第7回「ウルガタ訳」

 旧約聖書はヘブル語(一部アラム語)、新約聖書はコイネーと呼ばれる口語ギリシャ語で書かれましたが、キリスト教が広まったローマ帝国の公用語はラテン語だったため、比較的早い時期からラテン語への翻訳が始まりました。これら初期のラテン語訳を「古ラテン語訳」と呼びます。

 しかしこれらの翻訳は完全なものではなかったため、紀元382年に、ローマ教皇ダマスス1世は、教父の一人であるヒエロニムスに旧新約聖書のラテン語校訂を命じ, この命を受けたヒエロニムスは、それまで翻訳されていた新約聖書の古ラテン語訳とギリシャ語テキストをつき合わせて校訂を行い、新約聖書のラテン語校訂版を完成させました。

 続いてヒエロニムスは、386年に旧約聖書の校訂版作成のためにパレスチナに渡り、70人訳とオリゲネスのヘクサプラ(六欄対照聖書)を用いて翻訳を開始し、更にはユダヤ教ラビにヘブル語の手ほどきを受けながらベブル語聖書(マソラ本文)からの翻訳に取り組み、紀元400年頃に旧約の校訂版を完成しました。この翻訳をウルガタ訳(ウルガタとは「一般の」「共通の」という意味)と呼びます。

 さて、ヒエロニムスは、旧約の翻訳・校訂の作業を進める中で、70人訳には含まれているけれど、ヘブル語のマソラ本文には無い一連の文書があることを発見しました。それらの文書をどのように取り扱うべきか、ヒエロニムスは悩みますが、最終的に彼は、ヘブル語聖書の中にはなく、70人訳には含まれている文書を「アポクリファ」と名付けて、ウルガタ訳聖書の中(旧約と新約の間)に加えたのです。

 しかし、ヒエロニムス自身は、旧約に関してはヘブル語原典に含まれているものが「正典」であり、アポクリファは第二義的なものであるという見解を持っていたので、完成したウルガタ訳をローマ教皇に献じる際、その見解を伝えました。しかし、ローマ教皇は、その見解を無視(あるいは軽視)して、旧約とアポクリファを区別しなかったために、それ以後長期間にわたり、アポクリファも正典の一部として取り扱われることになってしまったのです。

 このようにして出来上がったウルガタ訳聖書は、カトリック教会の事実上の公認聖書となりました。そして、ヨーロッパでラテン語が公用語でなくなり、一般の民衆がラテン語を理解しなくなってからも公用聖書として使用され続け、ミサ(礼拝)はラテン語で執り行われたため、一般の民衆にとってウルガタ訳聖書は、例えば日本のお寺で僧侶が唱えるお経を私たちが理解できないのと同様の状況になりました。中世の教会では、民衆が理解できる自国語の言葉(世俗の言葉)への翻訳は、神への冒涜として禁止されたのです。



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