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第11号 | |
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2日目の5――そこにはいまでも花が手向けられていた/キョンボックンの巻 | |
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■ キョンボックン[景福宮:Kyongbokkung] | |
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どんどん先へ歩いて行くと右側に、店先で軽食や飲み物を売っている、いかにも「売店」といった感じのお土産屋さん兼食堂がある。 チケットをもぎってもらって中に入るが、がらーんとして何もないイメージ。はて、建物は? と思って見回すと、入って左手にキョンボックンの案内板がある。近付いて行ってみると、ちょうど日本人観光客が韓国人ガイドから説明を受けているところだった。特に話を聞くつもりはなかったのだが、後ろに立って地図と見ていると、「キョンボックン内の建物のほとんどは、豊臣秀吉によって一度焼かれてしまいました」という説明の声が聞こえてくる。日本人観光客たちは、ちょっとフリーズ(freeze)していた。まあ、気持ちはわかるようなわからんような。 最初はクンチョンジョン[勤政殿:Kunchongjon]から見るのが順序のようだ。地図ににしたがってクンチョンジョンを取り囲む回廊に設けられた入り口をくぐると・・・おお、紅色に塗られた柱が林立する美しい眺めが左右に伸びている。やあ、これは見事だ。
そして正面には、屋根の四隅が風に吹かれてふわりと持ち上げられたような、大きく色鮮やかな建物。これがクンチョンジョンか。 ![]() クンチョンジョン[勤政殿:Kunchongjon]
ちなみにこのクンチョンジョンは、入り口で説明されていたとおり、秀吉に一回焼かれて、その約280年後の1867年になって再建されたそうな。 もっと近くで見るか、と白い石畳の上を歩いて行く。意外とこの石畳が、足の裏にごつごつと感じる。
建物の中をのぞける扉の周囲には、けっこう人がたかっているので、先に建物の周りをぐるりとめぐって眺めてみた。 屋根を内側から見上げると、その裏側にはすべて丹青(たんせい)がほどこされ、その下にのびる太く円い柱は紅色に塗られている。柱と柱の間にはほとんど壁はなく、灰緑色の大きな格子窓が、その間をつないでいた。ただしここの格子窓は縦横の線だけではなく、縦横斜めの線でつくられた雪の結晶のような6角形が連なっている。ちょっと違うんだな。 ふっと建物を囲む丈の低い、石でできた欄干を見ると、おお、欄干のヘッド(頭)のオブジェ(物)が干支の動物になっているではないか。 ![]() 目つきの険しい酉(鳥?)と、わたしの基準でかわいい申
そんなこんなで干支に気を取られ、クンチョンジョンの建物内を見た記憶があまりない(T_T)。バカだのう、と自分にあきれる。 順路に従って歩いていくと、つぎは修政殿というだいぶ古い(ちょっと傷んだ)建物があり、その背後には、周囲に柳やら松やらいろいろな木を植えた四角い大きな池がある。そしてその池のずーっとずーっと向こうには、山肌のうす茶色と木々の緑がまだらになった山々。 おおー、山だ。 ![]() キョンフェル[慶会楼:Kyonghweru]前から見た山。
わたしは関東平野は下総台地、天気がいい日にちょっと高いところに登れば、南西に富士山、北に筑波山を望むことができるくらい真っ平らな土地で育ち暮らしているので、日常的にこんな間近で山を見ることはほとんどない。だから山を見ると、「ああ、遠くに来たなあ」という実感がわいて、やたらとわくわくしてしまう習慣がある。よってこの時も、ひとりでやたらとわくわくしてしまっていた(笑)。 池の東側には、池の上に張り出すような感じで大きな建物がある。残念ながらこの時は修復工事中で、四方を足場に囲まれて建物はほとんど見えなかった。 ちなみにここはちょうど説明スポットなのか、たくさんの小学生が地面に腰をおろし、先生の話に耳を傾けていた。 ![]() キョンフェル[慶会楼:Kyonghweru](工事中)前で、座って先生の話を聞くこどもたち。
またしても順路に従い門をくぐると、今度は建物が3つ並んで建っていた。白人の女性観光客たちがきゃーきゃー言いながら記念写真を撮るのに夢中になっている。そのかたわらでは日本人とおぼしき50歳前後の男性が、三脚に乗せたカメラを構え、シャッターチャンスを(つまり建物前から人が消えるのを)待っていた。 建物前にはどれにも韓国語、英語、日本語で書かれた説明があって、東から順にマンチュンジョン[万春殿:Manch'unjon]、サチョンジョン[思政殿:Sachongjon]、チョンチュジョン[千秋殿:Ch'onch'ujon]というそうな。 ![]() サチョンジョン[思政殿:Sachongjon] ![]() チョンチュジョン[千秋殿:Ch'onch'njon]、マンチュンジョン[万春殿:Manch'unjon] わたしにしてみれば、みんな似たような建物だ(情けない)
