イエスの御名を昂揚せよ

        イエスの御名

 イエスの御名、おゝいとも貴きイエスの聖名、ほめよ !!

 諸君 !! 諸君は、イエスの聖名の尊貴を知らるゝでありましょうが、いかばかり主の聖名を崇め、其の聖名による権威を感得されてゐらるゝ事でありましょうか?

 教会史を通覧しますと、初代教会程主イエスの聖名の昂揚せられた事はなく、使徒時代程主イエスの御名による権威の発揚せられたる時はありませんでした。彼らは、伝道するにもイエスの御名によりて致しました(使徒行伝 5章40節)。洗礼を施すにも、イエスの御名によりて致しました(使徒行伝 2章38節、8章16節)。宣言するにも(コリント前書5章4節)、命ずるにも(テサロニケ後書 3章6節)、奇跡を行うにも(使徒行伝 3章6節)、徴と不思議とを行ふにも(使徒行伝 4章30節)、神癒を行ふにも(ヤコブ書 5章13節)、イエスの御名によりて致しました。誠にコロサイ書第3章17節に勧めてありますやふに、生活そのものが凡て「為す所の凡ての事、あるひは言、あるひは行為、みな主イエスの名に頼りてなし」たのであります。実に、使徒時代に鳴り渡ってゐたのは、イエス・イエス・おゝイエスとの聖名であったのであります。

 何故でありましょうか。我等今、其の原因を探ね、其の聖名の意義を考察し、以て此の末の時代に於ても更に、使徒時代に勝るとも劣らない程聖名に栄光あらしめたいと存ずるのであります。で、先づ、主の御名の尊貴と権威と其の御名に関する約束を調べ、而して現代教会の欠陥に論及、最後に我らの責任を明かに致したいと存じます。

      イエスの御名の尊貴

 イエスの御名の貴さは申す迄もありませんが、何故其の御名が「もろもろの名にまさる名」でありませうか(ピリピ書 2章9節、エペソ書 1章21節)

 第一に、これは神の聖名であるからであります。聖書には、神を唯一として教へ、父・子・聖霊としての神が啓示されてありますが、一体「神の聖名とは何ぞや」と聴かれますと、誰しも当惑するのであります。然るに主は、ヨハネ伝 17章11節の下半句に、聖なる父よ、我に賜ひたる汝の御名。と宣ひて、其の神の御名の何たるかを、明白にされたのであります。「我に賜ひたる汝の御名」と言ふのは、申す迄もなく「イエス」との事でありまして、イエスとは神の聖名であります。イエスといふ御名は、主の御降誕の時に、かれ子を生まん。汝その名をイエスと名づくべし(マタイ伝 1章21節)と、主の御使によって、啓示されたものでありますが、使徒行伝 4章12節と、ピリピ書 2章9節とには、此のイエスの御名は、神が与え給ふたといふ事が録されてあります。

 第二には、此の聖名の所有者なる主イエス・キリスト御自身が、又神で在し給ふからであります。主イエス・キリストの神なる事は聖書の啓示する所でありまして、主イエスは今在し、昔在し、後来り給ふ主なる全能の神であります。初めであり終りで在し給ふのであります。「イエス」との御名は、神で在し給ふた「言(ロゴス)」が、万人を救ふべく、人となり給ひし時に、人類に顕された聖名であります。

 聖名の権威

 斯くの如く、救い主なる唯一の神の聖名であります故に、其の聖名の意義如何に関はらず、其の聖名に権威があるので御座います。

 第一、救ひの権威

   イエスの聖名には
 1. 己が民を、その罪より救ひ給ふ
 2. 神われらと偕に在す(マタイ伝 1章21,23節)
との意味を蔵しますが、人類が救はるゝといふ事の第一義は、其の聖名に示さるゝ如く、罪より救はれて神と共に在る、といふ事であります。斯かる意味合に於いて人類は、如何なる人又如何なる名に頼りても、救はれないのであります。何となれば、神は、
    他の者によりては救いを得ることなし
    天の下には我らの頼りて救はるべき他の名を人に賜ひし事なければなり(使徒行伝 4章12節)とあるからであります。

故に、唯々、すべて、主の御名を呼び頼(たの)む者は救はれん(使徒行伝 4章12節)
 すべて、主の御名を呼び、求むる者は救はるべし(ロマ書 10章13節)
とある如く、主の御名を呼ぶ者のみが救はるゝので御座います。

 第二、洗礼に於ての権威

   洗礼は、具体的に罪の赦しと罪の潔めを持ち来らす点に於て、全き救いに与かる要件の一つであります。罪の赦しと言ひ、潔めと言ふも、若し洗礼に於ける水が、神の御前に、実質的に主の血に変ずるものでなければ、如何なる方法、如何なる名に於いて洗礼を施しても、それは、神の御前には、悔改めを表明するバプテスマ以外の効果はないのであります。唯、神の定め給ひし、イエスの名に於いてのみ之を挙行する時に、其の意義と効果を発生するものでありまして、洗礼に於いては、イエスの御名は、絶対的な権威であります。(使徒行伝 2章38節、10章43節、ヨハネ第一書 2章12節)

