出産・育児


凝り性の私がこだわったのは、「出産のスタイルと育児」ここでちょっとこだわりをお話しします
出産
私がこだわったのは、「自然なお産」。 薬を使ったり、切ったりするのは絶対イヤだったです。
そして、「立会い出産」。ダンナや子供が出産に立ち会う事。そして産後、入院中も子供と一緒にいられる(きょうだいが一緒に入院中も過ごせる)病院を探していました。

あるマタニティースクールで、「吉村病院」を知りました。そこは、畳の上で、布団の上で出産できる分娩室があるんです。立会いももちろんOK(きょうだいもOK)。他の病院は立会いするなら、後期の母親教室に参加が義務とか言うのに、ここはそれもなかったんです。娘を妊娠9ヶ月で、転院を決めました。初めての行った時にはダンナも診察室に入り、直接先生と話すことが出来ました。先生は忙しいにもかかわらず、診察の合間をぬって私達の話しを聞いてくれました。「ここで産もう」私達の希望通りのお産が出来るような気がしました。

先生は、難産傾向の妊婦が、昔ながらの薪割りや雑巾がけをやることによって安産になるという考えで、萱葺き屋根の家を病院裏に移築し、「古屋(ふるや)労働」をやっていました。
希望があれば誰でも出来るので、私も週に4日名古屋から片道1時間半かけて、通い古屋労働をやりました。
古屋の中のかまどで炊くご飯をお昼にもらって、友達も出来て、とても楽しかった。
一度だけ、「妊婦ハイキング」にも参加させてもらい、山をハイキングしたりしました。

そして、「散歩をする事」と先生に言われ、毎朝5時から約1時間(7000歩)を歩きました。
夜暗くなってからは怖かったし、夏場なので朝早くから明るかったので朝に散歩をしました。
ダンナが1日だけ散歩に付き合ったけど、その一度きりでギブアップするほどでした。
散歩の途中で、同じように散歩している老夫婦とあいさつを交わしたり、お腹に話しかけたりして、毎日歩きました。

予定日より遅れること、8日、12時間の陣痛の後に産まれたのが、娘でした。ダンナと実母の立会いのもと、3450グラムの大きめの娘が生まれました。もちろん投薬も会陰切開もありませんでした。

その3年1ヶ月後、息子を出産。この時は、ダンナと娘が出産に立ち会いました。陣痛が始まったのが午前3時頃。陣痛の間隔を測っているうちにどんどん痛くなってきて、急いで病院へ。
ちょうど、東名高速道路が集中工事で1車線のノロノロ運転。岡崎ICを降りた時に、破水した感じがしたので、「破水したみたい!信号無視して!」とダンナに言って、病院に急いでもらいました。病院に着くと眠そうにしていた、娘の目もパッチリ開き、ダンナと一緒に私と赤ちゃんの応援をしてくれました。お産の進行が早く、陣痛が始まってからわずか2時間半で、息子が3460グラムで生まれました。息子が生まれる所をしっかりと見てくれた娘。その後も息子をとてもかわいがってくれました。立ち合わせて良かった!と心から思っています。
その後の入院も娘と離れたくなかった私は、病院にお願いして娘と一緒に入院。娘の世話は実母に頼み、かりがね荘というところに、一緒に入院しました。

そして、3年7ヶ月ぶりの出産。今回は、娘も息子も学校や保育園に通っていることも考えて、自宅出産をしました。妊娠中は右足に静脈瘤が出たり、坐骨神経痛になったり、体重が増えすぎたりと、アクシデントがありましたが、自宅出産の介助をしてくれる、助産婦さんにめぐり合い、出産での入院で、家族と別れることなく、ずっと一緒にいることが出来ました。
自宅のお風呂での出産でしたが、これがとても楽でした。下の娘は、実家の母が来るのを待っていたかのように、実家の母がお風呂へ顔を出したとたん、するっと生まれました。