かなり新しそうな建物だなあ、と思って説明書きを読んでみたら、秀吉に焼かれたあと、1860年代にテウォングン[大院君]が再建したんだけど、その後韓国戦争(説明にこう書いてあった。こうとも言うんだ)で消失してしまったそうで、1980年代に入って復元されたとこのと。ふむふむ、どうりで。 チョンチュンジョン[秋千殿]は、建物前の説明書きには記されていなかったけれど、ガイドブックには、イシ・チョソンの第4代目であるセジョン[世宗]がここにこもってハングルを考案した、と書いてある。本当か? ところで、ハングル=韓国語、と思っている日本人はきっとまだまだ多いと思うけど、これはもう絶対NHKが悪いと思う。 たいていの韓国のガイドブックや韓国語参考書に載っているけど、ハングルとは、「ハン(han)=偉大なる」、「グル(gul)」=「文字」の意味で、あくまでも文字のことなのである。 つまり、NHKの「アンニョンハシムニッカ ハングル講座」を日本語に置き換えると、「こんにちは ひらがな(カタカナ・漢字)講座」ということになってしまうのだ。 じゃあなぜ「韓国語」講座にしないのか、ということに関してはいろいろ聞くけど(北朝鮮[韓国では北韓]に気を使っている、という説をよく聞く)、何にせよまぎらわしいことこの上ない。 ちなみに「韓国語」という漢字を韓国語読みすると、「韓国」=「ハング(ク)[Han‐guk]」、「語」=「オ[o]」なので、合わせて&リエゾンさせて「ハングゴ」となるそうな。 試しに辞書で確かめたら、「韓国語」という意味の韓国語として「ハングンマル」という単語も載っていた。 もうひとつ、「ウリマル」という単語も載っていた。「ウリ[u‐ri]」=「我、我々」、「マル」=「言葉」を意味するので、合わせて「わたしたちの言葉」になるから、これも韓国人にとっては「韓国語」となるようだ。ふむ。 写真を撮って説明書きを読んで。
はて、なぜ煙突? と一瞬疑問に思ったが、さすがにすぐにわかった。これはもう間違いなく、オンドル用の煙突だろう。 このあと、交泰殿、峨嵋山、慈慶殿などを見て回ったのだが・・・うーん、要するに、赤い壁と、灰緑色の格子窓と、先が沿った屋根と、その屋根を支える丹青をほどこされた柱と・・・似たような建物ばかりで印象が薄れる。 しかし、1395年くらいに完成した当時のキョンボックン内には、200以上の建物があったという。 キョンボックンのさらに奥へ行くと、またまた池が見えてきた。この池はヒャンウォンジ[香遠池]というそうで、池の真ん中には小さな島が作られ、その上にヒャンウォンジョン[香遠亭]と名付けられた6角形のあずま屋が建っている。 ![]() ヒャンウォンジョン。この左手奥で、結婚の記念写真を撮っていた
このあたりは周囲を多くの樹々に囲まれ、まさに風光明媚といった眺めのためだろうか、池のまわりには絵を描いている人がたくさんいる。 ヒャンウォンジョンを左手に見ながら池を周囲をぐるりとまわりこむと、その先に小さな建物が見えた。建物と言っても四方のうちの一方の壁がなく、中がよく見えるようになっている。 なんじゃろ? と思って中をのぞきこんだら絵がかかっていた。明るいところから急に薄暗い屋内に目を向けたので、最初は何が描かれているのかよくわからなかった。目が暗さに慣れてピントが合って――ぎょっとした。 袴をつけて和服の袖をまくり、さらにたすき掛けとはちまきをした、どうみても日本の侍姿の男が、いまにも振り下ろさんばかりの勢いで刀を頭上に構えている。 あ、これ、ミョンソン[明成]皇后の暗殺場面を描いているんだ。 その絵の左側には、ミョンソン皇后の遺体を焼いている場面の絵がかけられていた。 儒教は基本的に、親からもらった身体を傷つけることを嫌うという。だからいまでも韓国は、火葬ではなく土葬が一般的だ。 しばらくぼーっと絵を眺める。 説明書きがある。見てみたけど、韓国語と英語だけだった。 この他にもミョンソン皇后関連の物は、この絵がかかっている建物の右側に「明成皇后殉国崇墓碑」が、左側奥に「明成皇后遭難の地」と書かれた日本のお墓のような形の碑があった。 ヒャンウォンジョンの真後ろを眺める位置のベンチに腰を下ろし、しばし休憩。 知っててここに来たんだろうか? それともここに来て初めて知ったのだろうか? 日本人観光客の中には、この絵を見ながらガイドに説明を受けると、「そんな馬鹿な話があるか!」と怒りだす人もいるらしい。まあ、いろいろなガイドがいるし、日本人もいるだろうから、一概にはなんとも言えないけど。 池のそばでは、婚礼衣裳に身を包んだふたりの撮影会が、相も変らず続いている。 偶然なのか、いつもそうなのか、「明成皇后殉国崇墓碑」の前にはまだ新しい花束が置かれていた。 ![]() 左側が「明成皇后遭難の地」の碑、一番右側が「明成皇后殉国崇墓碑」 真ん中が絵がかけられている建物 おわり
