Memento-Mori

2001.10.24 8回目の月に

 
 



死はこの世で最強の「拒絶」。
生きてほしいという望みを無惨にも拒絶する最終宣告。
どんなときも一緒だと誓ったのに、最後の最後でそれを「拒絶」されてしまう。
だって「一緒に」死ぬことが不可能な限り、
やっぱりそれは「拒絶」でしかないよ。



死があるから生が濃密で光り輝くものになる。
生があるから、死が救いのないものになる。



あなたの魂がどこかにあるのなら、
どうしてあたしの身体に入ってきてくれないんだろう?
そうしたら、どんなところに行っても何を食べても、
あたしがあなたの目となり口となることができるのに。
あたしの意識なんてどうでもいいから、あなたの魂の媒体になりたい。

「今を切に生きる。」
瀬戸内寂聴の言葉。
「今」悲しみだけにどっぷり浸りきれるのなら、それもありなんだってさ。
でも、悲しみすら認められないあたしは「切に」なれるものがないよ。


自分がもし明日死んだら。
、、、やばいな。見られたくないものがいっぱいある。
そう考えると、いつ死んでもいいように、日々をシンプルに、
(これが「今を切に生きる」ということなんだろうが)しておかなければならない。
だけどあたしにはまだそれができない。



死ぬために生まれてきている。
それなら死はゴールなのか?何のゴール?



骨はやっぱりただの「骨」だ。
それでもあたしが骨にこだわるのは、それが肉体の「証拠」だから。
記憶なんて曖昧なものに頼るよりよっぽどリアルな「存在証明」だ。
あの人の存在の証拠だから、あたしが存在しているうちはあたしが持っていたい。



あなたが言いたかったこと、全部あたしが言ってあげる。
あなたがやりたかったこと、全部あたしがやってあげる。
それをやり終えるまで、そのためだけにあたしは生きてる。



切り花に嫌悪を感じる。
すべての花が、献花のために切ってあるような気がして。
もう、あなたに花を飾りたくない。
だって、花が飾るのは女と死者だもの。



子供は大人を必要としていない。子供は自分の世界で生きていく。
娘を見ているとそれがよくわかる。
小さな子猫ですら、世話を必要としていない。放り出されれば、
自分で餌を探し糞をし生きていくだろう。
人は、イキモノは、ひとりで生きている。
なのに、どうしてあたしはこんなにあんたを必要としているの?
もう誰にも必要とされない「生」に、何の意味があるんだろう。


あたしに死んでほしくないと思う人が何人かは存在するだろう。
だけど、それってどの程度の「必要」?
あたしがいなければ生きていけないのは、
あの人以外に誰がいるの?



想い出の量と悲しみの深さは比例するんだろうか。
それとも反比例?
老夫婦の死別を見ていると鬼畜なあたしはそう思うよ。
「40年も一緒にいたくせにそれ以上何を求めるんだよ!」って。



美談にしないで。
「いい奴だった」で終わりにしないで。
もっと生々しい感情や出来事がたくさんあったはずなのに、
それを風化させないで。
「なかったこと」にされてしまったら、それこそがアナタにとっての彼の「死」。


あたしの中はからっぽだ。
色即是空、空即是色。
この空(そら)の下で、どれだけの人が「空」(くう)を抱えていきているんだろう。



ただ映像だけがつぎから次へと溢れだしていく。
これが「想い出」なんだろうか?
こんなあっけないものが?




(いるのなら)かみさま、おねがいです。
もうわかりました、こどくがどんなものかじゅうぶんわかりましたから、
わたしを楽にさせてください。
あのひとをわたしにかえしてください。




 





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