| 父への鎮魂詩 |
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第2章 長い夜の始まり 今日、父の百か日法要も無事に終わり、葬式以来それぞれの生活に戻り過ごしてきた家族が、今また集まり、父との思い出にみんな浸っている。 そして、それぞれの生活に追われる毎日が続く中、今病院の父と過ごした長い夜の出来事を頭の中で想い出している。 父も出席してくれた僕の結婚式から早や1年3ケ月が過ぎ、3ヶ月前に息子も生まれ生活も安定した状況の中、毎日が子供に振り回される日々を過ごしていた頃であった。 この満たされた生活の中で、一つ気掛かりがあった。それは、1月11日に入院した父の容態が一向に良くならず、その上辛い検査で父の体も見る間に痩せ衰えてしまっていた。 2月になり再発の診断が下され、先生からは癌が胃からリンパに転位し、手術も出来ない状況との説明を受け、最期が近いことを知らされた。 病院側は、最期まで入院することは可能ですと言ってくれた。 しかし、僕としては父を自宅に連れ帰り最後は、畳の上でゆっくりさせてやりたかった。 しかし、現実的には1月から続く看病の疲労が重なった家族が、どこまでしっかりした看病ができるか心配でもあった。 最新医療により少しでも苦しまずにとの思いもあり、手術以来5年間ずっと側に居た母の気持ちにまかせることにし、病院で治療を受けることに決めた。その後、父の病状は一進一退の状況が続いていた。 その日はまだ冬の寒い毎日が続いていた昭和63年2月25日のこと。僕が36才の誕生日を家族と共に前日に迎えていた次ぎの夜の出来事である。 突然25日の昼、母から会社に電話があり、点滴を始めたとの知らせだった。 以前にも何度か体力の消耗が激しい時、栄養剤と抗ガン剤を投与した事があったので、それ程の危機感はもっていなかった。 しかし母が看護婦さんから、昨夜苦しがっていたので泊まってあげて欲しいと言われたとのこと。 今まで看護婦さんから言われたことがなかったので、僕も不安になり今日から又、安定を取り戻すまで泊まることにした。 以前にも病状が悪化すると、僕が夜泊まりで付き添い、昼は母が付き添う体制をしていた。 この日は早めに仕事を切り上げ病院へ行くと、まだ母もまだ帰らずに待っていた。 母は、毎日仕事を早退して病院へ来ていたが、具合の悪い時は仕事を休み、父の側に付き添っていた。 母も連日の看病と心労で、大分疲れている様に見えたが、父はすでに落ち着いた状態を取り戻し、意識もしっかりしていた。 ここ2ヶ月の土・日を、妹と交代で付き添いをしてきたが、妹も一段とやつれた状況だ。 僕が付き添うのも一週間ぶりである。 病室に入り、妹に二言三言声をかけ交代し家に帰した。 僕はいつもの様に父の体のマッサージをしてあげたが、足はパンパンにふくれあがり、腹もふくれているうえ目はくぼみ、手と腕は痩せ衰えていた。 しかし、神経はとぎすまされており、眼球は遠くを見据え目が合うと、心の奥を見据えるような冷たい視線を感じた。 これが父の本音なのか何をいいたいのかと心が寒くなる。 何も知らせていない我らの後ろめたさと、知っていても死を受け入れられぬつらさを一人抱えている父との、これがお互いの物いわれぬ凍り付く思いやりなのか! すでに完治する見込みの無い患者と、その人を看病する者との心理的葛藤は地獄かもしれない。 言いたくとも言えない言葉、それは思いやりのあるやさしい言葉。 患者がどれだけ苦しんでいるかを考えると、掛ける言葉もなく重い沈黙しかない。 お互い肌と肌をこすりながらその地獄に、お互い向かい合っていることしか出来ない現実。 ・・・ツライ 母は、今日も8時には帰るつもりでいたらしいが、今日の様子を考えて初めて泊まる決心をしたようだ。 親戚には、以前何度か容態が悪化した時に連絡して来てもらっているので、今回は辛いことだが最後のことを考えてギリギリに連絡することを家族で確認しあった。 病院内は生死の戦いが続いているのに、不思議なほど静寂に満たされている。 僕が来たのが夜7時頃で、2〜3時間は父の身の回りのことをしているとすぐに過ぎていった。 昨日の夜は、父が大分苦しんで廻りの患者の人達に随分迷惑をかけたそうで、今日静かに眠っているいるのは、家族が側にいることで父も恐らく安心したのかもしれない。 このまま朝が来ることを願い、母とは交代で起きていることにした。 そして、静かに夜も更けていった。 突然10時頃、先生方の判断で万一の場合と、また昨夜の様に苦しむことがあるといけないので2人部屋に一時移動することになった。 手際よく移動させられる父を見て、母も僕もいよいよかと顔を見合わせ、先生に話しを聞くことにした。 |
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