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■ 今回のMEMO ■ | |
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◆ミョンソン・ファンフ | |
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ミョンソン皇后というのは諡号(しごう:死後におくられる名前)・追贈(ついぞう:死後に官位をおくること)された名前ですので、生前は閔妃[ミンビ]と呼ばれていました。 ミョンソン皇后は1895年10月8日未明、当時の駐韓日本公使・三浦梧楼の暗殺計画により、キョンボックン内に侵入した40数名の日本守備隊、公使館員、領事警察、在留邦人たちによって殺害されました。
ミョンソン皇后は『大韓季年史』の記述によれば、1851年9月25日、京畿道驪州郡根東面[キョンギド・ヨジュグン・クンドンミョン](当時)にミン・チロク[閔致禄]の娘として生まれました。 そして1866年、テウォングン[大院君]の次男であり、当時王位についていたコジョン[高宗]の王妃となります。 この頃のイシ・チョソンでは、勢道[セド]政治という、王妃の一族などによる、特定の家門によって国政・権力が独占されることがありました。 そのため、名門の娘ではあるが親兄弟がなく、また一族中に権力者も財力のある者もいなかったミョンソン皇后がコジョンの王妃に選ばれたといわれています。 しかし、ミョンソン皇后がコジョンの妃となってからは、テウォングンと彼女の間で、凄まじい権力闘争がくりひろげられます。 中国には「騎虎難下」(チーフーナンシア)という言葉がありまして、これはほぼ読んで字のごとくなんですけど、ただし「虎」は「権力」と置き換えたりすることができます。 ミョンソン皇后とテウォングンの争いも、まさに「騎虎難下」でした。虎の背上のたったひとつしかない権力の座をめぐって、お互いに相手を蹴落とし合い、落ちたところで止めをさそうとこころみるのです。 その最大の争いとして、1882年7月23日に発生した「イムオ[壬午]軍乱」があります。 イムオ軍乱とは、もともとは、ミン[閔]氏政権(ミョンソン皇后の一族)が日本人教官を配して訓練させた新式軍隊の別技軍を優遇し、旧式軍隊を差別したことに対する不満を爆発させた兵士たちが起こした暴動です。 しかしこの軍乱をきっかけに、当時ミョンソン皇后によって政治の場から退かされ、しかしずっと復権をあきらめずに待ち続けたテウォングンと兵士たちが結びついたことによって、ミョンソン皇后は殺害の危機にさらされます。それでもどうにか逃げ切ったものの、テウォングンはミョンソン皇后の生死の別もわからないのに、なんと国葬を行なってしまうのですね。一刻も早くミョンソン皇后を亡き者にしたい、というテウォングンの焦りがそうさせたのだといいます。 このイムオ軍乱の際、テウォングンの指示によって日本公使館が襲撃され、何人かの人々が殺されました(いろいろ問題を抱えていたのです)。 その頃、清(中国)がイシ・チョソンの宗主国でしたから、日本とイシ・チョソンが戦争する、ということは、日本と清が戦争をする、ということを意味します。けれどもそれは、日本も清も望んではいなかったのです。 で、このままテウォングンに政権を握らせておいてはまずい、と判断した清によって、テウォングンは天津に拉致され、一応危機的事態は収拾します。 ま、これほど大きな争いはこれっきりでしたが、その後も幾度かミョンソン皇后とテウォングンの間を、権力は行ったり来たりします。ミョンソン皇后がまたしても殺されそうになったこともありました。
当時のイシ・チョソンと清の関係は、上記で述べた通りですけど、じゃあ日本との関係はどうなっていたかというと、朝鮮通信使が来ていた徳川幕府の時代と異なり、明治政府になってからの日本は、イシ・チョソンに臣礼を求めています。 そんなこんなで、日本と清はイシ・チョソンの支配権をめぐって対立します。そしてそれがついに戦争まで発展してしまったのが、1894年8月1日に宣戦が布告された日清戦争でした。この戦争は「日清」と名がついていますが、戦争が始まった直後、実際の戦場になったのはピョンヤン[平壌]などのイシ・チョソン内です。被害はイシ・チョソンの人々にも及びました。 この戦争を、当時の日本の民衆は「義戦」と考えていたそうです。