生まれてから、発病、退院するまで。 

 

平成3年12月17日午後5時18分、3,042gで我が家に待望の女の子、ゆかぴーが誕生しました。
 生まれた時は軽い口蓋裂があったものの、それ以外は健常児でした。
 でも、生後8時間目の授乳の時に母乳が気管に入ってしまって、
炎症を起こしたのでNICU(未熟児集中治療室)に入り、
面会は一日に数分、小さな体に点滴がつながれたりして、とても痛々しく面会の度に泣いていました。
 口蓋裂は1歳になる頃に手術しましょうと言われて、かわいそうで泣てしまいました。
でもそれはこれから始まる悲劇のほんの始 まりでしかなかったのです・・・。
 
 私から遅れること7日目、ようやくゆかぴーが退院し毎日を謳歌(?)していました。
ところが生後48日目にゆかぴーのひいばぁちゃんが他界し、その三日後に告別式がありました。
でも、季節は真冬。寒いお寺での式に連れて行くのはかわいそうと、
朝11時に同じマンションの友人に預けて参列したのです。
   夕方4時になって骨あげの前に友人の家に迎えに行くと、泣き方が変で顔色がとても悪いので、
聞くと『ミルクは240ml飲んだけど、よく泣いていた』と教えてくれました。
  しばらく寝かせて様子を見ようと思って、友人にお礼を言って連れて帰りました。
帰宅してからも少しはウトウトするけれど、すぐに起きては蚊の鳴くような声で泣く事の繰り返しで、
やっぱりおかしいと思いNICUでお世話になった病院へ連絡して
車で急いで連れて行きました。(今思えば救急車を使えばよかった・・・。)
その時はまだ何が我が子に起こっているのか、それがどんなに危険な事かも分からずにいました。
病院に着いて診察して下さった医師は、ゆかぴーを見るなり『入院して下さい。』と言って
そのままゆかぴーを連れて病棟へ行ってしまいました。
 その時は顔色不良、食欲減退、痙攣、頸部硬直、意識不明の状態でした。
その間にも医師は、尿、血液、髄液の血液検査をして下さっていました。
 
 検査の結果、おそらく病名は、脳炎ではないかと・・・。
でも、炎症反応がない。痙攣がなぜ起こっているかは不明。
正常に戻る確率は2割、後の8割は後遺症が残ると。
 酸素テントに入って、手や足など、たくさんの点滴を入れるために管だらけになりました。
痙攣のために、脳圧が上がっているので、脳圧を下げる薬を使うと・・・。
薬や病気に対して、何の知識もない私は、医師の説明と治療に従うしかありませんでした。

 平成4年2月7日の日記から
 痙攣止めの薬を使うが、止まらない。泣かなくなる。痰がゴロゴロするので吸引をする。
髄液検査で異常あり。普通一桁の値が75にもなる。私はほとんど一日中泣いていたような気がする。
どうかゆかぴーを守ってやってください。早く元気になりますように・・・。
 
 相変わらず痙攣を頻発して、目を開けたままボーっとしてるゆかぴー。
3日目の朝には命は助かるだろうけど、後遺症は避けられないと宣言されました。
その日の昼過ぎには強い痙攣を4分半起こして、泡をふいてしまいました。
モニターで見ると、時折呼吸が止まっているらしく、もしもの時は人工呼吸器を使用する事を承認しました。
そんな話しをしていた矢先に、二分に一回ぐらいの割合で呼吸が止まるようになってしまい、
それに加えて午後八時ごろから熱発。この日は尿も少なくて色んな変化が起こっていた日でした。
入院して4日目の2月11日午前2時10分、異常は起こりました。
上部消化管出血による大量下血をして、顔や手足の色が白っぽくなり呼吸も不安定になりました。
この頃の体重からして、体の中を流れる血液の量は450CC程らしいのに、98CCも下血してしまったんです。
急きょ私から30CC輸血したけれど、次の日も呼吸が止まり、
その度に目を大きく開いて心拍数が200前後になるし、
貧血があるのでまた私から40CCを輸血しました。
血小板が減少しているのでDIC(血液の血管内凝固)の予防や、
尿量の確保、出血による血圧低下防止を加えた治療が始まりました。
 
毎日、尿が出なくなったり、肝臓が腫れたり、無反応であったりと容態を変えて気の休まる暇がありませんでした。
来る日も来る日も検査検査・・・。友香はその度に痛い思いをしていました。
そして、苦しい思いをしていました。私たちが日頃、ちょっとしたケガで痛いとか、
しんどいなんて言っているのなんて比じゃないぐらい・・・。だって、しんど過ぎて苦しすぎて
呼吸や心臓が止まりそうだったんですから。
私がいくらしんどいと思っても、死にそうって思っても、自分がそう思うだけで病院に行っても
生命が危ないなんて言われた事はないもの。それほど壮絶だったんです。
この事があってから私は、痛いとか、しんどいなんてそう簡単に言うまいと思ったんです・・・。
 
