第6回「新約聖書の正典化」

 新約聖書に含まれる27巻の諸文書は、紀元1世紀の中頃から執筆が始まり、紀元2世紀の中頃には完了していましたが、当時は、それ以外にも多くの類似の文書(○○による福音書、○○行伝、○○の手紙、○○の黙示録など)が書かれて存在していました。

 それらの諸文書の中から、正統的な信仰に立つ文書を選び出して信仰の規範とする、正典化の必要が生まれました。初代教会の歴史は、正統的な信仰を確立するための歴史でしたが、それは別な言い方をすれば、異端的信仰との戦いの歴史でもありました。正統的信仰と異端的信仰を明確に区別するためには聖書の正典化が必要不可欠な課題だったのです。

 そして、その正典化のきっかけとなったのが、皮肉にも、教会が異端者として破門したマルキオンという人物による、「マルキオン派の聖書正典化」でした。マルキオンは紀元100年頃に小アジアのシノペで生まれたキリスト教徒でしたが、司教であった父親と対立して家を飛び出し、ローマに行ってローマ教会に多額の寄付をして、そこで受け入れられました。しかし、やがてその異端的な思想のゆえに破門されて、自分独自の教会(マルキオン派)を設立します。

 マルキオンの思想は、次のようなものでした。まず「新約の神」と「旧約の神」を全く別な神として区別します。マルキオンにとって、世界を創造した旧約の神は、怒りの神、嫉妬する神、不完全な神であり、一方、イエスが示した新約の神は、真の神、いつくしみの神、完全な神でした。また、イエスご自身についても、真の神によって派遣された救い主として認めるのですが、正統派教会が唱える神人両性を否定し、神が人間のように苦しむはずがないとして、イエスの人間性を否定する仮現論(人間イエスの身体に神のキリストの霊が宿ったという考え方)をとりました。このようにマルキオンの思想は当時のグノーシス派の影響を強く受けていました。

 マルキオンは旧約の神を否定したので、当然のことながら旧約聖書は教会にとって不必要だとして排除し、また新約においてもユダヤ教の名残をとどめている内容の文書は全て排除したのです。その結果、マルキオンが選んだのは、ルカによる福音書とパウロの手紙だけでした。こうしてマルキオンは自分の教会(教派)で使用する聖書を限定して正典化したのです。

 もちろんこのような聖書の選別は、正統派教会にとって受け入れられないものでありましたが、同時に、マルキオンが提示した「正典化」の重要性を正統派教会は認識し、自らも正典化をする必要を認めたのです。

 当時はまだキリスト教の教義が明確に確立していなかったため、「神論」「キリスト論」「救済論」などは、多くの異なる見解が存在し、それぞれの立場に立った信仰文書がたくさん書かれていたのです。そのような混乱を整理し、正統的な信仰を確立していったのが古代教会(紀元2世紀から6世紀までの教会を「古代教会」と呼びます)の働きでした。そして数あるキリスト教的文書の中から、異端的な文書が除外され、正統的信仰に即した文書が集められて「新約聖書」として結集したのです。

 もっとも、ここで新約聖書に選ばれなかった文書すべてが異端的というわけではないのです。聖書にはならなかったけれど、正統的信仰に立つ書物もたくさんありました。中には、新約聖書の中のマイナーな文書よりも、もっと聖書にふさわしいと思われる文書すらあります。それらの文書は聖書とは別に「使徒教父文書」として残されています。

 さて、この正典化の作業は一朝一夕に完成したのではなく、300年近い年月をかけて、何度も開催された教会会議において議論を重ねることによって一歩一歩進められました。新約聖書が現在の形で一応承認されたのは、紀元397年のカルタゴ会議においてでした。この決定はローマ教会を中心とする西方教会ではすぐに受け入れられましたが、ギリシャ正教会を中心とする東方教会では「ヨハネの黙示録」を正典に入れるか否かで議論が残り、最終的にこれを承認したのは紀元10世紀になってからでした。

 このように、聖書は単純に初めから聖書として成立したわけではなく、また、聖書を正典として決定したのも自明のことではなく、教会会議の議論と採決の結果だったのだということも理解しておく必要があると思います。



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