神の保証は如何?

   教会墜落の起因

   新約聖書を通覧すると、聖霊経験なくして、真の基督者生涯が送り得ないと悟り得よう。否、初代教会の信者は、みな受霊し、聖霊なき者は基督者にあらざりしと、断言するも過言でなかろう。

 キリストの御霊なき者はキリストに属する者にあらず。(ロマ書 8章9節)  

 汝らの身はその内にある、神より受けたる聖霊の宮にして汝らは己の者にあらざるをしらぬか。(コリント前書 6章19節)

   我キリストと偕に十字架につけられたり。最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり。(ガラテヤ書 2章20節)

   聖書の光によりて現代教会を照し見れば、其の趣きが、其の内容が、本質的に初代教会と相異ってゐるやうに感じらるゝだろう。謂(いわ)ゆる純福音と言ふものが、型に於ては稍(やや)聖書の啓示する基督者に近いが、それも言葉の上だけの事であって、其の実体に触れてゐない。教会が斯くなりしは、今日に始った事でなく、既に第二世紀よりの事であるとは周知の事である。其の起因する所は何処にあるかと言へば、疑いもなく唯一つ、聖書に録されてある通りに、初代の使徒達や信者達が受けた通りに、聖霊を受けぬ事に因る。

   教会の建立は受霊による

   神の教会の紀元と言ふものは、主が御在世当時、ピリポ・カイザリヤの地方に於て、弟子達に「人々は人の子を誰と言ふか」と問い給ひしに使徒ペテロが「なんぢはキリスト、活ける神の子なり」と答へしを嘉せられて、「バルヨナ・シモン、汝は幸福なり、汝に之を示したるは血肉にあらず、天にいます我が父なり、我はまた汝に告ぐ、汝はペテロなり。我この磐の上に我が教会を建ん。黄泉の門はこれに勝たざるべし。」(マタイ伝 16章13、20節。参照)と申された事が、使徒行伝第2章に録されたるペンテコステの日に於ける聖霊の大降臨によって、教会が実現した事にはじまる。

其の様に、人は変り、世は移るとも教会の建立は、主イエスを「キリスト、神の子」と信ずる者の上に聖霊が注がれて、成就するのである。

我らはユダヤ人・ギリシャ人・奴隷・自主の別なく、一体とならん為に、みな一つ御霊にてバプテスマを受けたり、而して、みな一つ御霊を飲めり。」(コリント前書12章13節)

 勿論私の言ふ教会とは、見ゆる教会や教派を意味するのでなく、聖書の啓示する教会、即ち過去、現在、未来を貫いて唯一なるキリストの花嫁たるべき、キリストの体なる教会を意味するのである。此の教会のみがキリストの空中再臨の時、携挙さるるのではなかろうか。若し然るとせば、コリント後書5章5節には、それに適ふ者としての証拠として御霊が与えられてあるとあるから、其の保証なき者は、再臨の日に、どうするつもりか。受霊と言ふものは、有るは無きに勝ると言ったやうなものではない。指導者たる者は、何事も聖書通りにして置けば、安全であると言ふのみならず、やがて主の聖前に立つ時、神と人との前に良心の悔ひなき生涯を送りたる事を悟るであろう。

   誤謬の根源

   それを「既に聖霊は降り給ふたからキリストを信ずる者の内には聖霊が宿り居給ふのだ」とか。又洗礼を受けた時に聖霊のバポテスマを受けているのだと、教へ、又信じてゐる者もあるが、それは全く非聖書的である。非聖書的であると言へば、「否、我らは聖書に汝ら知らずや。『汝らは神の宮にして、神の御霊汝らの中に住み給ふを』(コリント前書 6章16節)とあるからさう信じて居る」と言はるゝであろうが、一体其の聖句のある書簡は誰に贈られたのか。「我らの受けし霊は」とあるが如く、受霊している信者方に、問題あり、紛争あり、其の解決を依頼されし使徒パウロよりの解答としての書簡であったのだ、而も受霊後に於ける悩みは、罪を犯せる者より、聖霊は去り給はざるかと言ふ懸念である。斯るが故に「われ父に請はん、父は他に助主をあたへて、永遠に汝らと偕に居らしめ給ふべし」と宣伝ひし主は、いとも懇ろに傷ける彼らの魂を労はるべく、「汝ら知らさるや」と言ひて、内住の主を疑はざるようにと、其の 確信を促し給ふたと同時に、神の御霊の宿る宮なる体の神聖を清く維持すべく、自重と自覚を促してゐ給ふのである。罪を犯せる神の子等に対する神の慈悲(あわれみ)の深さよ。まことに主は大牧者にて在し給ふ哉。それを、受霊もせぬ者が、恰も自らに送られた書簡の如く、己に当て嵌める処に、根本的な間違いがあり、其処から一切の誤謬が生ずるのである。

 受霊の意を明にせよ

   聖霊を受けると言ふのは、何時受けたか判らないやうなボンヤリしたものではない。宿る、受ける、印せられる、与えられる、異邦人にも聖霊の賜物の注がれしに驚けり、等と聖書に記されてあるやうに抽象的なものでなく、具体的な、厳然たる明白なる体験である。