 第三、悪魔に対する権威

   六千年来の老蛇と呼ばるべきサタンは、人類に対して絶対的な権威をもってゐると言はるゝ程に、能力ある者でありますが、之を排撃し、屈服せしむる能力は、唯イエスの聖名のみであります。イエスの聖名のみが、サタンを服せしむる権威をもってゐるのでありまして、イエスの名による信仰以外には、一切の事が無力なる事を、事実が証明してゐます故にイエスは、我が名によりて悪鬼を逐ひ出し(マルコ伝 16章17節)と、言ひ給ふたのであります。

 第四、神の権威

   ピリピ書第2章10節11節に、
 これ天に在るもの、地に在るもの悉とくイエスの名によりて膝を屈め、且もろもろの舌の「イエス・キリストは主なり」と言ひあらはして、栄光を父なる  神に帰せん為なり。
とありますが、やがて時来る時に、其の好むと好まざるに拘はらず、天にあるもの、地に在るもの、生きとし生ける一切のものが、みな主の御前に拝跪せしめらるゝ時が来るのであります。何たる権威でありましょう。主の聖名には、斯る権威があるので御座います。

 聖名による約束

   以上は、聖名による権威でありますが、主が在世当時なされた多くの約束の中に、聖名に関する約束を申し上げますならば、先に申し上げた、「悪鬼を逐ひ出す」約束の他に、

第一、 主の臨在に対する約束があります。
それは、マタイ伝18章20節の、 二三人わが名によりて集まる所には我もその中に在るなり。との聖言であります。我らが、集会し、会合し、又式典を挙行する場合に、「主イエスの御名によりて」開会を宣する所以は、主の御臨在を仰がん為であります。

 第二、祈りの応顕
 主は、祈祷の場合に於て、主の御名によりて求むる一切はみな、応へられると、次の 如く御約束なさいました。
 何事にても、我が名によりて我に願はば我これを成すべし(ヨハネ伝 14章14節)
 汝等のすべて父に求むる者をば、我が名によりて求めたることなし。求めよ、然らば受けん、而して汝らの喜悦みたさるべし(ヨハネ伝 16章23,24節)

「何事にても」であります。凡てであります。之さへ判れば、何物もいりません。何たる貴い、有り難い、お約束で御座いませう。

 第三、聖名による保護

 更に貴い、有り難い事は、主の御名による保護であります。主イエスの最後のお祈りの中に、我に賜ひたる汝の御名の中に彼らを守りたまへ。われに賜ひたる汝の御名の中に彼らを守り、かつ保護したり(ヨハネ伝 17章11節、12節)とありますが、神は、聖名の故に、キリストの教会を守り、聖名の故に教会を復興し(エゼキエル書 36章22節)、聖名の故に、主に在る信者を守り、保護し、恒にその霊を活かして、正しき路へと導き給ふのであります(詩篇 23篇3節)。我らの状態の如何によるのではありません。唯聖名の故であります。

 現代教会の欠陥

   主の御名は、斯くの如く貴くあり、斯の如く権威あり、斯の如く有り難いものであり乍ら、何故現代教会は之を弥が上にも、昂揚し、其の聖名の威力を発揮しないのでありましょうか。

 第一、現代教会は、主イエス・キリストを神として信じ崇ふ念が乏しいからであります。

 第二世紀のラテン神学の創始者元法律家であったテルトリアンによって発明された三位一体といふ言葉に捕はれ過ぎてゐるのであります。否、禍ひされてゐるのであります。聖書には、何処にも、三位一体といふ言はありません。霊のことは、霊の言を当てない所から、誤謬が生ずるのであります。霊に属する者の心情は、霊の言でなければ満足致しません。初代教会には、神学といふものはありませんでした。現代の如き教理もありませんでした。彼等には、神の事は、奥義として啓示されたのであります。キリストの神たる事も又、敬虔の奥義として、キリスト(神)は肉にて顕わされ霊にて義とせられ、御使たちに見られ、もろもろの国人に宣伝へられ、世に信ぜられ、栄光のうちに上げられ給へり(テモテ前書 3章16節)と啓示されたのであります。

故に、イエス・キリストは、単なる思想の問題に非ず、「人の近づき難き光に住み」(テモテ前書 6章16節)、「神の栄光の輝き、神の本質の型」(ヘブル書 1章3節)、「大なる神」(テトス書 3章12節)、「真の神にして、永遠の生命なり」(ヨハネ第一書 5章20節)として、礼拝の対象、祈祷の対象であったのであります。

   第二、現代教会の欠陥は又、活キリストの念が乏しい事であります。それは聖霊が無いからであります。初代教会に於ては、復活の主を拝し、御昇天の主を見たのであります。而して其の十日後に、御存じの御霊の大傾注があり、御霊として主は、彼らの中に活ける存在となり給ふたのであります。御霊によらざれば、活ける主の実体に触れまつる事は、全然不可能であります。初代教会に於ては、基督者と言へばみな、御霊を持つ者でありました。彼らは、主を信じ、バプテスマを受ければみな、救ひの保証として聖霊を賜ったのであります。現代教会に於ては、果して如何?

