基督教案内「世々の経綸」

はしがき

聖書には、人間の運命と世界に関する予言が顕示されてあります。これを世々の経綸と言い、この神の御経綸を知る事は、キリスト教の全貌を知る早道であり、又明確なる人生観、宇宙観を持つことになります。而も世の歴史は、この御経綸の示す如くなり、来るべき世も又この御経綸の示す如くなるとせば、あゝ如何に世の終末の悲惨であり、人間の運命の果敢なきことよ。

われらは一刻も早く、この神の御経綸の道を悟り、主イエス・キリストを信じて、暗黒の世界より光明の世界へと、運命の転換を図り、希望輝き、歓喜みつる溌溂たる生命と深き平安との生活に入るべきであります。

(一)天地創造

 聖書の一番初めの書、創世記を飜(ひもど)いて見ると、その第1章には、1節に
元始(はじめ)に神天地を創造(つくり)たまへり
とあって、神が六日の間に天地万物を創造し、六日目に人類を造り給うた事が録るしてあります。之によって見ると、真の神様は

(二)真の神

天地の創造主であり人類の父なる神で在し給うことが分かります。又聖書はこの神の外に神はなく、真の神は「唯一」であると教えてあります。

(三)人類

      人は、土の塵をもって造られ、エデンの園に置かれ、万物を支配する権が与えられたのですが、何が故に「人、全世界をもうくとも、己が生命を損せば、何の益あらん」(マルコ伝 8章36節)といわれる程、貴いのでしょうか。

1. 人は、神に象(かたど)られて造られ、神の像(すがた)をもち(創世記 1章26節)又

2. 「神、生気を其の鼻に嘘入(ふきいれ)たまへり人即ち生霊(いけるもの)となりぬ」(創世記 2章7節)と。人は、その中に霊魂をもつからであります。

  故に人はパンのみで生きる事は出来ない。神なくして生くる事は出来ない。

      3. 神から「独子を賜うほど愛せられている」(ヨハネ伝 3章16節)からであります。

(四)サタン

処が、創世記第3章には、サタンがエデンの園に来て、始祖アダムとエバを誘惑し、罪を犯させた事が記してあります。

抑々、サタンとは何物か。これは神に逆き、天界から追放されて、この地球に来た悪霊であり、空中とこの世に 権を持ち、この世界を破壊し、今以て世の一切の禍の根元をなしている悪霊の首であります。然し之らの悪霊の一族は、最後の大審判の時、火と硫黄との池に投げ入れられ、永遠の刑罰に処せられる運命に置かれています。

(五)人間の運命

アダムとエバは悪魔に欺かれて罪を犯し「罪の払ふ価は死なり」(ロマ書 6章23節)「一たび死ぬることと死にてのち審判を受くることとの人に定りたる如く」(ヘブル書9章27節)とあるように、死と審判を受ける運命に置かれたのであります。而して、アダム以来の全人類も又「義人なし、一人だになし」(ロマ書 3章10節)「凡ての人、罪を犯したれば神の栄光を受くるに足らず」(ロマ書 3章23節)アダムと同じく「死に繋がれた奴隷の生涯」(ヘブル書 2章15節)を送っているのであります。

(六)黄泉

死とは何でしょう。肉体と霊との分離であります。人は死にますと、体は土に化しますが、霊は「よみ」の世界に行きます。「よみ」とは霊が審判を受けるため、最後の大審判の日まで、閉じ籠められている獄の事です。

(七)ゲヘナ(地獄)

最後の大審判の時に(黙示録20章)地上に於て生を得た凡ての人は、肉体に於いて甦り、神の審判の座に出でて、審きを受け、生命の書に録されていない者はみな、悪魔の投ぜられた火の池に投げ入れられます。こゝがゲヘナであり、これが永遠の刑罰であって、又第二の死とも言います。この第二の死とは、神との永遠の分離、神より永遠に棄てらるゝことであります。

(八)罪

罪とは何か。「不法を行う」ことであります。「神の誡命を破る」事であります。(ヨハネ第一書 3章4節)
アダムは神が、「善悪を知の樹は汝その果を食ふべからず、汝これを食ふ日には必ず死ぬべければなり」(創世記 2章17節)との誡命を破って、その果を食した。その為に罪は世に入り、人は死ぬるものとなったのであります。