 或る人達は「いや我らは聖霊を受けてはゐるが、まだ満されてゐないのだ」と言ひ、又「聖霊のバプテスマは受けたが、聖霊の満しはまだだ」と言ふ。之らは、もっともらしく聴へるが、実は「聖霊を受ける」と言ふのと、「聖霊に満される」とか、「聖霊のバプテスマを蒙る」と言ふのと、別の事実であると言ふ見解から来た間違いであり、これは別々の事実を取扱ってゐると思ってはならぬ。使徒行伝第10章44節以下にあるコルネリオ家に於ける聖霊降臨の出来事を、聖霊が降った、注がれた、受けた、と録されてあるが、11章の15節を見ると、此の事実をペテロはエルサレムに於て「爰に、われ語り出づるや、聖霊かれらの上に降りたまふ。初め我らの上に降りし如し」と言ひ、之を16節には「聖霊のバプテスマ」17節には「我らに賜ひし同じ御霊」と言ってゐる。「我らの上に降りしとか我らに賜ひし同じ賜物」と言ふのは、使徒行伝2章にある聖霊降臨の事であって、それは申すまでもなく使徒行伝第1章4節5節にある聖霊のバプテスマの成就である。其の事を同書2章4節は「彼等みな聖霊に満され」と言っている。それ故に、信者が初めに「聖霊を受ける」と言ふ事を「聖霊のバプテスマを蒙った」とか「聖霊に満された」と言ふ言葉をもって表現されてあると言ふ事を又知らねばならぬ。勿論、受霊後に「御霊に満されよ。」とか、又時たま特別な場合に上より現実的な満しを蒙る事もあるが、それは一度聖霊経験(受霊)を持った者に対して言はれた事である。

 余りにも軽率

   其処で、我等が聖書的聖霊のバプテスマを受けねばならぬと高調する所以のものは、聖書的聖霊のバプテスマを受けて見て、初めて、聖霊を受けてゐたな否かゞ、ハッキリと判るからである。

 勿論、聖書的聖霊のバプテスマを受けぬと何らの霊の動きを蒙って居らぬと言ふのではない「神に近づけ、さらば神汝らに近づき給はん」熱心に神を追い求むれば、其処には多少なりの霊感があり、又神の異象に接するものである。が霊感があったから、霊光や幻を見たから、神の御声を聴いたから、又聖言を与へられたからと言って、それをもって聖霊のバプテスマを受けたとか、聖霊を受けた等と信ずるのは余りにも軽率である。然るに、如何なる体験をせしものでも聖書通りの聖霊のバプテスマを受けて見ると、霊感は霊感、異象は異象、御声は御声と霊界の事状が明白になり、聖霊を受けた事との明確なる区別がつくのである。聖書的聖霊のバプテスマとは、聖書に録されてある通りに聖霊を受けると言ふ事である。それは使徒行伝を見れば判る事だが、初代の信者達が、「そは彼等が異言をかたり、神を崇むるを聞きたるに因る」と、聖霊降臨を知ったやうに、異言の伴ふ聖霊のバプテスマを言ふのである。もっと判り易く言へば、使徒行伝二章四節に「彼等みな聖霊にて満され、御霊の宣べしむるまゝに異邦の言にて語りはじむ」とあるが如く、衷に宿り給ひし聖霊樣が新しき言葉をもて物語り給ふ事である。之を改訳聖書では異言と訳してあるが、霊言と訳するのが正しからう。受霊者は殆どみな異言をもって祈り得るが、異言をもって祈る事は、霊をもって祈る事である。(コリント前書 14章14〜16、20節)  御霊が衷より語り給ふ事によって我らは衷に御霊が在し給ふと明白に知るのである。諸兄姉には、証の伴ふ聖霊あるや否や。

     聖霊の印は

   エペソ書1章13節を見ると、汝らもキリストの在りて真の言、すなわち汝らの救ひの福音をきき彼を信じて約束の聖霊にて印せられたり。とあるが、諸兄姉は、一、福音を聴き、二、彼主イエス・キリストを信じ、それで止ってゐらるゝではないか。それとも約束の聖霊をもて印せられたるや。救はれてゐると自分免許もよかろうが、救ってやったぞと神よりの保証を頂く事は、更によく何と有難い勿体無い事ではないか。創世に於けるアベルの如く、天より火降りて、神に嘉納されし証を戴きたくはないか。(創世記 4章4節)

 シナイ山麓に於てモーセは神の幕屋を作った。其の竣工の砌り、「斯て雲集会の天幕を蓋ひてエホバの栄光幕屋に充てり。モーセは集会の幕屋にいることを得ざりき。是雲その上に止り、且エホバの栄光幕屋に盈たればなり。」(出エジプト記 40章34、35節)とある。

 あなたの宮に神の御霊は降りしや。御霊なき神の宮は儚かなく、神の宮は聖霊ありて貴し。今心の至聖所を開きて、主の御霊を迎へ奉れよ。

                (聖霊誌第46号 昭和14年3月1日発行より)




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