| 自分の精神構造を考える。 |
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自分が持つトラウマ的経験 平成13年11月20日 自分の生い立ちを考えて見ると、自分の人生は自分で切り開いてきたように思っていたが、いつも何かから逃げていたように思う。 問題がありそうなこと、居づらい雰囲気の場所、自分の勝手にならないところはいつも避けて生きてきたと思う。 いまさら自分の弱さや言い訳を書き連ね、自分が考えるトラウマ的経験を書くのは気が引けるが、今の自分が抱える悩みの原因を、自分の生い立ちに求めるのが一番楽な方法かもしれないと思う。 人には言えないが、自分のなかでくすぶるコンプレックスを吐き出すことで、何か気持ちの整理が付くかもしれない。 そんな思いで吐き出してみようと思う。 僕が思っている最大のコンプレックスの原因は、父親への恐怖と家族のために働いた母への不信感である。 まず、父親との関係がうまく築けなかったことが、僕にとって一番の原因だと思っている。 最初に父親に対する恐怖心と言う感覚を持ったのは、たしか小学校2年生の頃で僕の成績のことで、外の物置きに入れられた時がはじまりで、青年になってもこころを開いて話すことが出来ず、ただ良い子ぶることしか出来なかった。 今思えばそのベースとなる環境が家庭の雰囲気であり、母親の態度であろう。僕が小学校3年生の頃から母は働きだして、学校から帰っても誰もいない部屋で一人過ごす生活をして育った。さみしさに泣いた想い出に、学校の旅行から帰っても誰も話を聞いてくれる人がいなかったことである。 そして、いつもひとりで観る夕方のテレビ映画が、ぼくのさみしさを紛らわす唯一の逃げ場だったように思う。 父親は、戦争体験者で復員後に織り物工場の長女(母)と結婚し養子となった。しかし工場生活に馴染めず逃げ出して京都に居を構え、何年か後に我ら母と僕を呼び寄せた経験を持っていた。両親の性格は、お嬢さん育ちの母親と田舎育ちの父親では、性格が合わなかったと思う。そして貧乏生活を我らに強いることになった父親のプライドは、きっと辛いものがあったと思う。その上母親の育ちの良さと、形だけの従順さに父親は何か不足を感じていたのではないだろうか。 僕から見た父親は、無口でいつも怖い顔をして、テレビのチャンネル権を持ち、母親も何か避けているように子供心に感じていた。そんな雰囲気の中、成績の悪い僕は父親によく叱られたように思う。 そして、母親は働きに出てから、昼間は誰もいない家で留守番をし、母親が帰っても僕が甘える時間と余裕もなく家事の支度をし、父親に気を使っていた母を思い出す。 そのうち収入の良い仕事にかわり、土日も働くようになってしまった。僕はいつしか、母に甘える方法も忘れ、父親の関心から離れるために良い子を装い、日々暮すようになっていた。 子供のころの辛い想い出に、家から50mと離れていないところで上級生からタカリにあったことである。逃げればすぐ家に逃げ込めたのに、家には誰も居ない心細さで、けんかも出来ず断われず泣いて一人帰ったのを覚えている。 そして、強くなりたくて道場(柔道)へ通ったこともある。 いま考えれば、強くなるために精進するなら、両親に向かうべきもので、怒り・不安を本音でぶつけて、人間として成長するべき時代だったと思う。しかし、そこには両親は居ないし、父親に対しての恐怖は母親を含めぶつかって行くだけの環境ではなかったと思う。 吐き出すベき悩みを自分ですべて内面にしまい込み、いつか自分の人としての成長に影響が残ったのかもしれない。 いつしか、僕は家に居たくない気持ちが芽生え、早く家を出たい気持ちで一杯になったことを覚えている。父親との昼間(休日)2人の生活が、どうしても素直に向き合えなかったためだと思う。 その上、自分のなかでは、生活のため大学をあきらめて工業高校を選ばされたと思っている。その結果、高校卒業後すぐに入社した会社で転勤志願し、家から離れる(逃げ出す)道を選んだわけである。 その後、いまだに転々と問題から逃げ出しながら人生を歩み続けいる状態である。 いま改めて、自分の生い立ちを考えてみると恐怖に立ち向かう精神力を培う環境になかったこと、そして自分自身も立ち向かう勇気がなかったことに気付かされる。 現在の僕は、父親は亡くなり母親への確執を隠して、相変わらず良い子を演じて生活している。家庭生活では、よい父親を演じているのかもしれないが、社会に出ると皮が剥がれて精神のバランスが悪い大人として、いままさに精神的な問題を抱えた状態に改めて向き合っていると言える。 |
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