(九)救い主出現の預言

しかし、死陰の地に救いの御光はさし来る。それは何か。救い主、出現の予言である。神は、アダムの堕落の直後、救い主の出現を宣言し給うた。(創世記 第3章15節)
それに関する予言は約二百程ありますが今一、一説明することは止めて、唯その予言が抽象的でなく、みな具体的の予言であると申し上げたい。
例えば「救い主は、俄然天より顕われるのではなくて、女から生れる」とか、その女も既婚者か、未婚者か分からぬ故「をとめ孕みて子を生まん」とか、何処の処女であるか分らぬ故「ダビデの裔(すえ)」とか、何処で生れるか分らぬ故「ベツレヘムで生れ給う」とある様に。

(十)イエス・キリスト

この聖書の予言に応じて、この世に生れ給うた御方が、イエス・キリストであります。
イエスとは真の神の御名。キリストとは救い主との意であります。

このイエス様は真の神様であって、見えざる神が見ゆる神となり給うた御方であります。(イザヤ書 9章6節、ヨハネ第一書 5章20節)
唯一の神が人となり給うたと言う事は、神の奥義であります。(テモテ前書 3章16節、ヨハネ伝 1章1〜14節、ヘブル書 1章3節、コロサイ書1章19節、2章9節)
主イエス御自身も「アブラハムの生れ出でぬ前より我は在るなり」「我と父とは一つなり」「汝等もし我を知りたらば我父をも知りしならん。今より汝ら之を知る、既に之を見たり」「我を見し者は父を見しなり」(ヨハネ伝 8章58節、10章30節、14章7節、9節)と宣うたのであります。

主イエスの神たる事は、左の七つの事を以ても立証されます。
1. 予言された通りに生れ、予言されてる通りの御生涯を送り給うた事。
2. 処女より生れ給うた事。
3. 罪なき清き御生涯を全うし給うた事。
4. 神でなくば出来ぬ多くの奇跡を行い給うた事。例えば、盲目の目を開け癩病人を潔め死人を活かし給うた事等。
     5. 十字架上にて死に、葬られ給うたが三日目に肉体に於て甦り給うた事。
6. 御復活後四十日目に、御昇天なし給うた事。
7. 主イエスは、今も昔と変りなく、信ずる者に御霊を与えて之を救い、又病を癒し、悲しめる者を慰さめ、弱き者を強め、乏しきものを充たし、恒に人の祈に聞き応え給う事。
等であります。

       (十一)十字架の死

然し、人は問うでしょう。「何が故に神は人となりて世に現われ、善き業をなし、最後はあの惨たらしい十字架の死を遂げ給うたか」と。この事に就いても聖書は多くの予言をなして「キリストは万民の罪を負いて死に給う」と明示してあります。それは罪のゆるしなくして全き救いはあり得ないからです。如何にして罪のゆるしが行われるか。
「罪の払う価は死なり」
「おほよそ律法によれば、万のもの血をもて潔めらる、もし血を流すことなくばゆるさるゝことなし」(ロマ書 6章23節。ヘブル書 9章22節)
人は人を救い得ない。人は己れ自らも救われねばならぬ罪人であるから。故に神は「我が外に救主なし」と宣給うたのであります。然し神は霊で在し給う。肉と血をもち給わぬ神は、如何して身代わりの贖罪の死を遂げる事が出来ようか。故に神は、この予言を成就する為に、血と肉をもつ人となり給うたのであります。これが、イエス・キリストであります。 故に聖書では、イエス様の御事を、マリヤより生まれ給うたが故に「人の子」又聖霊によって生まれ給うたが故に「神の子」と申すのであって、父なる神、子なる神、聖霊なる神、と三つの神々があるのでなく、実はイエス御自身が父なる神で在し給うのであるが世革(あらた)まり、「涙なく、死なく、悲歎(かなしみ)も、号泣(さけび)も、苦痛もなかるべし」(黙示録 21章3〜4節)と言う時代(とき)の来るまで、神の子としての職務(救い)を全うしなければならないから、主イエスは唯一の神で在し給うが、職分として、其の日まで、父の立場(神)子の立場(贖罪主)から聖書には「神と羔羊との御座」とか「父なる神および我らの主イエス・キリスト」とか録してあり、テモテ前書 2章5節には それ神は唯一なり、また神と人との間の中保も唯一にして、人なるキリスト・イエス是なりと教えてありますが、その4節には、「神は凡ての人の救はれて、真理を悟るに至らん事を欲し給ふ」とあって、その中保者としての人なるキリスト・イエスが唯一の神で在し給う事を知らん事を欲して居給います。「贖主は一つ」「凡ての者の父なる神は一つなり」(エペソ書 4章5, 6節)