大国清にいじめられているイシ・チョソンを救い、独立させるための戦争だと、そう思っていたんですね。 日清戦争がようやく終わったのは、1895年4月、講和条約に調印が行なわれた時です。 しかし、遼東半島の割譲は、大陸の一部を日本が所有することになり、地続きであるイシ・チョソンの独立をおびやかすという理由で、ロシア、ドイツ、フランスからその所有を放棄することを勧告されます。これがいわゆる「三国干渉」です。 そんな中、1895年9月1日、駐韓公使として三浦梧楼がソウルに到着します。ミョンソン皇后暗殺の、わずか40日ほど前のことです。 そして10月7日深夜、暗殺部隊は動きだします。三浦公使自身は暗殺部隊に加わってはいませんが、暗殺の指示を日本公使館員たちなどに下しています。 これが、後にウルミ・サビョン[乙未事変]と呼ばれるミョンソン皇后暗殺事件です。
この暗殺事件に関係した日本人は、もちろん裁判を受けましたが、証拠不十分として、ひとりも処罰を受けていません。キョンボックン内に居を構えていたロシアやアメリカの公使たちに、はっきりと目撃されているにもかかわらずです。 これほどの事件が国際問題にまで発展しなかったのは、諸外国が自国の利益を守ろうとしたため、という理由もあるでしょう。 今の時代がそうでないことを、わたしとしては祈りたいです。
参考文献:(参考にした文章が多い順)
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■ 今回のおこづかい帳 ■ | |
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●今回の小計:W700 (※レートは1999年7月当時、¥100=W930で計算しています)
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■ 編集後記 ■ | |
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日本でミョンソン皇后関連の本を何冊か読んだ時、舅であるテウォングンに逆らったため、あまり韓国国内ではミョンソン皇后は人気(?)がない、とありましたが、「明成皇后殉国崇墓碑」の前に花が手向けられているのを見て、決してそんなことはないのかな? と思いました。 ツアーで行くと、韓国人ガイドの方が気をつかって連れていってくれないことが多い場所ですので、見たい人は自分で行くか、ガイドさんにきちんとその旨を伝えるといいです。 それでは、また次号でお会いしましょう。
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2日目の1――貧乏人は今回の旅行でも歩いてます/ | ||||||
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2日目の2――見どころ満載/国立中央博物館・前編の巻 | ||||||
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2日目の3――キムパで休憩/国立中央博物館・後編の巻 | ||||||
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2日目の4――いろいろ気付かぬにぶい自分を反省/クァンファムン前にて、の巻 | ||||||
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2日目の5――そこにはいまでも花が手向けられていた/キョンボックンの巻 | ||||||
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2日目の6――チャジャンミョンとはなんぞや?/ソウル、そぞろ歩きの巻 | ||||||
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2日目の7――本屋はパラダイス! Part2/本屋さんめぐりの巻 | ||||||
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2日目の8――韓国料理が目白押し/白花酒幕の巻 | ||||||
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2日目の9――白花酒幕で夜は更けて/日韓話題あれこれの巻 | ||||||
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2日目の10――オープン・カフェでパッビンスの巻 | ||||||
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