遇し、旧式軍隊を差別したことに対する不満を爆発させた兵士たちが起こした暴動です。

 しかしこの軍乱をきっかけに、当時ミョンソン皇后によって政治の場から退かされ、しかしずっと復権をあきらめずに待ち続けたテウォングンと兵士たちが結びついたことによって、ミョンソン皇后は殺害の危機にさらされます。それでもどうにか逃げ切ったものの、テウォングンはミョンソン皇后の生死の別もわからないのに、なんと国葬を行なってしまうのですね。一刻も早くミョンソン皇后を亡き者にしたい、というテウォングンの焦りがそうさせたのだといいます。

 このイムオ軍乱の際、テウォングンの指示によって日本公使館が襲撃され、何人かの人々が殺されました(いろいろ問題を抱えていたのです)。
 当然日本としてはイシ・チョソンの責任を追求しましたが、日本側の要求が苛酷であったために話し合いがこじれまして、戦争が起こりそうになりました。

 その頃、清(中国)がイシ・チョソンの宗主国でしたから、日本とイシ・チョソンが戦争する、ということは、日本と清が戦争をする、ということを意味します。けれどもそれは、日本も清も望んではいなかったのです。

 で、このままテウォングンに政権を握らせておいてはまずい、と判断した清によって、テウォングンは天津に拉致され、一応危機的事態は収拾します。
 そしてテウォングンのいなくなった王宮に、ミョンソン皇后は無事帰還したのでした。

 ま、これほど大きな争いはこれっきりでしたが、その後も幾度かミョンソン皇后とテウォングンの間を、権力は行ったり来たりします。ミョンソン皇后がまたしても殺されそうになったこともありました。


 当時のイシ・チョソンと清の関係は、上記で述べた通りですけど、じゃあ日本との関係はどうなっていたかというと、朝鮮通信使が来ていた徳川幕府の時代と異なり、明治政府になってからの日本は、イシ・チョソンに臣礼を求めています。
 これは、徳川幕府の将軍が主人として仰いでいた天皇がいまや日本の最高権力者なのだから、徳川の将軍と対等な外交関係を結んでいたイシ・チョソンの王も天皇に仕えるべきである、という理屈なんですね。もちろんイシ・チョソンはそんなこと認めませんでしたけど。

 そんなこんなで、日本と清はイシ・チョソンの支配権をめぐって対立します。そしてそれがついに戦争まで発展してしまったのが、1894年8月1日に宣戦が布告された日清戦争でした。この戦争は「日清」と名がついていますが、戦争が始まった直後、実際の戦場になったのはピョンヤン[平壌]などのイシ・チョソン内です。被害はイシ・チョソンの人々にも及びました。

 この戦争を、当時の日本の民衆は「義戦」と考えていたそうです。大国清にいじめられているイシ・チョソンを救い、独立させるための戦争だと、そう思っていたんですね。
 実際にはこの頃からすでに、日本はイシ・チョソンの内政に口を出すなど、とても独立国と認めている国の態度をとっていないので、かなり矛盾しているんですが。

 日清戦争がようやく終わったのは、1895年4月、講和条約に調印が行なわれた時です。 
 講和条約の中で、日本は清にイシ・チョソンの独立や、遼東半島および台湾などの割譲を求めています。

 しかし、遼東半島の割譲は、大陸の一部を日本が所有することになり、地続きであるイシ・チョソンの独立をおびやかすという理由で、ロシア、ドイツ、フランスからその所有を放棄することを勧告されます。これがいわゆる「三国干渉」です。
 いろいろな経緯はありましたが、これを日本は受け入れました。そして三国の干渉に屈したことによって、日本の威信は失墜します。これはそのままイシ・チョソン内における日本勢力の後退を意味しました。

 そんな中、1895年9月1日、駐韓公使として三浦梧楼がソウルに到着します。ミョンソン皇后暗殺の、わずか40日ほど前のことです。
 彼は公使としてソウルに赴任が決まった時点で、すでにミョンソン皇后暗殺を決意していた、といわれています。
 三国干渉をきっかけに衰えてしまった日本の勢力を挽回するには、実質的なイシ・チョソンの最高権力者であるミョンソン皇后を殺すしかないと、三浦公使は考えていたのです。

 そして10月7日深夜、暗殺部隊は動きだします。三浦公使自身は暗殺部隊に加わってはいませんが、暗殺の指示を日本公使館員たちなどに下しています。
 三浦公使の命を受けた40数名の日本人たちは、キョンボックンへと侵入し、ついにオクホル[玉壷楼]でミョンソン皇后を殺害します。遺体はノクウォン[鹿園]と呼ばれる庭に運ばせ、高く積み上げた薪の上に乗せて石油をかけて焼かれました。

 これが、後にウルミ・サビョン[乙未事変]と呼ばれるミョンソン皇后暗殺事件です。


 この暗殺事件に関係した日本人は、もちろん裁判を受けましたが、証拠不十分として、ひとりも処罰を受けていません。キョンボックン内に居を構えていたロシアやアメリカの公使たちに、はっきりと目撃されているにもかかわらずです。

 これほどの事件が国際問題にまで発展しなかったのは、諸外国が自国の利益を守ろうとしたため、という理由もあるでしょう。
 武力によって他国を政治的にも経済的にも支配することが、当然のように認められていた時代でした。

 今の時代がそうでないことを、わたしとしては祈りたいです。

 

参考文献:(参考にした文章が多い順)
・『閔妃暗殺』  角田房子  新潮社
・『韓国の歴史』(国定韓国高等学校歴史教科書)
  チョ・チャンスン[チョ昌淳]、ソン・ヨノク[宗連玉]=著 明石書店

 

 

 今回のおこづかい帳  

 
キョンボックン:W700

今回の小計:W700
支払い総計:W19,800(約2,129円)+34,591円

(※レートは1999年7月当時、¥100=W930で計算しています)

 

 編集後記 

 
 キョンボックン・リポートでした。「今回の韓国MEMO」がだいぶ長かったので、長篇になってしまいましたね。

 日本でミョンソン皇后関連の本を何冊か読んだ時、舅であるテウォングンに逆らったため、あまり韓国国内ではミョンソン皇后は人気(?)がない、とありましたが、「明成皇后殉国崇墓碑」の前に花が手向けられているのを見て、決してそんなことはないのかな? と思いました。

 ツアーで行くと、韓国人ガイドの方が気をつかって連れていってくれないことが多い場所ですので、見たい人は自分で行くか、ガイドさんにきちんとその旨を伝えるといいです。

 それでは、また次号でお会いしましょう。

 


2日目の1――貧乏人は今回の旅行でも歩いてます/
                    歩け、歩け! ソウル!! の巻

2日目の2――見どころ満載/国立中央博物館・前編の巻

2日目の3――キムパで休憩/国立中央博物館・後編の巻

2日目の4――いろいろ気付かぬにぶい自分を反省/クァンファムン前にて、の巻

2日目の5――そこにはいまでも花が手向けられていた/キョンボックンの巻

2日目の6――チャジャンミョンとはなんぞや?/ソウル、そぞろ歩きの巻

2日目の7――本屋はパラダイス! Part2/本屋さんめぐりの巻

2日目の8――韓国料理が目白押し/白花酒幕の巻

2日目の9――白花酒幕で夜は更けて/日韓話題あれこれの巻

2日目の10――オープン・カフェでパッビンスの巻

1日目

3日目

4日目

5日目

6日目

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