育児(育自)
オムツはベビーネンネと決めていたんです。ベビーネンネを知ったのは、まだ、独身のときに営業車の中で聞いたラジオ番組がきっかけ。このころ、「赤ちゃんが出来たら、絶対ベビーネンネを使うぞ!」と決めていました。(当時はダンナと出会っていなかった)
偶然、ダンナもこのラジオ番組を聞いていて、彼もまた、「ベビーネンネを使う!」と決めていたそうです。
となると、妊娠がわかった時からベビーネンネを購入し、購入先のマタニティースクールに参加することにしました。(購入代金やスクールの受講代金が高かったのだけど、大事な子供のためとダンナは大手を振ってOKしてくれました)そこで、育児=育自だと言う事や、おっぱいの良さ、抱き癖の良さ、子供の叱り方(何故悪いか、理由をきちんと教える)、などを学びました。誰もこんなに大切な事を教えてくれなかったし、とても勉強になりました。
子供は2人とも、オールベビーネンネ&母乳。紙オムツと粉ミルクは買ったことがないのが自慢かな(笑)
オムツも比較的早く取れました。娘は1歳10ヶ月、息子は2歳3ヶ月で、1日中普通のパンツでOKになりました。夜もオムツ要らず。オムツは早く取れた方がとっても楽。出掛ける時の荷物が少なくて、身軽になりました。

今は、自分で採点すると、余りいいおかあさんじゃないと思うし、よく怒ると思います。でも、子供は無条件で私達親を必要としてくれているし、怒られても「お母さん大好き」って言ってくれるのが嬉しい。たくさん抱きしめてあげたいと思うし、そばにいてあげたいと思っています。

育児(育自)の意味
まだまだ、育児の途中ですが、奈奈実を妊娠してから、イロイロな事を考えるようになりました。
自分達の所へ来てくれた子供たち。子供の為にと考えるようになった事。赤ちゃんがお腹に来た事によって解決した問題。

赤ちゃんは、親を選んで空から降りてきます。私達を選んで良かったと思ってもらうように、自分を磨いていきたいです。

赤ちゃんの不思議な力。
赤ちゃんが私のお腹に来るたびに、大きな問題が解決する事。

奈奈実の時は、ダンナのお父さんが脳腫瘍で入院。お腹に奈奈実が来た事を報告して、喜んでくれたのですが、出産を待つことなく他界。
生まれた娘に、お義父さんのきょうだいや友達は「女の子を楽しみにしていたのにね」(ダンナのきょうだいは男2人兄弟だから)といってました。
お義父さんは、ランドセルの製造を自営でやっていました。ダンナが後を継ぐ事になりました。

幸一郎の時は、後を継いだランドセルの会社を清算した事。
ランドセル製造の仕事は、自転車操業。半年しか稼動せず、しかも材料の支払いは現金、商品の納入の代金は手形。続けて行くとどんどん、借金が膨らんで行くのです。
ダンナも若いのでまだ、別の仕事に変わってもやっていける、と言う事で会社を清算する事を決めました。しかし、当時の担当税理士は、反対していました。私達がいくら、精算を希望しても「担保に入っている土地を取られる」といいつづけていたのです。
私が、無料の税務相談に行ったところ、精算は可能であることが分かり、しかも担当の税理士が「インチキ」税理士だと言う事が分かりました。
担当の税理士に内緒で精算をどんどん進めていきました。そのころ、私は幸一郎を妊娠中。奈奈実を連れて、税務相談や法務局に出かけたりと大変でした。
税務相談の時に相談にのってもらった税理士さんに精算業務を依頼、お金がない事を伝えてあったので、手数料を安くしてくれました。
精算業務がほとんど済んで、あとは法務局の書類待ちになった時、幸一郎を出産。
幸一郎が、会社を清算してくれたようなものです。

美央音の時は、奈奈実の学区の事です。
うちの近所は学区が複雑で、隣りの学区の真中に島の様にうちの学区があるんです。
家からちょっと離れた所の保育園に通った奈奈実にとって、唯一一緒の保育園に通っていたお友達と一緒の学校に行けると思っていたのに、学区が違うので別の学校になるんです。
その学区の境界線が、どこにあるのか良くわからないんです。大きい道路などなら、子供にも分かりやすいんですが、この境界線は「昔あった用水」なんです。しかも現在は埋め立てられていてどこにあるのかさっぱり分からないんです。親の私達にもわからないことをどうやって子供に納得させるというのでしょうか。
何度も教育委員会に掛け合ったり、教育委員会のHPに意見を送ったり、市長に直訴の手紙を送りました。越境させようかとも思いました。

美央音がお腹に来た時にはまだ、問題は解決していませんでした。しかし、年が明けてから、友達と同じ学校へ行ける事になりました。
同じ学校へ行ける事を奈奈実に伝えると、泣いて喜びました。別々の学校へ行かなくてはいけないと奈奈実に言った時には、「なな、お友達作るの上手だから、大丈夫だよ」って私達には気丈に言っていたのですが、やはり不安だったようです。

私はこの3回の妊娠で、赤ちゃんの不思議な力を感じました。

子供と向き合う時、子どもは自分を写す鏡だという事を、実感しました。