而して聖書は「主なる我らの神は唯一つなり」(申命記 6章4節、マルコ伝 12章29節)と教えます。まことに神は、人となりて顕われ、十字架に於て凡ての人の罪を負わんが為に己の身を献げ、罪のゆるしの契約の血を流して天の至聖所に入り、永遠の贖罪を全うし給うたのであります。(ヘブル書 9章12節20節)
人の血ではなくて「神の己の血をもて」(使徒行伝 20章28節)とある如く、神の御血であります。而して今や、主イエス.キリストを信ずる凡ての人の罪を赦し、聖霊を与えてその救いを全うし給うのであります。

(十二)再臨

  天に昇り給うた主イエスは、復この世に来たり給うのであります。(使徒行伝1章11節)
これを再臨といゝますが、再臨には、二つの意味が含まれていて、一つは空中顕現又は空中再臨或は又携挙とも言います。一つは地上再臨。

1.携挙

主が空中まで顕われ給う時、地上の聖徒は、死ねる者は甦り、生ける者は霊体に化して空中に携挙せられ、主イエスの御許に集められて、永遠に主と共に居るのであります。キリストの救いは霊肉の救いであり、携挙の時には肉体が不死の体に霊化するのであります。(テサロニケ前書 4章13〜18節、コリント前書 15章52〜57節)

亦キリストの霊を受けている信者の集合団体を、キリストの体なる教会と言いますが、(コリント前書 12章12節・13節)キリストと教会との関係を身体に譬えるならば、キリストは教会の首、教会はその体。夫婦に譬えるならばキリストは新郎、教会はその新婦と称えられます。(エペソ書 1章22節・23節、5章31節・32節)主の空中再臨の時には、この教会が携挙されるのであります。

2.地上再臨

主イエス・キリストが、天地の権と大なる栄光をもて、もろもろの御使を率い、全能者の右に座し、天の雲にのりて来り給うとき、この地上に不滅の神の国が建設されます。(ダニエル書 2章44節。マタイ伝 24章30節、26章64節。ゼカリヤ書 14章4節)この神の国の建設の当初に、

(イ)イスラエル民族の改心あり(ゼカリヤ書 13章6節)その不虔は取り除かれ (ロマ書 11章26節)一日にしてイスラエル帝国は復興するのであります。(イザヤ書 66章8節)
(ロ)次に諸国民の審判(マタイ伝 25章31節以下)
(ハ)サタンの捕縛と悪の一掃(黙示録 20章1節〜3節) 等が行われます。

(十三)千年王国

斯くて、主イエス・キリストが、正義と平和とをもって全地を支配し給う神の国が 出現します。
この間が千年続きますから、これを千年の御世と申します。この千年王国時代に万物は復興し「おほかみは小羊とともにやどり、豹は小山羊とともにふし、犢(こうし)、牡獅(おじし) 肥たる家畜とともに居りて、小さき童子にみちびかれ」何処にても害はるゝ事なき世界となり、(イザヤ書 11章6〜9節)まことに人類最高の世界が出現するのであります。携挙された教会は 彼らは(千年の間)地の上に王となるべし(黙示録 5章10節)

(十四)大患難時代

然し、聖書は大患難時代の到来を予言しています。ダニエル書9章27節には、その時代は七年間とあり、その時代の有様は、黙示録第6章から19章までに詳細に描写されてあり、主イエスはこの日は誠に開闢以来の大患難の時で、その日を限定しなければ「一人も救わるゝものなからん」と予言し給うた程の戦慄すべき世であります。この七年間の中間即ち三年半のときに、空中の権をもつサタンは地上に追放されて、この地は、この世は、又となき渾沌たる修羅の巷と化すのであります。(ダニエル書 9章27節、テサロニケ後書 2章3〜10節)是れ実に神の世に対する審判の時であって(黙示録 6章〜19章)何時この時代が始まるかといえば、聖徒の携挙の時に始まり、主の地上再臨のときに終る。

(十五)最後の大審判

大患難時代に次いで千年王国時代は始まり、千年王国時代が終ると、暫時サタンは、底なき所より解放されて全地の民を惑わす。
これは人民に対する神の試みの時である。然して逆きし民衆は、天よりの火にて焼き尽され、悪魔は火の池に投ぜられて永遠の刑罰に処せられる。斯くて大いなる白き審判に御座が現わる。
その御前に、地上に於て生を得た全人類はみなひき出され、その為し来った行為に随って審かれる。斯くて、死も陰府(よみ)も又すべて生命の書に記されぬ者はみな、火の池に投ぜられる。
これ第二の死であり又永遠の刑罰であります。かくして大審判は終る。

