末日聖徒イエス・キリスト教会

一般的にはモルモン教という名称で通っている。街角や駅前で白人青年の二人組に「アナタハ、カミヲ、シンジマスカ?」と声をかけられた人も多いと思う。モルモン教の信者は青年期に2年間の宣教活動が奨励されており、教団立のブリガム・ヤング大学では取得単位の一部にもなっているようである。聖書の他に『モルモン経』『高価なる真珠』といった書物が正典とされているため、一般の教会からは正統的教会とは認められていない。正典以外でも三位一体の教理から離れた神観や、死者のためのバプテスマ等、一般のキリスト教とは相容れない部分が多い。

 モルモン教は1830年にニューヨーク州においてフェイエット・ジョセフ・スミス(1805〜1844)が創始した宗派である。スミスは米国バーモント州シャロンの貧しい家に生まれ、少年期にニューヨーク州マンチェスターに移住した。当時のアメリカはキリスト教派間の争いが激しく、心を悩ませた彼は近くの森の中で一人静かに神に祈ったという。そのとき、彼の目の前にまばゆい光と共に父なる神とイエス・キリストが現れ、スミスに対していずれの教会にも加わるなと命じた。その三年後の1823年9月、彼はモロナイという天使の示現を受け、家の近くの丘に埋められたモルモン(モロナイの父)が金の板に刻んだアメリカ先住民の記録の存在を告げられる。そこで彼は「金板の本」と「ウリムとトンミム」という宝石(一種の翻訳機)を発見するが、天使は彼が成人するまで取ってはならぬと警告した。それから4年後の1927年になって初めて彼はそれらを掘り出し、金板に書かれていた内容を英語に翻訳した。そして1830年の春、その本を『モルモン経』という題で出版し、同時にニューヨーク州パラマイラに5名の仲間と共に教会を設立した。スミスは自らを預言者と称し、神からの啓示は預言者のみに与えられると主張した。

 翌31年には教会をオハイオ州のカートランドに移し、そこで教会の組織や教理を整備した。しかし、周囲からの迫害にあって38年にはミズリー州インディペンデンスに移る。そこで彼らは信仰共同体を建設するが、ここでもやがて迫害が起こり、そこから去らねばならなくなった。ミズリー州を追われた彼らはイリノイ州コマースという小さな村に落ち着き、そこをノーヴー(ヘブライ語で美しい所)と名づけた。ノーヴーは最初は小さな町であったが、独立した立法権と司法権を持っていたため、急速に発展し、数年後にはイリノイ州最大の都市となった。しかしノーヴーにおいてもモルモン教に対する敵対心の芽は次第に大きくなっていき、指導者たちの多妻結婚問題がきっかけとなって反対者たちとの間で争いが起き、スミスは銃撃戦の中で死亡する。

 スミスの死後、残った信者は後継者としてブリガム・ヤング(1801〜1877)を大管長に選出した。ちなみにモルモン教会の指導者の地位「大管長」はこのときに定められたものである。ヤングを中心として結束を固めた信者たち数千人はノーヴーを去り、新天地に向かってあてのない旅に出発した。途中いくたの困難に出会いながら旅を続け、1年半後、彼らは安住の地に到着し、そこをソルトレーク市と名づけた。そこはかつて、人間が住むには適さない土地と言われていた所であるが、彼らは、持ち前の勤勉さで都市建設を行い、また政府によりそこがユタ(準)州として認可され、ヤングが初代知事に就任した。しかしここでも多妻結婚は問題とされ、教会は1889年に多妻結婚を中止した。しかし、今でもモルモン教の分派の中にはこの教理を自分たちの共同体の中で守っているところがあるという。




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