    第三、故に彼らの生活の中心は、主御自身であり、初めに申しました如く、一切が主イエスの御名によってなされましたが故に、彼らの生活の中にも、教会の中にも、主イエス・キリストの御名が昂揚せられてゐたのであります。彼等のイエスの聖名を昂揚する其の事が、又いよいよイエスの聖名を昂揚せしめて行った所以でもあります。現代教会はイエス御自身の聖名を昂揚する事が甚だ乏しいのであります。

 第四、聖名による能力は、聖名に対する信仰如何によるのであります。然るに現代教会は、聖名に対しての信が余りにも欠除してゐます。こゝに聖名に由る御力の顕はれぬ原因があります。彼の使徒ペテロが、宮の美麗といふ門にて、  金銀は我になし、然れど我に有るものを汝に与ふ。ナザレのイエス・キリストの名によりて歩めと言って、跛者(あしなえ)を癒した時に、彼は群衆に向ひ、斯て、その聖名を信ずるに因りて、その御名は汝らの見るところ識るところの此の人を健(つよ)くしたり。イエスによる信仰は、汝等もろもろの前にて、斯る全癒を得させたり(使徒行伝 3章1〜16節参照)と言って、跛者(あしなえ)を癒したのは、彼自身に非ず、まことにイエス御自身であり、其のイエスに対する信仰を持てばこそ、其の聖名によっての奇跡が行はれた事を、説明して居ります。イエスに対する信なき者にとりては如何にイエスの名を称へ ても、それは空名に過ぎません。それに就いては、使徒行伝 19章13節以下に面白い実例があります。

 ここに諸国遍歴の呪文師なるユダヤ人数人あり、試みに悪霊に憑かれたる者に対して、主イエスの名を呼び「パウロの宣ぶるイエスによりて、「汝らに命ず」と言へり。悪霊こたへて言ふ「われイエスを知り、パウロを知る。然れど汝らは誰ぞ。」 斯て悪霊の入りたる人、かれらに跳びかゝりて二人に勝ち、これを打拉ぎたれば、彼ら裸体になり傷を受けて、其の家を逃げ出でたり。

      我らの負債

   諸君 !! 我らは、現代教会に、キリストの栄光の無い原因を知りました。然しキリストの教会は、斯くあっていいのでありませうか。キリストの教会とは何でせう。主イエス・キリストを、首に戴くものであります。

 基督者とは何ぞ。主の聖名を呼ぶ者であります。最早我生くるに非ずキリスト我が内にありて生き給ふ存在であります。而して如何にもして教会に於て、己が身に於て、キリストの崇められん事を切願すべきであります。然るに悲しむべき事は、現世界の諸教会は、エゼキエル書第36章の預言にある如く、彼等その往く処の国々に至りしが遂にわが聖き名を汚せり、との現状であります。然し諸君、憂ふる必要は更にありません。我らの神は寝りゐ給ふ神ではないのであります。賛美せよ。感謝せよ。神は、御自身を其の大なる聖き御名の故に、教会を回復し、其の御名に栄光あらしめん事を預言してゐ給ひます。而して其のエゼキエル書第36章25節以下には、御霊を与へんと約束しゐ給ふのであります。何故でしょうか。御霊の降臨なくば、教会は回復しないからであります。御霊の降臨ありて初めて、キリストの体なる真の教会は出現するからであります。一度御霊降り給へば、万物新になり言葉のキリストは、活けるキリストの実在となり、イエスは崇められ、其の聖名は賛美せられ、キリスト中心の使徒時代は再現するからであります。ハレルヤ。

 之の神の御経綸の実現の為に、我が教会は選ばれたのであります。

 諸君、誰が諸教会をして聖霊に目覚ましむるでありませうか。誰が真の福音を宣伝へて、真の教会を建設するでありませうか。誰が人々をして全き真の救に与からしむるでありませうか。之は聖霊を持つ真の教会のみが、なし能ふ所であります。されば愛兄姉 !! 此年も、諸教会に対する我らの責任を痛感し、負されし使命を自覚し「御名の崇められん事を」と、全地に聖名の栄光の満つる迄、勇躍邁進してまゐりませう。

              (聖霊誌77号 昭和17年1月1日発行より)  




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