 入院から5日目、少し反応をみせ始めた友香。聴診器が冷たかったのかな?
抗痙攣剤の投与で毎日ほとんど寝たような状態が続いていました。
起きている時に体を起こすと、目が上を向いていました。
寝転んでいる時はわからないのに・・・。
6日目にCTを撮ったら、少し頭の中が黒ずんできていると言われました。
8日目はさすがに一週間もお風呂に入らないと体に垢がいっぱい!
スキナを買って来て、拭くと嫌がって泣いていました。
普通なら、そんな事は『あ〜泣いてるわ』ぐらいで気にもとめないんだろうけど、
この時は少しでも反応があれば本当に嬉しかった。痙攣の回数もどんどん減ってきて、時々お口も
チュッチュッてならしたり、とても8日前に生死の境をさまよったとは思えない回復ぶりでした。

平成4年2月15日の日記から
3時半から6時半まで家に帰りました。久しぶりに会う文哉はお兄ちゃんらしくなっていました。
私が病院に帰る時、泣いていてとてもかわいそうになりました。友香、座薬で大泣きする。元気ーっ!!

入院して、4日目に大量下血してからずっと少量の下血が続いていました。
このまま、鼻からチューブを入れて栄養を入れても、腸に負担がかかるそうで、胸に点滴を入れようと言う事になりました。
4日前に出した、ヘルペスの検査の結果が返って来ました。
結果はヘルペスではなく、私が原因ではないという事になって、脳炎か脳症だろうと言われました。
2日前に撮ったCTを見たら、前よりも黒ずんで見えて、いずれは溶けてしまうだろうといわれました。
溶けずに治る確率は低くて、何らかの後遺症を残すと宣告されました。
それでも、心の中では大丈夫かもしれないと思っていました。
10日目、昨日まで動いていなかったお腹が動き始めた!この頃になると、さすがに点滴もどんどんダメになってきて、
血管も細いからなかなか入らなくて、点滴一本入れるのに、1時間以上かかってました。

11日目、麻酔をして、心臓に近い静脈に管を通しました。
IVH(中心静脈栄養)と言うらしく、一度入れると、しばらくはもつし、
点滴では入れられない高カロリーな点滴も入れられるし、細い血管を何度も刺すことなく採血も出来ると言う
一石二鳥の物らしい。でも、管自体を肌に何箇所か縫って止めていたのには、ちょっとびっくりでした・・・。
他の病院でもそんな事(縫って止める事)するのかな〜。この日、試しに酸素テントから出てみました。
チャンスとばかりに抱っこしました♪
ヤッタ〜!!でもまだ少量の下血は止まらない・・・。


平成4年2月18日の日記から
日に日に良くなっていってる様子。お腹もすいているのが分かるし、大きな声で泣く!
先生たちってやっぱりすごい!!看護婦さんも!早くミルクが飲めるようになりますように・・・。
とうとう酸素のテントがなくなった!
体内の酸素を計る指につけてするヤツ(何て言うんだっけ?アレ・・・)もなくなった!
久しぶりにドーナツ枕を使う。朝、下血の原因を探すために胃の中を洗う。
でもとても綺麗で、胃からの出血でない事がわかる。
アンカもなくなった。出来るだけ自分の力で体温調節が出来るようになる為に・・・。
靴下も履けるようになった!うんちはとてもウンチ臭くて、前のような血の匂いがしなくなってきた。


14日目、やっと(ばっかり?)導尿していたチューブを取ってもらえました!
取ってから二時間後、オムツには46グラム分のおしっこが出ていました。
(言い忘れていたけど、入院してからずっとオシッコとウンチの量を計りで計っていました。)
モニターもはずした・・・ヤレヤレ・・・。いろんな機械が病室から消えていくのはとっても嬉しい事でした。
16日目、10:30、入院して初めて哺乳瓶をくわえました。30CC、まずはお白湯から。
家ではあまり飲まなかったのに、ちょっとずつながら全部飲んでしまいました。
15:30、ミルクを30CCもらって一度休んだだけで飲んでしまった。
この日から何回かミルクを飲んで、ウンチもよくしてとっても順調でした。
18日目、朝一で大部屋に移った!やっと看護婦詰め所横の前面ガラス張りの部屋から脱出!
20日目、前の日に撮ったCTの結果が出ました。
まず、1回目のCTでは、脳は腫れていて水っぽい状態、次に撮ったCTでは、
悪い所が黒っぽくなっている状態、そして、今回のCTではその黒っぽかった所が、
縮んできて子供では写らないナミナミ(しわ?)が脳の表面に写っていました。

平成4年2月28日の日記から
CTの結果を聞いてとってもショック!普通の子にはなれない脳になってしまった友香。
だけど、暗く落ち込んでられない。頑張ろう。

この日、もう健常児になる事はないと、後遺症が残ると宣告されたわけで。
頑張るしかないと心に誓いました。
この頃は一回のミルクの量は120ccになっていました。
私は退院も近づいて張り詰めていた物が少し緩んできていました。
そして、晴れて3月11日、色々な不安を抱えつつも、退院する事になりました。