平氏との関係
これまでわかった事、推定
| これから書く内容は事実と推定が入ります。 指宿の中小路に中川路家が何故、たくさん住んでいるのかの推定です。 これから書く内容を読んでも、何故、平氏の一門とその家臣達が薩摩に移住して、指宿の中小路に居ついたのかはわかりません。 その謎を解く為、調べましたが、結論が今のところ出てはいません。 これから、まず事実関係を列挙いたします。 2012の大河ドラマで「平家」という言葉がでてきます。平家という言葉は皆さん馴染みがあると思います。 しかしながら、平家は「平清盛」近親の平氏を意味しています。 平氏はもっと広い言葉です。桓武天皇から続く流れ全体です。 ネットでの平氏の系図 資料1 平氏と平家の違い で詳細は見れます。 資料1で、家系がわかります 桓武天皇----平国香-貞盛-維将-維時-直方-維方- 平(阿多美)盛方 -熊谷直貞-熊谷直実 平盛方については 直貞の資料から 安芸熊谷氏に伝わる熊谷系図によると、父平盛方は平忠盛を襲撃したグループの一員だったため、天皇の怒りに触れて処刑され、その時直貞は赤子であり、乳母に抱かれて武蔵国大里郡熊谷郷に落ち延びた。成長後、所領もない寄寓の身だったが、熊退治で名を上げ、所領を得たという。別の説では代々続く領主であるとして、そのような伝説の欠落している系図もある。 ここまでが最初ネット等で調べた事実です。 ここからは推定です。 「平盛方は平忠盛を襲撃したグループの一員だったため、天皇の怒りに触れて処刑され、、、、」 となっており、平盛方自身が九州に来たとは思えない。 平忠盛*****天皇の怒り触れて***とあるが、 NHKの平清盛にもあるように、当時は上皇の権力が強く、天皇にそんな力があったのかは疑問である。 平忠盛を襲撃した話はネットでも出てくるが、上記と同様な内容は見つかっていません。 熊谷系図の内容を深く掘り下げないと真相は出てきません。その資料が何処にあるのか、国会図書館にでも行って調べないとわからないです。 検索すると有名な塙保己一の続群書類従に記載されている可能性は高いです 。 NHKの大河ドラマでは平忠盛が崇徳天皇の御前で舞を行った時、公家の策略があった様に表現しています。 調べても、襲撃の噂はありましたが、本当に襲撃があったとは書いてありません。 話を戻して、平忠盛と同時代に生きた平盛方が九州の博多に来た記録はないにしろ、平氏は西日本方面に勢力があったものと思われます。 もしかして、博多から南下して鹿児島に来たかもしれません。丁度島津家の勃興期です。 島津家の家臣達を調べましたが、中川路に近い名前は出てきません。 また、ネットからの情報です。 ここから、盛方の孫の熊谷直実の話をします。 関東地方で武将として誉れの高い人物だったようですが、後半生は法然を師事し仏門に入りました。 熊谷直実はお寺をたくさん建てていますが、その中に京都、現在の京都府長岡京市の山手に作ったのが念仏三昧院というお寺があります。 これは後に光明寺という名前を天皇から与えられます。 中川路という名前は指宿市の「中小路」にたくさんいます。中小路と中川路は元々は同じで、中小路が元祖的名前だった可能性があります。 昔の南日本新聞に中小路が中川路に転じたという記事があったそうです。 中小路は京都にたくさんある地名でもあり名前でもあります。 そこで、「中小路」という姓のルーツを調べてみると、京都府向日市上上野町が発祥の地ということが分かりました。 現在の阪急西向日駅の南東側に「北小路」「南小路」「西小路」という地名が今もあります。この辺りが「中小路」姓の発祥の地らしいです。 なんと「中小路」発祥の地から真西に向かって3qほどのところに光明寺があるのです。 ちなみに、「中小路」発祥の地は、平城京が平安京に遷都するまで10年間都として存在した長岡京の一角です。 長岡京遷都を決行したのは他でもない桓武天皇です。 不思議な縁です。偶然とも思えない名前と位置関係です。 また、推定です。 平氏一門の一部は中小路に住んで居た可能性は高いです。平盛方の家臣達も住んで居たのかもしれません。 だから、熊谷直実は祖父の縁の地である中小路の近くに光明寺を建てたのかもしれません。 ですから、中川路家が元は中小路で平盛方を祀ってもおかしくない説が出来上がります。 でも、中小路の一部の人たちが何故鹿児島まで、平盛方を祀りながら流れてきたかのかは謎です。 この社には文字はどこにもありませんでした。 私は子供の頃から探究心があり、この社の隅々まで、何か書いてないか調べた事があります。 どこにも書いてありませんでした。秘密の社であった事は事実です。 見つかってはいけない社だったのかもしれません。 ただ、この社を守る人々は中小路に住み、3家「中川路」「新小田」「大小田」であったのです。 その中心が「中川路」でした。 薩摩における「中小路」の役割を調べると何かわかるかもしれません。 私の高祖父は明治の初めに亡くなったので、戸籍が残っていました。 何と、生まれた年もわかっています。 天保11年10月8日生まれです。 あの「天保の改革」の時代に高祖父の父は出生届を届けていたのです。 つまり、その時代に「中川路」の名字はあったということです。 名字があるということは武士に近い身分だったと推定されます。 でも、薩摩藩の家臣の名簿には中小路もありません。 中小路が隠れてやってきたのはやはり、平安後期か鎌倉時代の初期であったと思えます。 当時は隠す必要があったと推定されます。 隠す必要がなければ、社に何か文字を残しているはずです。 堂々と土地の名前に中小路を付けたのは後世の事でしょう。 たとえば、追われる事がなくなったので、中小路、中川路を堂々と使い始めたかもしれません。 インターネットで限界が来そうです。 古文書関係に手をつけないと分からないかもしれません。 まあ、どこまで、知りたいかです。 私は昔の社が目に焼き付いているので、この謎は生きている間は調べます。 ここまで、書くと分かるように、 中川路家、T、U、V、W、等はかなり昔から分かれて居たと思います。 私の目的であった全家の統合は夢物語になりそうです。 ただ、そんな昔から存在していれば、もう少し、人数が多くても良さそうなものです。 全国の電話番号から名前の人数を推定しているサイトがあります。 ここです。題名がないので、、、 ここに なかかわじ>なかがわじ (なかこうじ) 460人 内40%が鹿児島 他に神戸とあります。 誤差を考えても1000人も居ません。 ネズミ算で子孫の数を推定すると、江戸の中期ごろに中川路が発祥すると良い感じになるので、 当時の名前の付け方に何か裏があるのかもしれません。 地方に移り住んだ人たちは消滅していったのかもしれません。 長々と書いてしまいました。 ロマンが見え隠れしてるのですが、もう一歩観えません。 もう少し、調査を続けます。 全国の中川路さんからの情報も宜しくお願いします。 2012.6.吉日 |