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第1回「学びを始めるにあたって」 |
私たちは普段、何気なく日本語の聖書(口語訳、新共同訳、新改訳など)を読んでいますが、そもそも聖書とは、どのような歴史を経て、今の私たちの手元にあるのでしょうか。聖書は「神の言葉」であると言われますが、それは決して超自然的に空から降ってきた訳ではありません。聖書は、神の霊感を受けた人々によって「言葉として語られ」「文書として書き記され」「編纂されて書物となり」「教会会議によって正典とされ」「誰もが読めるように翻訳され」て、今、私たちの手元にあるのです。
今、何気なく「神の霊感を受けた」と書きましたが、このことは聖書を語る上で最も重要な意味を持つことであると同時に、非常に議論が分かれることでもあります。一例を挙げると、単純に「霊感を受けた」と言っても、それは、言葉として最初に語られた段階で霊感を受けたのか、それを文字にした段階で霊感を受けたのか、編纂した段階で霊感を受けたのか、それとも教会会議で正典と定められたときに、賛成の投票をした人が霊感を受けて投票したのか、という問題があります。聖書は、ある時にある人が神の霊感を受けて、現在あるままの形で執筆したのだとすれば問題はすっきりしますが、事実はそれほど単純ではありません。
それはそれとして、私たちは、この、いわば聖書の成立史とでもいうべきものを学ぶことにより、私たちは、自分が「聖書」を手にしているという「当たり前」の現実の背後に、どれだけ長い歴史があり、苦労や苦難があり、時によっては殉教者の尊い血が流された事実さえあるのだということを知ることができます。
今回の連載では、大きく3つの流れについて学んでいきます。第一番目は「聖書はどのようにして書かれたか」、第二番目は「聖書はどのようにしてキリスト教の正典となったのか」、第三番目は「聖書はどのようにして翻訳されたか」です。
第一番目の「聖書はどのようにして書かれたのか」については、学者の中でも保守的な立場の人と急進的な立場の人では考え方に大きな違いがあり、様々な学説がありますので、あまり断定的なことを言ったり、個々の細かな学説を紹介するのは避けて、教会での学びにふさわしい内容にしたいと考えています。