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12月12日 火曜日 晴れ
気持ちを整理するためにも、ぐるぐるを書いてみる。
答えが出るものではないだろうが。
3歳の女の子が親に面倒を見られないまま餓死するという痛ましい事件が愛知県であったそうである。
子どもの虐待や放置などの事件は連日と言っていいほど報道されており、もうすっかりめずらしくなくなっているかもしれない。
しかし、新しい事件を知るたび、わたしはいたたまれない気持ちになる。
女の子には脳血腫(?)があり、そのせいで成長が遅れていたとのこと。
母親はそんな子どもがうとましく、育児を放棄、餓死させたという。
病院では入院させるよう強く勧められたが「下の子どもに手がかかるから」と拒否。
(詳しくは朝日新聞のサイトなどをご覧ください。)
さらに今朝のニュースによれば、両親には百数十万円の借金があり経済的に苦しく、そのため入院を拒否したのではないかとのことであった。
その3歳の女の子は、最近は段ボール箱に閉じ込められて過ごすこともあったという。
3歳といえば我が家の娘と同じである。
楽しいことがいっぱいでじっとしていられない年頃のはず。
でも彼女は『じっとしていられない』ことを理由に、せまい箱に閉じ込められていたというのである。
段ボール箱の中で彼女は何を思っていたのだろう。
親にだっこされた思い出、甘えた思い出、あるいは生まれる前の記憶の中で夢を見ていたのか。
病院の勧めに従って入院させていれば、彼女はまだ助かったかもしれない。
笑ったり、泣いたり、怒ったり、すねたり、走ったり、ころんだり、歌ったり、踊ったり、悩んだり、安心したり、誰かに好きと言ったり、誰かに好きと言われたり、楽しいもの、うれしいもの、きれいなもの、すてきなもの、素晴らしいもの、いろんなたくさんのものを見たり聞いたり感じたり、そんな生きていく中でのいいことがこれからもいっぱいあったはずなのに。
でもその彼女は、もういないのだ。
たとえようもない悲しみと憤りとやるせなさに押しつぶされそうになる。
こういう事件を知ると、以前は「自分は気をつけよう」「うちはこんなではないから大丈夫」「子どもが入院できるくらいのお金は常に用意しなければ」などと思うことが多かった。
しかし最近のわたしはそんなふうには感じられなくなっている。
子どもをこんなにしてしまった親に対する怒りもほとんど感じない。
その代わりにわたしの心を占めるのは、「どうしてそんなことになってしまったんだろう」「誰も何もできなかったのか」という疑問と憤り、そして「わたしには何もできなかったのか」という自責の気持ちである。
自分の子どもでなくても子どもはかわいい、と思えるようになったのは、自分に子どもが生まれてからである。
子どもは愛を食べて育つものだと思う。
そして大人には、子どもを愛する義務がある。
他の何を与えることができなくても、愛情だけは切らしてはいけない。
親の中には、子どもに愛情を与えることのできない人もいるかもしれない。
でもそのときは親でなくてもいい。
誰かがその子どもに愛情を与えてあげればいいし、そうしなければならないと思う。
今回わたしを苦しめているのはこの点である。
おそらく愛情の欠乏していたこの女の子に、わたしは何もできなかったのだ。
「そんな親戚でも友人でも近所でもない他人の子どもに対して何もできないのは当然」
正論だ。
でもそれは、わたしの疑問の答えにはなってくれない。
「その子を思う気持ちを自分の子どもや自分の周りの子どもに分けてあげればいい」
正論である。
でもいくらわたしが愛情をふりまいたって、彼女や同様の事件にあった子どもたちはもう二度と帰ってこないのだ。
わたしはこれからどうすればいいのだろう。
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