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基督者よ 聖霊経験を明白にせよ |
ペンテコステの朝
イエスは神の右に挙げられ、約束の聖霊を父より受けて、汝らの見聞きする此のものを注ぎ給ひしなり(使徒行伝 2章33節)
之らの言葉は、使徒ペテロが受霊直後、群衆に向って「聖霊降臨」を斯く云ふたのである。
初代教会には、聖霊のバプテスマは、至極左様に明白なるものであった。此事を、初信者にも判り易く言へば、主イエス・キリストの御昇天後十日目の朝、「エルサレムを離れずして、我より聞きし父の約束を待て」との主の御命令を遵奉して、待望して居た百二十人の弟子達の上に俄然、聖霊は臨み来り、彼等は聖霊に満されて、御霊の述べしむる儘の異邦の言葉にて語り始めたのである。(使徒行伝 2章1〜4節)
時は丁度ペンテコステの日であったので、此の日を祝ふべく世界各国より敬虔なるユダヤ人等がエルサレムに参集してゐた。時にこの霊の物凄い音だ。群衆が驚き怪しんだのも無理はない。「これ何事ぞ」「何だ、彼等は甘き葡萄酒に満されて居るんだよ」等と噂とりどりだ。
使徒ペテロの説教
之に答ふべく立上ったのが使徒ペテロで、其の大説教を要約すれば斯うだ。
一、 諸君、今は朝の何時だと思う?朝っぱらから酒に酔ふ者が居るか。
一、 之はヨエルの預言にあるやうに聖霊が降り給ふたのだ。
一、 諸君は、先にナザレのイエスが、神の能力を顕し給ふた事を知って居るだろう。
一、 然るに、諸君は、無惨にも此の神の子を、不法の手をもて十字架に殺して仕舞った。
一、 然し聞けよ、神は、預言にもあるやうに、イエスを甦へらせ給ふたのだ。
一、 我らは真に其の証人である。
一、 見よ。 イエスは神の右に挙げられて、約束の聖霊を父より受け、御覧の通り、我らに聖霊を降し給ふたのである。
一、 だから諸君、諸君は、諸君の殺した此のイエスを、神は立てゝ、主となしキリスト(救主との意)となし給ふた事を、深く胸に銘記せよ。
救ひ
斯う説教されてはたまったものでない。群衆は心刺されて、「我ら救はれん為に何をなすべきか」と問ふた。
(1)汝ら悔改めて、(2)各自(おのおの)の罪の赦しを得ん為にイエス・キリストの名に由りてバプテスマを受けよ、(3)然らば聖霊の賜物を受けん(原語の意は必ず聖霊の賜物が副ふて来るぞ)(4)此の約束は汝らと汝らの子等と総(すべて)の遠きもの、即ち主なる我らの神の召し給ふ者とに属(つ)くなり。(使徒行伝 2章38〜39節)と聞かされて、此の日に信者となりし者、凡そ三千人。
福音とは
一体、基督教とか、福音と言ふのは何か。申すまでもなく、キリスト御自身である。此の主キリストは何をなし給ふたかと云ふに、第一に、聖書に応じて我らの罪の為に死に、第二に、聖書に応じて葬られ、第三に、聖書に応じて三日目に甦へり給ふたのである。「聖書に応じて」とは「預言通り」にと云ふ事であるが、此の主を信ずる時に、誰しも救はるゝのである。
基督者とは
私の申し度い事は、主キリストに、三つの事実があるが如く、基督者にも同じ意味合の事実が三つあるといふ事である。
1. 死
第一は回心、即ち真の回心とは、己に死に、罪に死す事で、真に、基督者は「キリストと偕に十字架につけられし者」主の十字架の中に「釘づけられし己が姿を」見なければならぬ。
2. 葬り
第二は、洗礼即ち水のバプテスマであるが、洗礼とは教会員になる印ではない。まことに罪と咎とに死せる我が葬られる式である。
3. 甦へり
第三、主が甦へり給ふた如く、我も又キリストと偕に甦へされて、キリストと偕に天の処に坐せしめられるのである。斯くて「我活くれば汝らも活くるなり」との実在とならねばならぬ。要するに、基督者とは、「我キリストと偕に十字架につけられたり。最早我生くるにあらず、キリスト我が衷に在りて活くるなり」との実際である。之は聖霊を受けて始めて実現さるゝのである。教理的に言へば、洗礼を受けて水より上る時、甦へされて、新らしき生命の道を歩むべき筈であるが、主が、彼のヨルダン河に於て、洗礼を受けて水より上り給ひし時、直ちに神の御霊が降り給ふたやうに、バプテスマを受けて、直ちに聖霊を受くべき筈であるが、実際は中々さうなっては居ない。故に、受霊せずして、唯単に教理のみを信じて居る者は骸骨と等しく、聖霊を受けずして、霊的と言ふは、霊的といふ儀文に過ぎず、霊其のものではない。如何に見る目は美しく調ってゐても、蝋人形の如きものである。
聖書は何と云へるか
おゝ、基督者よ! 聖霊を受けずして何の基督教ぞ。之は人事でなく、生命の問題だ。己が教理は何であれ、人は又何と言はうと、聖書は何といふか、刮目して汝の手にする聖書を読み直せ。
主の約束
「主は渇ける者我に来れ」と宣はぬか。「我を信ずる者は、聖書に言へる如く、其の腹より活ける水、河となりて流れ出づべし」と宣ふと。ヨハネは之に注解して曰く「これは信ずる者の受けんとする御霊をさして言ひ給ふたのであるが、イエス未だ栄光を受け給はないので、御霊は未だ降らなかったのである。」(ヨハネ伝 7章39節)と。「未だ栄光を受け給はず」とは、未だ復活御昇天なさらぬと云ふ事である。
主も又付(わた)され給ふ夜、ヨハネ伝14、15、16章にあるが如く、懇々と聖霊に就いて弟子等に語り給ふた。『おゝ子等よ、憂ふるな。泣くな。我は父の許に行くが、汝らを孤子(みなしご)にはしないぞ。又汝らに来るなり。我去らずば、助け主汝等に来らじ。我行かば之を汝らに遣さん』
約束の成就
誠に主は、十字架に贖罪(あがなひ)を成し就げ給ふて、昇天なし、父より約束の御霊を受けて、人々の見聞きする-----見聞の出来るやうに-----此ものを-----聖霊を注ぎ給ふたのである。
今の期は
爾来、携挙の日までを聖霊時代と申して御霊は、明白なる聖霊経験として証を伴ひ信ずるものゝ衷に宿り給ふのである。
あゝ、何と有難い、勿体ない事か。然れば、誰しも一切の弁明を止めて、主の聖前にひれ伏し、聖霊経験を明白にして戴けよ !!
(聖霊誌19号 昭和11年9月1日発行より)