(十六)新天新地

見よ。斯くて天体と地は燃え崩れ(ペテロ後書3章8節〜13節)「視よわれ一切のものを新にするなり」(黙示録21章3節〜5節)こゝに新天新地は出現し、神、人と偕に住み、人、神の民となり、死もなく、悲しみもなく、喜びと、平和と義との神の国は、永遠から永遠へと栄え行くのであります。

(十七)教会時代 

1.救いの道

  さて我らはどこへ行くのでありましょうか。行くところはただ「死と陰府とゲヘナ」。
生き永らえて居れば、大患難時代の渦中への投入。所詮人は救われない哀れな運命の中にある。然しこの悲惨の運命より救われて神の国に入る道はないか。
ある。主イエス・キリストは言い給うた。人は水と霊とによりて生れずば、神の国に入る事能はず。(ヨハネ伝 3章5節)と。新生こそは、真に「神の国」に入る唯一つの道であります。
この新生の道如何?
「水と霊」、神の定め給うた「水のバプテスマと霊のバプテスマ」を受ける事であります。信じてバプテスマを受くる者は救わるべし。然れど信ぜぬ者は罪に定めらるべし。(マルコ伝 16章16節)実に「水と霊」は、救いに与かる関門であって、人は水と霊のバプテスマを受けて全き救いに与るのであります。
初代教会の発端の時、即ちペンテコステの朝、初めて聖霊が信者に降った時、使徒ペテロの説教に心うたれた三千人余の聴衆が「われら何をなすべきか」と問うた時に、主から天国の鍵を与えられていたペテロは、なんじら悔改めて、おのおの罪の赦しを得んために(1)イエス・キリストの名によりてバプテスマを受けよ(2)然らば聖霊の賜物をうけん(使徒行伝 2章38節)と答えて、水と霊との道を明示した。それが又使徒達の教えであり、信仰であります。(テトス書 3章5節6節。コリント前書 6章11節。ロマ書6章17節18節)故に初代の教会に於ては、信者といえば、受洗し受霊したもの。主を信ずれば、洗礼を受け、聖霊を受け、又聖霊を受ければ洗礼を受けるというのが常道でありました。

2.水のバプテスマ(洗礼)

では洗礼とは何か。洗礼は、救いに与る一つの条件であって、其の儀式は、全身を水に沈めて致します。その意義は

1) 更生(うまれかわり)の洗であります。(テトス書 3章5節、6節)
2) 罪の赦し(使徒行伝 2章38節。ルカ伝 24章47節)
3) 罪の洗い潔め(使徒行伝 22章16節)
4) イエスに合うための死と葬り(ロマ書 6章3節4節。コロサイ書 2章12節)
5) 復活に与るため(ロマ書 6章5節。コリント前書 15章29節)
6) キリストの聖名を衣せらるゝ事(ガラテヤ書 3章27節)
等であります。故に洗礼は全き救いに与るために大切な事であって、その執行も又、父・子・聖霊の聖名、即ちイエス・キリストの名によって致さねばならないのであります。故に初代の教会ではみな、イエスの名によって洗礼を施しました。(使徒行伝 2章38節。8章16節。10章48節。19章5節。22章16節)

3.聖霊のバプテスマ(受霊)

  洗礼を外部の更正とすれば、受霊は内部の更正でありますが、受霊する事はキリストが霊となって信ずる者の心に宿り給う事であります。(ヨハネ伝 14章17節、23節。コロサイ書 1章27節。コリント後書 3章17節)

「聖霊来る時なんじらを導きて真理をことごとく悟らしめん」とか「万の事を教へん」とか「平安、慰め、喜びが、充ち溢るゝ生命が与えらるゝ」とか、実に天よりのよきものが与えられますので感謝です。(ヨハネ伝 7章38節。14章26節、27節。16章13節、22節。イザヤ書 28章12節)それのみならず、上よりの能力を得て主の証人にされますから実に感謝であります。聖書には、この受霊することを又次の如く申しています。

