父への鎮魂詩

HISTORY コラム目次


第3章 父の最後の時

今日は昭和63年2月25日の夜、静かに病院の時間は過ぎている。
今ここで生死の戦いが始まっているのに、病院内は不思議なほど静寂に満たされていた。

突然10時頃先生方が、万一の場合とまた昨夜の様に苦しむことがあるといけないとの判断で、2人部屋の集中治療室に一時移動することになった。
手際よく移動させられる父を見て、母も僕もいよいよかと顔を見合わせ、先生に話しを聞くことにした。
先生の部屋に行くと、回診の時に撮ったレントゲン写真が張ってあり、説明を聞くと、すでに肺は白く濁っており、ほとんどいつ亡くなっても不思議は無いとのこと。
幸いあまり苦しまずに今までこれたのは、肝臓・腎臓・直腸と下腹部にあまり進行せず、胃から肺・心臓と上部へ転移していたために、脊髄が圧迫されずに来たためと聞かされた。
現在の状況では、出来る限りの手は尽くしたので、後は父の静かな眠りを待つのみと告げられた。
母も僕もすぐには父のそばには戻れず、気を取り直してまず僕の妻や妹に知らせ、親戚に知らせた。
しかし、今すぐどうなるとは誰も予測も出来なかったので、それぞれ明日早く来てもらえるようにお願いした。
そして気持ちを落ち着かせてから病室に戻り、二人で父の側に付き添っていた。
父は思いの他元気で意識もしっかりしており、お互いの暖かさを確かめる様に、母と僕は交代で体をさすってあげていた。

夜もふけ11時30分を過ぎようとしている頃、突然その時はやって来た。
父は母の姿を追うように目を移動させ、母が頭の上に来た時、父の眼球は止まりまばたきをしなくなった。息は自然にしている。
あわてて僕は、目をつぶるように父のマブタに手をやったが、眼球が飛び出していて、閉じようとしない。そこで、母に急いで先生を呼ぶように頼み、僕は夢中で父の胸をたたいていた。
すぐ先生達と看護婦数人が病室に来て、素早く心臓に電気ショックを与え、眼球を覗いている。体はまだ暖かく、かすかに眼に反応があり心拍もしっかりして来た。
この戦いがおよそ一時間も続いていた。

12時を過ぎる頃には、すでに意識はなくなり、眼球も開いたままとなり聞こえるのは、心臓の心拍を表示する機械の音だけが聞こえていた。
心拍が弱まりツーツーの音になると、電気ショックを与え強制的に心臓だけを動かす作業がむなしく続いていた。
あまりに父が可哀相に思え、12時30分にはこのまま眠らしてあげてほしいことを先生達に告げ、電気ショックを止めてもらった。
そして母と僕の見守る中、父は静かに眠るように逝った。

しばし呆然と母と僕は、父の側に寄り添っていたが、無情にも先生からの呼び出しがあり同時に、すぐに死装束の支度の為、看護婦さんが来て父の体を拭きはじめた。
先生からは、死因は呼吸不全と知らされ、出来れば献体をしてもらえないかとの依頼を受けたが、母は今までの先生方の御恩に報いるためにも承諾したいと言ったけれど、僕はまだ気持ちの整理もつかないので少し時間を貰うことにした。
しかし、親戚にも相談した結果、家族の考えで良いのではとの意見をいただいたので、母に一任して承諾することにした。
早速先生から献体するには、すぐに父の遺体を別の病院へ移動しなければならず、父が家に戻れるのは今日の夕方になるとのことを聞かされた。

ベッドに戻ると、父の姿はすでに白装束にきれいに着替えさせられていて、母と僕はその口元に死に水をしたしてあげたが、父の体はまだ暖かく今にも動くような錯覚を覚えた。
悲しんでいる余裕もなく、これからの葬儀の事を母と話すが、お互いどうしたら良いのか、誰に相談したらよいのか皆目分からないまま、どんどん時間が過ぎていった。
このやり場のない気持ちの動揺と悲しさとやるせなさの中、一旦家に帰ることにした。

父の荷物を整理し、病院を出たのは朝4時を少し過ぎて、外は少しづつ明るさを増し、冷たい風は我ら2人に突き刺すように感じた。

悲しんでいる余裕も側にいられる時間もないなんて、あまりにさみしすぎると僕は一人呟きながら歩いていた。



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