1) 救いの保証、永生の保証、贖の日の保証、又嗣業の保証等の印である事。(コリント後書 1章22節。エペソ書 1章13節。4章30節)
2) 神の実子になることです。(ロマ書 8章15節。ガラテヤ書 4章6節)
3) 神の国に入り、又神の国を心に持つ事。(ヨハネ伝 3章5節。ルカ伝 17章20節、21節)
4) 永生を衷にもつこと。(ヨハネ第一書 5章12節)
5) キリストの体(教会)と一体となる事。(コリント前書 12章13節)
6) 御再臨のときの肉体の栄化の保証。(コリント後書 5章5節)
7) 心の割礼を受ける事、即ち神のものであるという印。(ピリピ書3章3節)
斯く考えれば、受霊も又救いの根本的なものだという事が分ります。

4.受霊の徴

  問題は、受霊したらどうして分かるかということですが、受霊しますと、その人の口から外国語の様な言葉が出てきます。これを聖書では異言といい、御霊の言わしむるままに語る、自分でも分からぬ言葉であります。受霊の外部的徴は、聖書では唯異言のみであります。
異言には、三種類あり
1) 受霊したときの徴としての異言(使徒行伝 2章4節。10章46節。19章6節)
2) 受霊後、霊で祈り又歌わしめらるるときの異言(コリント前書 14章14節、15節。エペソ書 5章19節。6章18節。ピリピ書 3章3節。コロサイ書 3章16節。ユダ書 20節。ロマ書 8章26節)

          これは異言の賜物を得て語るのでなく、受霊者は衷なる御霊によって祈り得る事が常道で、異言で祈ることが即ち    真の礼拝であり、霊が主とならず、唯心(分る言葉)のみで祈りますと、霊気を失い、肉的になることは、世界の受霊者が立証していることですから、恒に霊の祈りを主としていなければなりません。(ヨハネ伝 4章23節24節。ピリピ書 3章3節)

    3)異言の賜物による異言の説教

異言の賜物を得ますと、何時でも異言で説教が出来ます。 が、その異言と霊の祈りの異言とは、異言は異言でもその目的が異なります。賜物による異言は人に語る事であり、霊の祈りは神に語る事です。霊の賜物に九つあり(コリント前書 12章8節〜10節)賜物は自由に使用い得ます故、異言や予言の賜物を得た方は、教会に於てはコリント前書第14章の教えに従って、それを使用いたさねばなりません。

5.救いとは何ぞ

       救いとは
1) 神の国に入ることである。
2) 洗礼を受けて罪に死に、聖霊を受けて新たに生れることである。
3) 斯くて神の実子になることである。
4) 現在は、霊が贖なわれて神の小であるが、再臨の時には体が贖なわれて栄光体をもつ神の子になる事。斯くて救いは完成される。
      5) 主イエス・キリストの名によりて(洗礼)聖霊によりて(受霊)己れを洗いかつ 潔められ、かつ義とせられる事。
      6) 罪赦されて永生を賜わり、ゲヘナから救われて、神の国を嗣ぐものとなり、永遠に神と偕に生きるものとされる事。
   7) 罪の身は亡びて新人となる事。
8) 視よ、運命の転換である。
   キリストの神たる以外には、其の身分も地位も栄誉もみなキリストと同一である事。
   ああ何たる栄光ある運命ぞや。

おすすめ

さて、愛する兄弟姉妹(みなさま)、万事は斯くの如く、世は我らの好むと好まざるにかかわらず、聖書の予言通りになって行く。而して愛の神はすでに、十字架に於て罪の赦しの血を流して、救いの道を開き給い、信ずる者に聖霊を与えて現実に救い給うのであります。が然し、何時までもこの救いの時代は続くのではない。「異邦人の数満つる時」即ち救わるる者の定数が満つる時、主の再臨あり、キリストの体なる教会(水と霊のバプテスマを受けた信者の集団)は、空中に携挙されてその後に大患難時代が続くのである。
どうです?今あなたも水と霊のバプテスマを受けて救われませんか。
そしてこの救いの数の中に入りましょう。

洗礼は人がします故、時と場所を要しますが、聖霊は、主イエス・キリスト様が与え給うのですから、どこでも、今求めて与えられます。難行苦行して戴くのではありません。

お恵みです。憐れみです。
唯主イエス・キリストを救い主と信じ、唯主を見仰げて、ハレルヤ(神を讃美せよとの意)ハレルヤと主を讃美していますと聖霊が臨んできます。
  斯くの如き大いなる救を等閑(なほざり)にして争(いか)でか遁(のが)るることを得ん(ヘブル書 2章3節)
      今、聖霊を受けて、あなたの永遠の運命を決定して、真の幸福な人になって下さい。
その為に、私はこの世々の経綸の解説を致しました。  




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